第十八話 足摺岬

 八月十二日金曜日。成達は午前十時にホテルのロビーに集まった。渚とキオは昨日のお互いの態度を詫び、それを見た成とミチコがホッとした表情で顔を見合わせた。

 ホテルを出て中村駅前の停留所でバスに乗った。成達の他に客は四人しか乗っていなかった。その中には観光客と思われる外国人もいた。

 バスが発車して市街地を抜けると四万十川が見えてきた。四万十川に照り返す青空と山の緑のコントラストが美しく、ゆったりとした自然の中を走っていると心が穏やかになっていく気がした。途中にある停留所から客が乗ってくることはほとんどなかった。

 バスが山道を走り、海沿いの道を抜け、出発から約一時間経過した頃、土佐清水市内の小さなショッピングセンターの前の停留所に停まった。そこで買い物帰りと思われる老婆達が大勢乗ってきた。バスの中にいる若者は成達と外国人の男だけであった。

 バスが走っている間、老婆達は楽しそうにお喋りをしていた。東京と比べると若者も娯楽も少ない町だが、老婆達は幸せそうだった。実際のところはともかく、少なくとも成にはそう見えた。

 老婆達は各々の家の近くでバスを下りていき、足摺岬に近づく頃まで車内に残っていたのは中村駅前で乗車した人達だけであった。


 終点の足摺岬前停留所に到着すると乗客全員がバスを降り、それぞれ足摺岬の方へ歩いて行った。停留所の周りは閑散としていて、寺院と誰もいない売店が二軒あるだけであった。時刻は正午過ぎで、夏の眩しい日差しが岬に降り注いでいた。

 足摺岬の方へ歩いていくとジョン万次郎の銅像があったので、他の観光客に頼み四人で写真を撮った。その後、今は花が咲いていない椿の木のトンネルを抜け、ちょっとした高台のような形の展望台に登った。

 展望台から眺める景色は雄大であった。広大な海と空が訪れる人々の瞳と心を青に染める。南の方に白い灯台がそびえ立ち、眼下では激しい波が崖に打ちつけられている。成達はしばらくの間、その風景に見惚れていた。

「足摺岬はなんで自殺の名所になったんだ?」

 成が渚に訊いた。

「四国巡礼って聞いたことあるでしょ? 四国の中を八十八箇所巡るやつ」

「巡るのは主に、平安時代の僧である空海の縁の寺院ですね。さっきバス亭の近くにあったのが三十八番礼所の金剛福寺です。」

 渚の説明にミチコが補足した。

「そうそう。今でこそ観光みたいになっちゃってるけど、昔は信仰のための厳しい修行だったの。それで、生きることに疲れた巡礼者が金剛福寺に辿り着いた時、この岬から飛び降りてしまうということも少なくなかった。そんで、昭和中期の苦しい時代に足摺岬での自殺を描いた小説が出版されて、自殺の名所として有名になったってわけ」

「巡礼は自らの意志で行うもので、病気になったり罪を犯したりして故郷を追われた人達が病の治癒や贖罪を求めて巡礼の道を歩くこともあったんですよ」

 ミチコが再度補足。

「まだ謄写版と鉄筆で文字を印刷していた時代の話だよ」

「なるほどな」

 成は展望台の中央にある石の円盤に座って話を聞いていた。円盤には方位を示すマークと「四国最南端」という文字が刻まれていた。

「いろいろなところに行って、私達も巡礼者みたいだね」

 渚がそう言うと成は「お前らは病気になったり、罪を犯したのか」と思ったが、キオがいる手前、口には出さなかった。キオはずっと空だけを見ていた。


 その後白い灯台を間近で見てから、遊歩道を歩いて白山洞門へ向かった。遊歩道には足摺岬の七不思議について説明した看板が点在しており、渚がそれら一つ一つに対して丁寧にいちゃもんをつけていった。

 しばらく歩いていると崖下へ続く階段が見つかり、そこから下りると途中に白山神社の鳥居がぽつんと立っていた。更に階段を下りると、砂ではなく大小さまざまな石で埋め尽くされた海辺に出る。その目の前にあるのが白山洞門だ。波の浸食によって崖の下に穴が空き、巨大な門のような形となっている。その穴の中で、波が白い飛沫を撒き散らしながら獰猛な生き物のように寄せては返していた。こんな荒々しい流れに飲み込まれたら一溜まりもないだろう。成は足摺岬が自殺の名所と言われる所以を実感した。

 海辺には、まるでここが三途の川であるかのように積み上げられた小石が幾つもあった。成はそれを見て、ここでも黙祷を捧げることにした。この荒波に飛び込んで散っていった人々や巡礼者達に対して。

