第二話 白と黒

 成は意外に思った。

 自殺をテーマにした小説。それ自体は特に珍しくもないが、目の前にいるこの女性と上手く結びつけることができない。彼女が「自殺をテーマにした小説」という言葉を発すると、なんだか本来とは別の意味を持っているように思えた。

「それで?」

「それで、自殺志願者の気持ちに少しでも近づくべく、ちょっとだけ電車に近づいてみようと思ったわけさ。飛び込む気まではなかったんだよ。へへへ」

 彼女はいたずらをして叱られた子供のように頭を掻いた。

「人が自殺してるところなんて、見たことないしさ」

「ふうん」

 腑に落ちないところはあるが、とりあえず意味は分かった。

 彼女は自分の小説を書くために、飛び込み自殺の気分を味わおうとしていた。死ぬ寸前の境目に立とうとしていた。まとめるとこんなところだ。実にはた迷惑な話だが、自分の目の前で死のうとしていたわけではないということが分かっただけでも良しとした。彼女が本当のことを言っているかどうかは分からないけれど。

「私が言うのも変だけど、電車で飛び込み自殺はしない方がいいよ」

「家族に賠償金が請求されるから?」

 飛び込み自殺をしない方がいい理由などは他にいくらでもあるが、成は最初に頭に浮かんだことを言ってみた。

「賠償金が発生したら、家族に相続されるという形になるの。だから、相続放棄をすれば賠償金を払わなくて済む、こともある」

「こともある、か」

「ケースバイケースだよ」

 便利な言葉だ、と成は小さくため息をついた。実態はもう少し煩雑なのだろうが、特にそれについて深く知りたいわけじゃないので、賠償金について訊くのはやめた。

「それで、どうして電車で飛び込み自殺はしない方がいいと思うんだ?」

「どうしてって、そりゃあ……」

 彼女はにんまりとした。

「どうせ飛び込むなら、清水の舞台でする方が乙ってものでしょ」

 それを聞いて、成はあっけにとられてしまった。馬鹿馬鹿しくて、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


 再びホームにアナウンスが流れた。今度は回送電車の通過ではなく、この駅に電車が到着する知らせだ。気が付けば、周囲にも乗客が列を作って電車を待っていた。

「そういえば、君、名前何ていうの?」

 そう訊かれると、成は名前を教えるべきかどうか一瞬迷った。今日で辞めたとはいえ相手は怪しい業界にいた人間だし、悪用されないだろうかと。しかし、結局教えてやることにした。仮に悪用されようが、そんなことは別にどうでもよかった。

「奥中成だ」

「なるくん? ふーん、可愛い名前だね」

 彼女は成より年下のはずだ。妙に馴れ馴れしい奴だな、と首を捻った。

「覚えておくよ」

 彼女は笑顔でそう言った。

 なんで彼女が俺の名前を覚えなきゃいけないんだろう、と成は不思議に思った。

「あんたの名前は?」

「え? 知ってるでしょ? 渚だよ」

 それは本名じゃねえだろ……まあいいか。

「渚」

 そう言ってみると、渚はそれで良しという風に頷いた。

 やがて電車が到着した。幸運にもこの電車に飛び込もうとする人は誰もいなかった。それとも誰かが飛び込んだ方が、それを目撃した方が、自殺小説を書こうとしている渚のためになったのだろうか。いずれにせよ、電車が止まるのは勘弁してほしいと成は思った。

 電車の扉が開いて車内の乗客が外に出ると、渚が先に入って反対側の扉の側に立った。成は手前側の椅子の端に座った。少し疲れていたから座りたかったし、渚にくっついて一緒に帰るのも変だと思ったからだ。

 しかし、渚はそんな成を見て「あら」という顔をすると、成の隣に座ってきた。

「何駅まで行くの?」渚が訊いた。

「北浦和」

「ふうん。私は南浦和で乗り換え」

「そうなんだ」

 それから、大した話をするわけでもなく、二人で電車に揺られた。隣に座ってきた渚も、特別に何か話があるわけではなかったみたいだ。乗客の数はそれほど多くない。先に到着する南浦和駅までは、あと六分程度といったところだ。

 そのことを意識すると、成は渚とこれっきりで別れてしまうことが急に惜しくなってきた。今までに出会った中でも最高の風俗嬢を見つけ、しかもその子と一緒に帰っているのだ。こんな機会はもう二度とないだろう。

 甲斐性のある男ならここで連絡先の一つでも聞けるのだろうが、誠に残念ながら成はそれに該当しなかった。それに、連絡先を聞いたところで連絡することなど何一つとしてない。

 時間と窓の外の景色だけがむなしく通り過ぎていった。しかし、通り過ぎていく駅のホームや街のビルを眺めている内に、一つの閃きが舞い降りた。そして、それはとてつもなく突拍子もないことだった。生産性もなければ、将来性もない。ないないづくしというやつだ。だがそれは、何もない成だからこそできることであった。

 そのことについて慎重に検討した末、声に出してみることにした。

「なあ」

「うん?」

 渚がこちらを見た。

「自殺の小説を書いているんだろ」

 周りに聞こえないように声を落として言った。

「うん」

「誰かが自殺しているところに立ち会ってみたいと思うか? その体験から小説を書くために」

 成がそう言うと、渚は何も言わずに成の顔をじっと見た。そして、素早く何かに対して考えを巡らせ、答えた。

「そういう機会があるのなら、私はそうする必要がある」

 今までの女の子らしい口調とは違い、無機質で凛とした声だった。微妙に遠回しな表現だが、返事はイエスととっていいだろう。

 成は目を閉じて息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そして、もうこれで終わりでいいだろうと思った。

