シキラク(色楽)

まきや

プロローグ



 最も古い思い出は、わずかにしか残っていない。


 ひっぱられて千切れて、もう少しの糸しか重なっていない綿わたのよう。


 透けるほどの薄さしかないけれど、それでも何とか形になっている。そこから浮かぶのは、香りと音の記憶。何かの草で造られた柔らかい枕の匂い。揺れる木の玩具が、赤児を眠らせようと不規則にたてるカラン、カランという音。


 水面に絵の具を垂らすように、色が瑞々しい虹彩の膜にぱっと広がっては、薄まり消えていく。赤児はその模様の変化に興味を惹かれ、笑い声をたてる。やがて疲れた瞳はゆっくりと閉じられ、穏やかな寝息が規則的なリズムを刻む。



 庭園は広かった。どこまでも広すぎて、子供たちにとっては、そこに終わりがあるなんて信じられなかった。


 黒い髪の幼女が二人、仲睦まじく手をつなぎながら、芝生の上を無邪気に走っていた。


 笑い声が響く。ひとりの子が草に足を取られて、クルクルと転がった。地面にペタンと座り込む。キョトンとしている所に、もうひとりが飛びかかった。子猫たちのじゃれ合いが始まった。現実には見えないのだけれど、二人の間には中心があって、どんなに離れても近づいても、その点から一定の距離を保つようにして遊んでいるように見えた。

 勢い余って子供たちが坂を転がっていっても、その法則は崩れなかった。


 世界から独立していたのに、その庭には世の全てがあった。美しい空気の漂うもと、花と緑があり、清らかな水源があった。水辺の広がりには、何十羽もの白い鳥が泳いでいた。


 ユイもカイも、そこにいる間はとても幸せだった。不自由ない暮らしであることはもちろん、精神も体調も、流れる小川のように澄み切っていた。ユイには妹が、カイには姉がいた。流れる時間はひとつ、そして二人は常に一緒だった。



「お二方のいずれかに、将来の天子の位を継いで頂くという、基本的な方針に変わりはありません」


 物申した者が高齢なのは疑うべくもない。高位を示す白地にさらに白い紋をつけた袴を着た掌典長しょうてんちょうだった。その彼が白髪の頭を垂れている。向いた先には現在の天子が立っていた。寝殿造りの見通しの良い部屋の端で、どこまでも続く広い庭を見つめている。


 朱色の衣冠いかんの背中は動かず、天子は返事を返さなかった。長は言葉を続けた。


「本来は姉のユイ様なのです。継承の順位を辿れば当然そうなります。しかし――」


「しかし?」初めて天子が問いかけの言葉を挟んだ。声は穏やかで澄んだ楽器の音色のようだった。


 掌典長は落ち着いて続きを述べた。「春節にお二人を診た医師たちが口を揃えて言っておりました。ユイ様の持つ天性のお力に、強すぎる傾向があると言うのです」


「かつての私のように?」


「はい。あなた様以上かもしれません。すでにいくつかの検査と投薬を行っておりますが、簡易的な物で、効果は期待できないと」


「そのままではいずれ、心に乱れをきたす時がくるであろうな」天子は長く伸びた黒髪の間に指を通す。


 このひとが思索にふける時の癖だと、掌典長は思った。「はい、医師団もそのように考えております」


「続きの意見を申せ」天子は振り向かずに言った。


「はい……」


 ためらう部下を見て、天子は付け加えた。「遠慮はするな。ここには私たち以外、誰もいないのだ。お前が職務に忠実だという事も理解している」


 掌典長はいちど咳払いをしたあと、心を決めて口を開いた。「継承者はカイ様にするべきです」


 予想はしていたのだが、天子は大げさに反応してみせた。「ほお! ずいぶんと早いのだな! まだ二人とも三歳にもなっていないというのに!」


「理由はございます」老人は冷静だった。「ひとつは体制を組んで、ユイ様の治療を早々に始めた方が良いという事です」


「治療か……まるで体に巣食う病魔だな!」天子はらしくない苦々しい表情で、嘲笑した。


 周囲に人はいなかったので、掌典長はあえて咎めず、目を伏せた。


「これから学ばれる祭祀には、精神的な圧迫を伴うものが多くあります。おそらくユイ様にはそれが苦痛となりましょう」


「つまり、ユイは天無ここを離れろと?」


「そうです。この場所は安全なれど特殊なのです。そして何より……」掌典長はいちど口を閉ざした。「ここにはカイ様がいらっしゃいます」


 天子は再び押し黙った。


 掌典長が辛そうに言葉を続ける。「あのお二方の結びつきは――血を持たない我々にすら――異常な強さを感じます。お互いが力を高めあっている磁石じせきのような物です」


「……」


「おいたわしや。力が強まるほど、ユイ様にとってそれが傷みに変わってしまうというのに……。けれど命には変えられません」


「……いつだ?」


「お二人の心が幼いうちに分かつべきと、申し上げます」


「ではすぐに、だな」


「残念ながら」


「お前は本当に、職務に忠実だな。それが決定ならそうしよう」


「決定はあなた様が下すものです」


 天子の反応は凄まじかった。「はは! 形式を借りた卑怯な言い方だな! そんな意思がどこにあるのだ? 母親であることも主張できないのに? そんな『権利』があるのなら、私はとうに翼を生やして、ここから飛んで逃げていようぞ!」


 掌典長は答えずに批判を真っ向から受け止めた。天子の苦悩については、しっかりと理解しているつもりだった。


 急に静かになった後、天子がささやくように尋ねた。「最新の治療を受け入れたら、あの子は力を失うのか?」


「いえ、それは無理でございましょう。心に根付いております。健常に暮らせるようになれど、完全には無くならないかと」


「では健全な状態を保っていれば、あの子にも光はあるのだな?」


「質問の意味が図りかねますが……?」


 天子は掌典長を手招きした。かしこまって膝をつく彼の耳元に手を添え、ささやく。


 長の目が見開かれていった。


 最後に天子は笛のような声で、その一言を付け加え、結びとした。「……これぐらいの希望は、許されても良いであろう?」


 掌典長は思わずばっと身を引き、天子の整った顔と、いたずらっぽい光の宿る瞳を凝視した。


「承知できるとは言い兼ねまする! それではいずれカイ様と鉢合わせになるやも……」


 天子は狼狽える部下の姿を気にもせず、再び遠くを見た。


 その目には、二羽の水鳥が互いに絡み合いながら、いずこかの水場を目指して、空高く飛んで行く姿が映っていた。

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