 渚とミチコは波打ち際まで近づいて、二人ではしゃいでいた。成とキオはそんな光景を眺めながら黙って佇んでいた。


 バスの停留所の近くまで戻り、古びた売店兼レストランで遅めの昼食を取った。その後、渚とミチコは金剛福寺の中へ入っていった。金剛福寺は平成大修理の真っ最中らしく、参道の脇に大穴が空いており、その中で工事業者が何かの作業をしていた。それを横目に遍路の恰好をした老人の集団が参道を歩いていた。

 成とキオはもう神社には飽きてしまっていたので、近くの山道を散策することにした。当てもなく車道を歩いていると山側へ続く小道があり、その入口に木の看板が立っていた。


 木の股地蔵

 ・子授け

 ・水子××(流産)


 看板の表面が一部剥がれてしまっていて読めない部分もあったが、それを見たキオは迷わず小道へと進んでいった。

 そこに生えている木は根元が人間の股のように二つに分かれており、股の間に地蔵が祀られていた。そして、地蔵の周りには供養の花の他に子供用のおもちゃが供えられていた。きっと流産で子供を産めなかった親達が供えた物だろう。供養には場違いのように見えるキャラクターの人形が余計に親達の悲しみを物語っている。キオはしばらくの間それを眺めていたが、やがて独り言のように呟いた。

「なあ、さっき行った海辺で石が沢山積まれていただろ?」

「ああ」

「あれを見た時な、恵人が俺と秋穂のために石を積んでくれたように見えたんだ。あそこは三途の川じゃないのにな」

 成は何と答えたら良いのか分からず黙っていたが、キオは続けた。

「白山洞門も、なんだか天国への門に見えちまったよ。あいつが天国へ行けていると良いんだが」

 キオはあの日以来、誰もいない裁判所で一人で判決を待ち続けていた。しかし、審判を下してくれる者は現れなかった。

 やがてキオは来た道を引き返した。

「もういいのか?」

「あいつはもういないんだ。いない者に何を祈っても、何も変わらない。それに……」

 キオの声が少し震えているような気がした。

「あいつは生まれて来ることができなかった。でも、。だから、これでいいんだ」

 成はキオの後を歩いていたので、キオが今どんな表情をしているのか分からなかった。


 バスの到着時間に合わせてバス停に集合した。成達の他に、ここへ来る時に同じバスに乗っていた人達もいたが、外国人の男はいなかった。

 バスが出発してからしばらく経つと、山道の停留所で遍路の恰好をした巡礼者がバスに乗ってきた。

「バスで巡礼するのは有りなのか?」成はミチコに訊いた。

「大切なのは信じる心ですよ」ミチコはそう言って微笑んだ。


 バスが中村駅前に到着する頃にはもう夕方になっていた。今日はどこに泊まるか決めていなかったが、また中村駅周辺のホテルに泊まることにした。

「なあ、俺ちょっと銀行で金下して来るから待っててくれ」

 キオはそう言うと、ロータリーの先にある道路の更に向こう側にある銀行を指差した。そして成とすれ違う時、成だけに聞こえるように小声で囁いた。

「成、お前は死ぬなよ」

 成は振り返ったが何も言えなかった。

 ああ、あんた、これから死にに行くんだな。秋穂さんを傷付けてしまった時と同じ方法で。俺にはどうすることもできないけど、先に行って待っていてくれ。

 成は黙ってキオの背中を見送った。


 キオは道路へ向かいながら秋穂のことを思い出していた。

 あの日、俺が秋穂を追いかけて声を掛けなければ、少なくとも秋

 穂は轢かれずに済んだんだ。恵人を堕ろすと言ったのは残念だったが秋穂は元気に生きていけたはずだ。こうなったのも俺のせいだ。だから俺も秋穂と同じように轢かれて、報いを受けよう。

 だがしかし、とキオは思った。

 毎日あれほどお腹に向かって恵人恵人と呼んでいた秋穂が、あの日は「子供」と言っていたのが悲しかった。もう恵人は秋穂にとって特別な存在ではなくなっていたのだ。その恵人も車に轢かれたせいで死んでしまった。

 道路に近づいてきた。車が次々に横切っていく音が聞こえる。キオは走り出した。これが人生最後の全力疾走だと言わんばかりに。だが道路に飛び込む寸前のところで胃が痛み、よろけてしまった。

 くそっ、最期の最期までこのクソ胃癌と一緒かよ。まあいい、共に地獄へ堕ちようぜ。

 キオは走っている車の前に飛び出した。けたたましいクラクションの音が聞こえた。

 恵人、今そっちに行くよ、それに……ケイト、お前もな。

 空気を切り裂くようなブレーキ音と共に車がキオに激突した。キオの意識はそこで途絶えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る