第4章

第十二話 マーガレットの花

 吉高美知子は同じクラスに好きな男子がいた。都内の高校で二年に上がる時に同じクラスになった男子で、水瀬俊介という名前だ。男子十八人、女子十八人のクラスで、美知子と俊介は共に出席番号が最後だったので二人は隣の席であった。

 俊介の第一印象は顔立ちが良くて女の子に人気があるんだろうな、という程度のものだった。美知子は恋人を作ることに興味はなかったし、そういうのはまだ先の話だろうと思っていたから、自分が俊介を好きになるなんていうことは出会った時には思ってもいなかった。


 新学期は順風満帆にスタートしたが家庭では昔から虐げられていた。美知子は両親に望まれて生まれた子ではなかった。最低限の衣食住しか与えられず、携帯電話やスマホも持たせてもらえなかった。そのことを同級生には「家が貧乏だから」と説明し、無理矢理納得してもらった。

 時には暴力を振るわれることもあった。しかも今年父親の勤めている会社が倒産して職を失ってしまったので、怒りの捌け口が美知子に向けられた。しかし、家庭内暴力が世間に知られると面倒なので両親は外傷が目立たないようにいたぶり、口外しないように徹底して脅しつけた。そのような生活は美知子にとって当然苦痛を伴うものであったが、幼い時から続いていた生活なのでもう慣れてしまってもいた。大人になったら家を出て両親と会わないようにすれば良いという諦めの境地に達していた。


 ある日、学校に登校すると俊介が隣の席から声を掛けてきた。

「吉高、おでこの傷、大丈夫か?」

 それは昨日母親に夕食の皿を投げつけられた時に付いた傷だった。それも、美知子が夕食を美味しくなさそうに食べていたという理不尽な理由からであった。

「ありがとう。ちょっと頭ぶつけただけだから大丈夫。へへ」

 今まで俊介から話しかけられたことはなかったので少し緊張した。

 それにしても傷は前髪で隠れていたのによく気が付いたものだ。きっとモテるから女の子が髪型やファッションを少し変えただけでも気が付くタイプなのだろう。

 美知子は感心した。しかし、仮にそうだとしても、両親から受けた傷を誰かに心配されるのは心から救われる出来事であった。

 その会話がきっかけとなり、美知子と俊介は少しずつ話をするようになった。俊介は勉強が苦手だったので得意科目である日本史を教えてあげた。「吉高は教科書に載ってないことも知ってて、すげーな」と俊介は喜んだ。

 美知子は自分が俊介に惹かれていくのを感じた。まるで、マーガレットの蕾が一輪ずつ咲いてハート型の花畑になっていくように。

 だけれども、自分は内気で今でも中学生と間違われるくらいに子供っぽいからきっと水瀬君とは釣り合わないだろう、と勝手に諦めてもいた。

 水瀬君はクラスで一番人気があるような女の子と付き合う方が良いに決まってる。私はただ水瀬君に歴史を教えてあげたり、私が受けた傷を心配してもらえればそれでいいんだ。


 五月になると修学旅行の旅程が連絡された。日程は六月下旬で三泊四日、行先は京都・大阪であった。

 京都は美知子が一度は行ってみたいと思っていた場所だ。しかも、自由行動の班分けで俊介と同じ班になることができた。

 どこの神社を回るのか班で相談するのはとても楽しく、胸が高鳴った。これまでの不遇が報われて薔薇色の日々に変わったような気持ちになり、修学旅行を心待ちにしていた。

 しかし、そんな喜びにも陰りが差した。吉高家の蓄えが底を突きそうになったのである。ある日、母親は美知子を呼びつけた。

「これからはあんたにも稼いでもらうから」

 自分にバイトでもしろと言うのだろうか、まあこの家にいるよりはマシか、と思い承諾した。だが、その内容は美知子の想像の上を行くことであった。

 それは売春であった。母親は下衆な笑いを浮かべながら、かつ無慈悲にそのことを告げた。死の宣告を下すかのように。

 狂っている、なんで私がそんなことをしなくてはならないの、と絶望した。しかも、最初の客と会う日が一週間後に迫った修学旅行の日と重なっていた。

「駄目……その日は修学旅行が……」

「あー大丈夫、学校には当日体調不良ってことで連絡しとくから」

「嫌、私は京都に行く……」

「誰の金で行こうとしてんだよっ!」

 母親は激昂し、美知子の腹を膝で蹴った。美知子はフローリングの床に倒れた。もう駄目だと思った。両親がどんなに屑な人間だとしてもまだ彼らがいなければ生きていけないし、服従せざるを得なかった。

 母親に蹴られながら俊介の顔を思い浮かべた。私は別に水瀬君と結ばれたいわけじゃない。ただ一緒に修学旅行に行けるだけでいいんだ。なのに、何故こんなに普通で当たり前のことすら私には許されないのだろう。

