第3話 親指の痕

 老人の組紐には、鶴のようだったり、亀のようだったり、浮世絵の松のようだったりに見える結び目が並んでいた。

「ホットミルクとマカロンを」

「あ、私もコーヒーのお変わりをお願いします」

 昼休みはとっくに終わっていた。だがポリーは社に戻る気にはなれなかった。かつては「取材」といえば自由に外出できたが、文化部ではそんな自由も得られず息が詰まっていたところだったのだ。とはいえ、ここで老人の話を聞いている間もやはり息は詰まっているのだと思うと、ポリーの胸中には、久しぶりに笑いがこみ上げてくるのだった。

「さて、かの名探偵君の推理の根拠は、首吊りさせた理由だったな。まずは、ゴルジイにしかできない結び目を残すことによって、ゴルジイに罪をきせるためではないかという頭の悪いもの。もっとも探偵というのは、犯罪者の知能や心理レベルに同調しなければならないところもあるので、イコール探偵が馬鹿、ということにはならないが、少なくとも、犯人はその程度の知能だと、舐めていることだけは確かだ。この説は、プラウティー医師からの検視報告によって破棄された。マイラは絞殺ではなく、扼殺だということが判明したからだ。そこで、新案特許。マイラの首についた指の跡を隠すために、マイラを首吊りにした説。これが正解となった。無論、生前についた傷は死後にも消えないが、犯人はそれを知らなかった、馬鹿だね。というわけさ」

 老人はそこで言葉を切った。ポリーには、話しがいよいよ核心に近づいたので、老人が自分に「それから?」と聞いてほしいのだ、とわかった。

「ええ。それから?」ポリーは、望みのままにそうたずねてあげた。すると老人は組紐の結び目をすべて解いてこう言った。

「そこまでは、みんな計算通りだったのさ」

 ポリーは、心の底から驚いた。

「計算どおりって、誰がどんな計算をしていたというのです? この後、ブリンカーホッフは、自分がマイラを殺したと自供してしまうんですよ!」

「そう。実に頭がいい」

 老人は、風体に合わないニヒルな笑みを浮かべて幾度もうなずいて見せた。

「ブリンカーホッフが観念したのは、扼殺痕の指の痕の向きを指摘されたからだったね。エラリーが、それを声高らかに宣言した。つまり、親指の痕が、下に下向きに残っていたことを。

 相手に正対して普通に首を絞めれば親指の痕は上、つまり顎に近いほうに上向きつくことになる。だが、マイラの首の指のあとは、親指が下に下向きについていた。したがって、扼殺時、犯人はマイラの真上にぶら下がった状態で首をしめたのだ、とね」

「ええ。そしてそんな姿勢で近寄って自然なのは、二人でアクロバットの練習していた夫のブリンカーホッフしかいません」

 老人は黙って席を離れ、ポリーの背後に立った。そして、

「ちょと天井を向いてみてくれないかね」

 といった。ポリーが言われるままに首をのけぞらせると、すぐ近くに、老人の水色の目が光っていた。首筋にカサカサとした細い指の感触がした。おもわず首を竦めると、老人が「そのまま!」とキンキン声を上げた。

「さて、私の親指は上にあるかね。下にあるかね?」

 ポリーは、首に意識を向けた。老人の少し震えている指。親指は…

「下です」

 椅子に座って、首を思い切りのけぞらした状態で、その顔を覗き込むように背後から首を絞めると、親指は犯人からみて前、つまり被害者の首の下に下向きにくる。これは、犯人が逆さまにぶら下がって首を絞めたときと、同じ向きだった。

「分かったかね。こういうのを『合理的な疑い』というのさ。自白だけで逮捕送検しようものなら、裁判で自白強要を主張されて、無罪放免ってことになりかねない。それに、マイラの首に残された指の痕は、そもそもブリンカーホッフのものではない可能性だってあるのだ。自白があったせいで、それ以上の追求をやめてしまったからな。エラリー・クイーン君の身上だったはずの、『全てが明らかになった後でなければ推理を公言しない』という美点は崩れ去っていたのさ。おそらく短編だったから、この程度でよかろうと舐めてかかったのだと思うがね。ゴルジアンノットを引き合いに出すからには、命をかける覚悟で挑んでもらいたかったね」

「じゃあ、真犯人は誰なんですか。さっきの『計算どおり』って、誰のどんな計算だったというんですか?」 

 ポリーは、首筋に手をあて、テーブルの上の『エラリー・クイーンの冒険』を眺めながら、そう呟いた。

「それを説明するには、事件をもう一度始めから検証しなさなければならないね」

 老人がまた、ゆっくりと組紐を結び始めた。

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