第5章

第十六話 レクイエム

 キオこと針山幹生はいつもと同じように、疲弊した体を満員電車に運ばれながら帰宅していた。今日は折角まとまりかけていた商談が幹生のミスでおじゃんとなり、部長に怒鳴られてしまった。それに加え慢性的に胃がキリキリと痛むことがあった。

 こんな日は早く帰って、恋人である秋穂の声が聞きたい。

 秋穂とは幹生が勤めている会社で出会った。幹生が入社五年目になる時同じ営業チームに新人の秋穂が配属され、仕事について丹念に指導をしている内に情が移ってしまったのだ。

 幹生の方から交際を申し込み、その後も順調に進展した。幹生は今では別のチームに異動しているが社内では公認のカップルとして知られており、結婚も間近ではないかと噂されていた。秋穂と付き合い始めてから約二年、幹生も今年の五月で三十歳になり、そろそろ秋穂と結婚したいと思い始めていた。

 家に着いてリビングのソファーに腰掛けた時、スマホに秋穂からの着信が入った。

 秋穂は今日体調不良で会社を休んでいたが回復したのだろうか。

 すぐに電話に出ると、秋穂が「会いたいから、今からそっちに行ってもいい?」と聞いてきた。たまらなく嬉しくなり、即座に了承した。まだ午後八時過ぎだから時間はある。たちまち秋穂を抱きたい衝動に駆られた。

 秋穂は幹生の部屋に到着してもすぐに玄関から上がらず、何かを言いたそうに俯いていた。

 やがて、意を決したように幹生の目を見た。

「私、赤ちゃんできた!」

 突然の宣告と秋穂の強い意志を秘めた瞳に気圧され、一瞬固まってしまった。しかし、すぐに我に返り秋穂を抱きしめた。

「結婚しよう」

 迷まずにそう言った。幹生の胸の中で秋穂が「うん!」と声を弾ませた。強い意志を秘めた瞳は涙に濡れていた。


 翌週になっても胃もたれのような痛みは続いたが無理をして出勤した。胃の痛みに加えて、貧血になることもあった。

 秋穂が妊娠して幹生がプロポーズしたことを上司に報告すると、その話は社内に瞬く間に広がり二人は祝福された。秋穂は恥ずかしそうに、されど幸せに満ち溢れた笑顔で同僚の祝福を受け止めた。

 後日、生まれて来る子供が男の子だと分かり、恵人という名前に決めた。恵まれた人生を送れるように、という願いを込めて幹生が命名したのだ。幹生と秋穂は恵人の誕生を心待ちにした。

 だが、そんな幸福とは裏腹に幹生の体調は悪化の一途を辿っていた。吐き気を催すことが多くなり食欲も失せた。秋穂には心配をかけたくなかったので、ただの体調不良という風に伝えていた。薬を飲み、無理をして仕事をこなした。


 しかし、遂にその日は来た。

 幹生はとうとう仕事をすることが困難になった。黒色の便が出た時になってようやく、会社を休んで病院へ行くことに決めた。医師に症状を伝えるとバリウム検査を行い、胃カメラで胃の中を見られた。