 美知子の生きる希望は黒い湖の底に沈んでいった。


 修学旅行の当日、父親に渋谷のラブホテルまで連れて行かれ、その中の一室に放り込まれた。そこには見知らぬ中年男がベッドに腰掛けていた。

 それから先は地獄のような出来事であった。薄暗い部屋で美知子の尊厳はあっさりと奪われた。

 私は一体こんなところで何をやっているのだろう。みんな修学旅行楽しんでいるかな、少しは私のこと心配してくれているのかな。

 激痛と屈辱の中でただ成すがままとなっていた。

 予め決められていた時刻になると父親が迎えに来て、車で家まで帰った。その間お互いに一言も口を利かなかった。

 家に帰ると母親が一万円札を一枚美知子に渡した。

「お疲れ、あんたにも報酬をあげるよ。あんたも、自分で稼ぐことを覚えた方がいい」

 金を渡す狙いは売春を続けさせることであっただろうが、何も言わずにその金を受け取った。

「あと、あんたがヤッてる姿はパパがこっそり録画しておいたから。このこと誰かに言ったら、動画ばら撒くからね」

 美知子は無言で頷いた。


 翌日、自分の席に着くと俊介が心配そうに声を掛けてくれた。美知子は自分がしていたことが後ろめたく、上手く返事ができなかった。

 俊介はお土産も渡してくれた。班の皆で少しずつお金を出して買ってくれたらしい。それは舞妓さんを可愛らしくデフォルメしたキャラクターが付いたキーホルダーであった。

「なんか吉高に似てるよな」

 そう言って俊介は笑った。私が本当に体調不良で休んだ普通の女の子だったら泣いて喜んでいただろうな、と思ったが、小さく「ありがとう」とだけ呟いた。


 それから数週間後、美知子は異変に気が付いた。クラスメイトが美知子と接する時の態度が以前とは変化していた。変によそよそしい時や美知子を避けている時があった。

 ある日女子トイレでクラスメイトが「この学校の誰かが売春している映像がネットにある」ということを美知子の前でわざとらしく話した。

 両親が自分の映像を売ったんだ、そう瞬時に気が付いた。今の話が美知子のことだという確証があるわけではないし、ただの偶然かもしれない。だが、一度疑心暗鬼に陥るともはやそうとしか思えなくなった。こうなってしまえばもう、誰がこのことを知っていて誰が映像まで見ているのかも分からない。そんな状態で学校生活を送らなければならないのだ。

 映像を流出させたか両親に問い質すわけにもいかなかった。まともに答えるわけがないし、またリンチされるのがオチだ。そもそも映像を撮っていたというのもただの脅し文句で、実際にはそんなものは存在しないのかもしれない。美知子にはもう何もかもが分からなくなり、再び絶望の淵に立たされた。


 たとえ希望がなくとも、仕事をしなければ生きてはいけない。学校では夏休みが始まったが、美知子はいつものように渋谷のラブホテルを訪れていた。湿った雨で髪や服がべたつく嫌な天気だった。

 もう両親に反発していなかったので一人で売春の現場まで行かされるようになり、仕事中だけ父親のスマホを貸してもらえた。

 美知子は年齢より幼く見えることから、一部の歪んだ性癖の持ち主達に需要があった。今日の相手は可哀想になるくらい腹だけが出ている男だった。

 男と一緒にラブホテルを出たところで美知子は驚愕した。出入り口の前に、偶然通りかかったと思われる俊介がいたのだ。俊介も驚き、目を見開いていた。

 美知子と俊介は目が合った。

「……最低だっ!」

 そう言い残し、俊介は足早に去って行った。雨の音に掻き消されそうだったが確かにそう言っていた。あんなに優しかった俊介が犯罪者を見るような目付きで美知子を見ていたのだ。


 その後、雨が止んだので美知子は公園に行き、スマホで自殺に関するサイトを調べた。

 初めからこうしていれば良かったんだ。私バカだなぁ、今更こんなことに気が付くなんて。

 美知子はそう思いながら涙を流していた。

 初めっていつだろう。どこで、どうしていれば良かったんだろう。私なんて、

 自殺サイトでは、自分と同じように人生に絶望している人達が死の言葉を刻み込んでいた。美知子は溢れる涙と震える手を必死に抑えながらその言葉を読み続けた。だが彼らの境遇と死にたいという率直な気持ちに耐えきれず、ベンチでうずくまってしまった。雨上がりの冷えた空気で体が震えそうになる。

 そのまま動かずにじっとしていると、見知らぬ誰かが声を掛けてきた。

「大丈夫ですか?」

「わっ」

 びっくりして手に持っていたスマホを落としてしまった。すると、目の前に立っていた誰かがそれを拾った。

 その人は二十代前半くらいの女性で、モデルのように可愛らしく、かつ綺麗な人だった。何かそういう特別な仕事をしているのかもしれない。

 彼女は拾ったスマホの画面を見ていた。そういえば、自殺サイトの画面を開いたままにしていた。

「あの」

「君、自殺でもしようとしてるの?」

 彼女は美知子の話を遮って問い掛けた。自殺という言葉にそぐわないお気楽な口調で。

 美知子はどう答えるか悩んだ。親や警察に連絡されたら面倒なことになる。

「それなら素敵な方法があるんだけど、ちょっと話さない?」

「えっ?」

 予想外の提案だった。どう考えても怪しい話ではあったが、自分のことを消し去ってくれるのなら何でも構わない。美知子は彼女の話を聞くことにした。

「私の名前は渚。よろしくね」

 彼女は自殺旅行を計画していて、美知子を入れたらメンバーが四人になるのだと言った。メンバーで顔合わせをして、上手くいきそうなら計画を実行するらしい。

 もしかしたら京都にも行けるかもしれない。美知子はそう思い、顔合わせに参加することにした。

 指定された日は一人の客を相手にしなければならなかったので、少し遅れることを渚に伝えた。そして、父親のスマホでインターネットにアクセスした履歴は全て消去した。


 こうして美知子は成達と出会い、あの日叶わなかった京都への旅に出ることになった。

 旅の前夜に両親が寝静まった頃、売春で稼いだ金と必要な物を持って家を抜け出した。

 雲もなく、月が綺麗な夜だった。しかし、美知子の心の奥底ではあの日からずっと雨が降り続けていた。その雨がいつか止むことを願いながら、月夜の道を独りで歩いた。

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