「俺が自殺しようか?」

 成はその問いを口にした。それはただの思いつきかもしれないし、ずっと無意識の壁の向こう側で佇んでいた想いかもしれない。しかし、言葉にしてしまうとなぜか他人事のように聞こえた。

 渚は先ほどと同じように成の目を見た。普通の人間の普通の表情をしていた。

 少しばかりの沈黙があった。

「なんで? とは訊かないよ」

 そう言うと、渚はバッグから名刺とボールペンを取り出し、名刺に何かを書いて成に手渡した。それは風俗店の名刺で、裏にメールアドレスが書かれていた。

「余った名刺、バッグに入れっぱなしだった」

 渚は小さく笑った。

「一晩考えて、それでものなら、連絡して」

「……わかった」

 車内にアナウンスが流れ、南浦和駅に着こうとしていた。彼女と過ごす時間がもうすぐ終わる。

 駅に到着すると、渚が立ち上がって振り返った。

「それじゃあ……

 渚は手を振って電車を降りた。成も小さく手を上げていた。

 降りた乗客の換わりに新たな乗客が乗り込んでくる。電車が動き出し、成は再び人と社会の輪の中に一人取り残された。

 そういえば、と成は思い出した。

 今日人身事故で電車が止まった時、どうせ死ぬなら白黒のブチ猫を助けて車に轢かれる方がマシだ、というようなことを考えていた。だけど、俺が助けようとしたのは白黒のブチ猫ではなく、モノクロ柄のワンピースを着た元風俗嬢だ……。まあ、似たようなものか。

 成は電車に揺られながら、目を閉じた。


   ◇◇◇◇


 渚こと、蒼井やなはるは成と別れたあと、北朝霞駅で降りた。足取りは軽く、帰り道にいつも通っているスーパーでいつもより多めに野菜を買った。

 近頃は小説の執筆が滞っていたが、最後の客である奥中成はやなはるに新たなインスピレーションをもたらした。

 彼は興味深い人間だ。自殺までするとは思えないが、彼の考えをもっと聞きたい。連絡先は教えておいたが、はたして連絡をよこしてくれるのだろうか。

 そんなことを考えながら、帰り道を歩いた。

 やなはるの自宅は、十三階建てマンションの内の五階の部屋である。玄関の扉を開けて中に入ると、晴々としていた気分に少し陰りが差した。

「お母さん、ただいま」

「おかえり。ねぇ、印鑑が見当たらないの。どこだったかな? 宅急便が来てサインしたんだけど、そういえば印鑑はどこだったかなって思って」

「印鑑なら、和室の引き出しの中だよ」

 やなはるはうんざりして答えた。印鑑の場所を聞かれるのはこれで五回目だった。

「あっ、そう。ありがとう」

 やなはるの母は特に悪びれた様子もなく、ぱたぱたと和室に歩いて行った。やなはるはため息を吐いて、夕食の支度に取りかかった。

 父は家におらず、数ヶ月前に発症した脳梗塞のために入院している。発症した時は大騒ぎとなったが、今では幾分、生活の落ち着きを取り戻していた。

 しかし、今度は母の物忘れが激しくなり始めた。まだ六十二歳だが、以前は夢中になっていたスポーツクラブやら音楽やらも、とんとご無沙汰になり、家でぼうっとしていることが多くなった。母には認知症の兆候が見られていた。

 父の問題が落ち着いたと思った矢先にこれだ、どうしてこう問題というのは次から次に起きていくのか、とやなはるは頭を抱えた。

 金銭面に関しては、父が稼いでいた蓄えがあるからしばらくは心配ないが、母はパート勤務などはしておらず、現在の収入はやなはるが風俗店で稼いでいた金だけである。当然、風俗で働いていたことは母に話しておらず、電機メーカーで仕事をしていると伝えていた。

 だが、その風俗店では他の風俗嬢からの嫌がらせがあった。耐え切れずに今日で辞めてしまったので、また新たな稼ぎ口を見つける必要がある。その上、近い将来に母にも付きっきりの介護が必要になる日が来るかもしれない。先行きは不安だ。


 今日は酢豚と春雨サラダとワカメのスープを作った。

 昔はもちろん母が料理を作っていた。しかし、ある日やなはるが家に帰ると母が火傷をしていて、母本人がいつ火傷したのかを覚えていないという出来事があった。それ以来、母には火を使わせないことにした。

 やなはるが作った料理を二人は特に美味しいとも不味いとも思わず、淡々と口に運んだ。夕食の間もやなはると母の間に会話らしい会話はなかった。たまに母から数日前と同じ話をされるので、数日前と同じように答えた。


 やなはるは母と食事を済ませ、食器を洗って片付けると自室のデスクに向かった。小説を書くために、えんじ色のノートパソコンを開いて電源を入れる。

 小説用のファイルデータを開くと、やなはるの脳内に次々と言葉が溢れ出した。それを取り逃さぬよう、素早くキーボードで入力していく。

 奥中成の話を聞き、やなはるには一つの作品のアイデアが思い浮かんでいた。それは自殺をテーマにした作品でありながら、もう一つの別の狙いがあった。

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