 検査を終えた後、医師は神妙な面持ちで「ご家族の方を呼んだ方が良いかもしれません」と告げた。幹生は焦った。

 御家族って何だよ? 俺はこれから結婚の準備で忙しくなるんだよ。胃がちょっと調子悪いだけだろ? いいから早く治してくれよ。

 幹生は「家族は呼ばなくていい」と医師に伝えた。

 病名はスキルス胃癌であった。幹生は呆然とした。医師の話が頭の中に上手く入らない。スキルスというのはよく分からないが、とにかく癌だということは分かった。

 更に、命が助かる可能性は低く抗癌剤で進行を遅らせることしかできない状態であることが告げられた。

 頭の中が真っ白になった。これから待ち受けていたであろう、秋穂と恵人と共に歩む幸せな人生が砂の城のように崩れ去った。

 幹生はその日から入院することになった。両親は幹生の症状を知り、一晩中泣いた。


 次の日秋穂がお見舞いに来たが、まだ心の整理がつかず胃癌であることは秋穂には伏せた。両親にも口裏を合わせるように頼み、会社にも胃潰瘍だったと連絡しておいた。

 まだ幹生自身がこの現実を受け入れることができていなかったのだ。秋穂に話してしまったら癌であることを認めることになる。幹生にはその勇気がなかった。

 しかし、そんな嘘も長くは続かない。ある日トイレから病室へ戻ると、待っていた秋穂が幹生に問い正した。

「ねぇ、幹生って癌なの?」

 秋穂は顔が真っ赤になり、涙が溢れそうになっていた。幹生は青ざめた。

「どうしてそれを……?」

「幹生がトイレに行ってる間、看護婦さんが声を掛けてくれたの。癌でも諦めずに治療を続けていれば、長く生きられるから一緒に頑張りましょうって」

「そうか……」

 流石に看護婦にまで口裏を合わせてもらうのは無理だった。いつかバレていたこととはいえ、自分の口から言えなかったことが胸を痛めた。

「お願い、正直に答えて。幹生の命は助かるの?」

 幹生は観念して目を閉じた。

「助かる可能性は、低いと言われた」

「どうして……」

 秋穂は泣きじゃくった。

「どうして、すぐに教えてくれなかったの? 私のことを誰よりも愛していて、信じてくれているんじゃなかったの?」

「すまん。これからのことを考えると、どうしても言い出せなくて」

 幹生は頭を下げた。

「黙っていても、どうにもならないでしょ!」

 秋穂は悲痛な叫び声を上げ、病室から去って行った。

 確かに秋穂の言う通りだ、俺は大馬鹿野郎だ。

 幹生はどうしようもない後悔の渦に飲み込まれていった。


 それから一週間が経過したが、秋穂はあの日以来一度も姿を見せず電話やメールにも応答してくれなかった。会社にはスキルス胃癌であることを報告し、退職の手続きを始めた。一度上司が面会に来たがこの世の物とは思えなくらい絶望的な表情で、幹生の方がなんだか申し訳なくなってしまった。

 今思えば、胃の調子が悪いという兆候はかなり前からあった。いつからか覚えていないくらいだ。だが仕事に少しでも穴を空けたくなかったし、胃もたれがちょっと長引いているだけだと思っていた。そうしたらこの様だ。最初に違和感を覚えた時点で病院に行っていれば良かったんだ。

 しかし、幹生にはもう後悔をする気力すら残っていなかった。もう結婚も無理だろうが、秋穂と恵人が健康に生きてくれればそれでいいと思っていた。


 秋穂とは相変わらず連絡が取れず途方に暮れていたが、ある日秋穂から「もう一度会いたい」という連絡が来た。幹生はとても嬉しく思った。

 俺はもう長くないかもしれないが、俺の貯金やら退職金やら積立金を全部やるから、その金で恵人を立派に育ててやってほしい。恵人が生まれるまでは俺も頑張って生きてやる。

 そんな話をしようと思っていた。しかし、秋穂の話は幹生の想像から大きく外れていた。

「私、子供産むのやめる」

 秋穂は少し膨らみかけたお腹を悲しそうに撫でながらそう告げた。幹生は言葉を失った。

「ごめんなさい。私、子供堕ろして、会社も辞めて、実家に帰る」

 目の前が真っ暗になった。秋穂が何を言っているのか理解できなかった。

「どうして……」

「ごめんなさいっ」

 秋穂はそれしか言わなかった。

 なんで、なんでそんなこと言うんだよ? お前は俺を愛しているんじゃなかったのかよ?

 そう思ったところで幹生はハッとした。それは一週間前に秋穂が自分に言ったことと同じ言葉であった。

 俺が秋穂に癌のことを隠していたからか? だが、それが何だと言うんだ。そんなことで子供を産むのをやめるって言うのか? その程度のことで、これまで培ってきたものは冷めちまうのかよ?

 しかし、冷静に考えて見ると秋穂の言いたいことも分からないでもなかった。もし幹生が死んだら、このご時世に女手一つで子供を育てていくことになる。それは容易ではないはずだ。とてつもなく苦労することになるだろう。それに秋穂はまだ二十五歳だ。まだまだ遊びたい年頃だろうし、人生いくらでもやり直せる。そう考えると秋穂に何も言い返せなかった。

 秋穂が病室を去った後も幹生は黙って考え込んでいた。

 俺のことは見捨ててもいいし、新しい旦那を探してもいい。だけど……恵人は堕ろさないでほしい。恵人は俺がこの世に生きた証なんだ。恵人がいなくなったら、俺が生まれて来た意味がなくなってしまう。

 幹生は秋穂にそう伝えようと決心した。今ならまだ走れば間に合うかもしれない。

 病室を飛び出して廊下を全力で走った。看護婦に怒鳴られようが胃が破裂しようが、そんなことは知ったことではない。

 頼む、間に合ってくれ。

 裸足のまま病院の出口を飛び出したところで秋穂の姿を発見した。ちょうど病院前の大通りの横断歩道で信号待ちをしているところだった。

「秋穂!」

 幹生は叫んだ。彼女の心の果てにまでに響くような大きな声で。振り返った秋穂は幹生の姿を見て目を見開いた。そして、横断歩道を走って渡ろうとした。

 危ないっ、幹生がそう思った時にはもう遅かった。まだ信号が切り替わっておらず、道路を走っていた車のドライバーは焦ってハンドルを左に切ってしまった。

 甲高いブレーキ音の後に激しい衝突音が聞こえた。そして、それを目撃した人々の悲鳴が出来の悪いレクイエムのように奏でられた。

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