神業

一、朝


「傷、痛むかもしれないけれど、頑張って食べてね」


 いつも通りの朝。

 いつも通り朝餉を用意し、いつも通り病人へ配膳する。

 いつも通りの愛らしい笑顔を浮かべて、いつも通り老若男女問わず愛される。


 それは、非日常的な体験をした夜が明けた朝だった。


「ありがとう、おねえちゃん!」


 喉元に包帯を巻いた男の子が、満面の笑みで返す。食事は重湯と、具のない肉汁スープのみと質素ではあるが、今日の朝仕入れた、林檎で絞り汁ジュースをさらに裏ごししたものを提供する。

 他の病人にも、もちろん、それぞれに合った食事を提供している。それが、それだけが彼女の仕事であるから。


(さて、に見つからないようにしないと)


 いつもならば病人全員に声をかけて回るが、昨日の夜起きた色々な事情により、彼女はとある男を避けており、病人との対話をほどほどに切り上げ、きょろきょろと周りを伺うと、どこへ身を隠そうかと伺っていた。


「あぁ…!」


 わっ、と多数の女の色めいた声が上がる。

 ここ数日前から恵民署ヘミンソにやってきた、とある眉目秀麗で顔が良すぎる男のおかげで、病人でもない野次馬が目立つ事が多くなった。おそらく、その声の主達は目的の男が視界に入ったので、歓喜の声をあげたのだろう。

 しかし彼女はというと、その声を合図かのように柱の影にさっと隠れる。

 そして、そろりと声のした方を見れば案の定、執務室からあの男が出てきたところで、病の気もない女達が恵民署の扉から通れない程に並び、一目でもあの男を見ようと、押し合い圧し合いの争いをしている。


「何してるの」


 柱の影に隠れ、その様子を伺っていた彼女に話しかける医女がひとり。


秤娘チォンニャン


 彼女がそう呼ぶ医女はちょうど、ここを通りかかったようで、彼女の奇行に怪訝な表情を顔に浮かべている。


「まさかと何かあったの?」


 秤娘があの人、と呼ぶのは今まさに自身を目当てに、恵民署の入口を占領する女達を相手に、邪魔になるから道は開けておいてくれ、と優しく諭すように説明している男のことで。


「ま、どうせ貴女が優秀だからって、あの変な施術の助手にって頼まれてるところなんでしょ」


 心底興味が無いからこそ、客観的に物事を見て見透かせるのだろうか。曖昧な返事しか出来なかった彼女はぎくり、と図星のあまり硬直してしまった。

 秤娘もまさか、本当に当たるとは思って居なかったらしく「驚いた」と呆れ半分に言葉を漏らす。


「私には関係無いからね、じゃ」


 ふい、と顔をそらして秤娘はそのまま彼女を放って、すたすたと薬庫の方まで歩いて行ってしまった。

 いつも通り、愛想の無い秤娘の後ろ姿にべーっと舌を出す。


 さて、どうしようかと彼女はまた周りを見渡す。なるべくあの男に見つからないように移動したいが、柱から柱は遠く、どうしても今恵民署の入口に何やら大荷物を持ってきた連中を相手している、あの男に見つかってしまう。


 と、考えていれば、彼女の死角から肩をとんとんと誰かからつつかれる。


「!」


 まさか見つかったか、と思い慌ててそちらに視線を向けると、彼女が最悪の予想をしていた人物とは違った。


元牛ユェンニウ!…いい所に来たわね!」


 元牛と呼ばれた医学生は、彼女の頭何個分も上から嬉しそうにへらりと笑う。それもつかの間、彼女は元牛を茣蓙が広げられた中庭側に立たせ、自分は影になるように回る。

 元牛の体格は彼女の横にも縦にも大きく、後ろに隠れれば前からではすっかり見えなくなってしまう程。こうすれば、今茣蓙に座り診察を待っている病人の居る、中庭を回っているであろうあの男に、見つからなくてすむ。


「ねぇ、何してるの?」


 元牛は彼女の行動の理由が分からないらしく、姿勢を変えて彼女を見ようとするが、すぐさま庭の方を向くように肩を押される。


「いいから!私をこのまま後ろに隠して、そうね、薬庫…応接間にでも連れて行って!」


 彼女のお願いの内容を不思議には思うも、元牛は片想いをしている相手を無下にできる訳もなく。

 横歩きで彼女を隠し、少し不格好ながらも進んだ。


 ところで、元牛の後ろに隠れたはいいものの、あの男の動向を掴めなくなってしまった。相手からすっかり見えなくなるということは、自身も相手を見る事が出来なくなったということ。


「ねぇ、あの人は今、何してる?」


 慎重に進みながら、そう尋ねた。察しの悪い元牛は「あの人って?」と返すので、提調チェジョの事だと言えばああ、と声を漏らした。


「今さっきね、提調様宛に荷物が届いたらしくて…結構な量だったんだけど、それを執務室に運び込んでいたよ」


 つい先日まで、元提調の魚運ユーユンの私物が出払って以来、物寂しい雰囲気を漂っていた執務室だったが、どうやら本当に、この恵民署の提調として居座るつもりらしい事が伺える。

 それと同時に、彼女は昨日の夜の出来事を思い出し、あの治療も今後本当にするつもりなのだろうか、と考えたところで、そんな未来考えたくもないと首をぶんぶんと振りかき消す。


「それでね」


 元牛はぴたりと足を止める。


 まさか。


「今、目の前に居るよ」



「やあ、おはようございます」



 甘い声が明らかに、彼女に向かってかけられる。

 中庭の方から見えないようにと、配慮はしていたが、真っ直ぐ伸びる廊下の先からは彼女の姿など丸見えで。

 恐る恐る、声のした方へと顔を向ける。


「探しましたよ、蝴蝶フーティエ


 彼女、そう、蝴蝶はあの人に見つかってしまった。


花精ファジン様」


 元牛の背中で顔を引き攣らせながら、その男の名を呼んだ。


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