三、それは柳のような女


「うっそでしょ」


  蝴蝶フーティエはやっと花精ファジンから解放され、執務室を出ると、日が傾き夕焼けが差し込んでいる現状に思わず、言葉を漏らしてしまった。

  花精に捕まった時刻は正確には分からないが、昼餉前ではあった。昼餉をとることも忘れ、術式に使用する器具を覚えさせられ、気づけばこのような時間になってしまった。

 蝴蝶自身も、花精の情熱的な語り、具体的に言えば花精の病人を救いたい、という想いに応えるようにして、渋々ながらという態度をわざと出しながらも名前、使用方法を頭に叩き込むのに必死になり、時間を忘れていた。


「すっかりこんな時間ですねぇ」


 なに食わぬ顔で他人事のように、太陽よりも輝いているのでは、と思わせるいつもの笑顔を浮かべながら、花精は呟いた。

 花精が仮面を被るので、蝴蝶も慌てて自分の両の掌で頬を包み、顔をぐにぐにと混ぜて愛らしい仮面を被ろうとするが、すぐに大きなため息をついてしまう。


「何故それほどまでに落ち込んでいるのですか?」


 きりがついたので執務室から出ただけであって、どこへ行くともあてのない二人は、執務室を出てすぐのところで話していた。



「私としたことが、昼餉を抜いてしまったんです」


 はあ、とまた大きくため息をつく蝴蝶のその言動に、本当に理解出来ないように、首を傾げる花精。


「…欠食はよくある事ではないのですか?私も術式が長い時や、暇がないと食べない事も多いですけれど」


 何刻もの間、執務室から出てこなかったのに、痺れをきらしたのか、朝門の前にたかっていた女達の姿は、もう無い。


「あのですね、花精様」


 蝴蝶はじとりと花精を見るが、それは悪意のある視線ではない。


「薬石次之、という言葉を知っていますか?」


 そう問いかけるが「知ってる」という言葉が返ってくるわけでもない花精の様子を見れば、知っていない事が伺える。


「鍼も薬も二の次、という事ですよ。…つまり、日々の食事が基本なんです!規則正しい食生活は、予防にも、治療にもなるんです」


 確か蝴蝶が医女の科挙テストを受けた際に、この言葉だけを出されその意味を答える、という設問が出たなと昔の事のように思い出す。毎回科挙の内容は同じではないといえ、医学の道へ進む者ならば、一度は耳にする言葉のはずだが、と不思議に思うが、そんな疑問が長く頭に定着するわけもない。


「治す側の私たちが、基本的な生活がままならず、病人から病の気を貰っては意味が無いでしょう?なので、そのために私たちは、誰よりも、体調管理に気をつける必要があるんです」


 蝴蝶の言葉になるほど、と感心した様子を見せる花精を見て、いい気分になり、つい舌がよく回ってしまう。最後にえへん、とちょっと威張って見せると、花精は目を細めて笑った。


「偉いですね、蝴蝶は」


 今まで、笑みは精密に作られ、美しさを千里先まで響き渡らせるような笑みか、意地の悪い笑みしか見せなかった彼の、何か愛でるように、この瞬間を瞳の奥にしまい込むように、目を細めて笑う様子を見た蝴蝶は思わず、縫い付けられたように固まってしまう。

 そして何故か、熱がじんわりと顔に上がってくる。


(いや、顔が良いだけよ、しっかりして私!)


 自身を誰よりも愛してやまない蝴蝶の心までも惑わせた、蠱惑的な笑みを浮かばせながら、彼は美しい唇を薄く開いた。


「では今から少しだけでも食べては遅くないですか?」


 期待をしていた。花精の紡ぐ言葉に、何かの期待をしていた蝴蝶が居た。

 けれど何のこともない会話に蝴蝶は拍子抜け、はっと我に返る。


「あ、ああ、そう、ですね、えっと…夕餉に支障を来さない量であれば、ええ」


 何を期待していたのか、否、どんな言葉を期待していたかなど分かっている。分かってはいるが、言われ慣れたそんな言葉を聞いたからといって、今更なんだというのか。蝴蝶は動揺した気を紛らわせるように、なんとか言葉を発する。


(この男は他の誰より顔立ちが美しいだけ)


 違いなどそれだけで、結局のところ、全ての人間が自分を愛することは必然なのだ、何と言われようと関係ない。


「どうかしましたか?」


 蝴蝶の明らかな動揺に、身体を少し横にして顔をのぞき込む。視界に無理矢理入ってきたその甘い顔を見ると、何やらおかしくなってしまいそうで。


「なんでもないです!さっさとつまめそうな間食を貰いに行かないと、夕餉が食べられなくなりますよ!」


 反射的にそっぽをむいて花精が顔を覗き込んできた方とは真逆へすたすたを進む。


(やはり顔が良すぎるのは危険ね)


 蝴蝶は、自分も顔がいいと強く自負しており、そのせいで産まれた厄介事も多い。こうして人の心を狂わせるのは、そのせいなのだろうと、言い聞かせるようにして何も考えずに足を出していた。


「そちらに行っても何も無いと思いますけど…」


 はっ、と足を止めると廊下はそこで終わり、欄干が通せんぼしていた。


「う、知ってますよ!」


 言い訳にもならないような、子供じみた返事を必死に返してしまう。花精は蝴蝶の変わった様子に、上品に笑う。


「あの…」


 ふと、蝴蝶の耳に女の声が入る。ぱっと聞こえた方、後ろを振り返るが誰の姿もない。


「花精様、今、女性の声が聞こえませんでしたか?」


 そう尋ねると「聞こえてないですね」とにこりと返す。


「あの〜」


 また、聞こえた。


 声のした方へ身体を完全に向けて、欄干に手をかけ左右に視線をやるが、そのような姿など見えない。

 花精も蝴蝶の様子を不思議に思い、近づいて同じように見渡すが、やはり何も見つからない。


「下、下です」


 二人して驚くように、ばっ、と下を覗き込めば、長い黒髪をだらりと垂らした隙間から、こちらを覗く、背の丸い女が居た。

 まるで柳のような女を見て何を思ったのか、花精は蝴蝶の医女のチョゴリの裾をぎゅっと握った。




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