第10話

いつもより30分ほども早く学校に着く。

雨は上がって、雲の間から顔を出した太陽が、校庭に出来た幾つもの水溜まりを鏡のように見せる。

早く来たからといって何がどうなるわけではないと思っていたけれど、ぬかるんだ校庭に、僕より小さな靴跡と、それに寄り添うようにある犬の足跡を見つける。

足跡は、寮から外へ。

散歩に行ったのだろうか?

足跡を辿って学校の外へ出たところで規理乃ちゃんと鉢合わせになる。

僕は驚き、規理乃ちゃんのほうは全く動じず。

何故だろう? ただビックリしただけじゃなくて、普段とは違う状況で、しかも隣にゴローを連れた姿に、どこか非現実的なものを感じた僕は、暫しポカンと見入ってしまう。

「何よ、鳩が鉄砲を食ったような顔をして」

「え、それって死に顔だよね?」

「……ごめんなさい」

「まさか規理乃ちゃん──」

「ち、違うわ! 言い間違えたから謝っただけよ!」

一瞬、規理乃ちゃんには狩猟の趣味でもあるのかと思ってしまった。

こんな田舎に住んでいると、狩猟も縁遠いものでもないし。

足元ではゴローが、何やらうずうずしている。

脚が泥だらけだから、飛びつくのを我慢しているらしい。

「この子の脚を洗ってくるから、寮の前で待っていて」

「いや、この後、ゴローは一人で家まで帰るだろうし、どうせまた汚れるからいいよ」

「それだと、あなたに飛びつけないじゃない。いいから待っていて」

「……」

咄嗟に何も言えず、ゴローを連れて寮の部屋へ入っていく規理乃ちゃんを見送る。

今の一言だけで、ゴローがどれほど可愛がってもらえたのかを知る。

僕は、胸が高鳴って仕方なかった。


寮の軒下で、ゴローと一頻りじゃれ合ってから、僕は規理乃ちゃんを見た。

今までより、ほんの少しだけ目許が柔らかくなったような、ほんの少しだけ口許が綻んだような、そんな気がする。

二人の間にはゴローが寝そべって、満足げに目を閉じている。

僕は規理乃ちゃんに色々と訊きたいことがあるはずで、だからこそ良二の手抜きとも思える連絡帳の書き込みに不満を漏らしていたのに、いざとなると、何をどう訊けばいいのか迷う。

「どこまで訊いていいのか判らないのだけど」

先に口を開いたのは規理乃ちゃんだった。

「そもそも、私のことに対しては立ち入らないように言ったのに、あなたのことに踏み込もうとしているのは図々しいと承知しているけど、でも──」

「踏み込むも何も、垣根も段差も無いから。彼は、ちょっと違うかもだけど」

「じゃあ……その、彼とあなたは、情報を共有しているの?」

当然の疑問。

そもそも、僕らのことは何も伝えていない。

教室で見る僕と良二、それに対するクラスメート達の言動から見えてくるものだけが、規理乃ちゃんの判断材料だ。

「ある程度は」

今朝は情報不足で戸惑ったばかりなので、自信を持って頷くことはできない。

「意思の疎通は?」

「それは、一方通行かな」

「どういうこと?」

「今この瞬間も、もう一人の彼は僕の言動、見聞きしているものを知覚、認識しているけれど、彼でいるときの僕は、眠っているのと同じ状態みたいだから」

何故か規理乃ちゃんは目を伏せる。

「だから、その一方通行を補うために、僕らは連絡帳を使って情報の共有をするんだ」

「不便や不都合は?」

「もちろんあるけど、助かることの方が多いかな、って思う」

「……そう」

規理乃ちゃんは呟くように言って、ゴローを見やった。

ゴローは目を閉じているのに、尻尾を振ってそれに応える。

──っ!

いつもよりほんの少し、なんて思ったのを蹴飛ばすような、胸が痛くなるような規理乃ちゃんの優しい瞳。

「あなたは、二重人格なの?」

優しさを湛えたままの瞳は、どこか苦しげに唇を噛み締めてから僕に向けられた。

「表向きは」

「表向き?」

「普通の人は信じないだろうし、科学的にも医学的にも有り得ないことだけど、僕の中に、もう一人、入っていると思ってもらえば」

「それって二重人格と何が違うの?」

「説明が難しいけど……例えば彼の持つ知識の中には、僕が知り得ないものがあったりするし、何より、彼自身が別人だと言ってる。って、証明になってないよね」

「ええ……まあ」

「でも、雛ちゃんやタケル君、瞳ちゃんなんかは、別人だと思ってる。僕達はずっと一緒に育ってきたから、僕から派生した別人格ということでは説明がつかないって感じ取ってる」

規理乃ちゃんは、僕を見て、僕の話を聞く。

眼差しという言葉が、とても相応しいと思える、真っ直ぐで揺ぎ無い視線。

「それって、憑依って言われるものじゃないの?」

「たぶん、それに近いかな」

「俄には信じ難い話ね」

「うん、僕もそう思う」

僕だって、その結論に至るまで、それなりの日数を要した。

小学校四年生から必要になった連絡帳は、三十冊近く溜まっている。

その一冊目の、最初のページ。

『がんばれ』

その一言だけ。

当時、時おり記憶が飛ぶようになった僕は、途方に暮れていた。

周りの人達も戸惑いを隠せずにいて、僕を不安にもさせた。

そのくせ、まあどうでもいいや、という投げ遣りな気持ちにもなっていた。

生きる悦び、といった意味を考えることが、果たして小学生にあるのかという気もするけれど、共感、共有、共生といった存在の有無は、無意識的にでも、生きていたいと思わせる意味を与えてくれるはず。

そんな意味を見失ってしまった時に現れた連絡帳。

日々、綴られる文章は、良二しか知っていない事柄と、良二だとは思えない達筆な文字。

そもそも、小学四年生が書く文章では無かった。

最初の頃は、僕から質問を書くことも多かった。

ひどい我儘を書き殴って、良二を困らせたこともあった。

今は、僕から何かを書くことは随分と減った。

そもそも、わざわざ書かなくても、大きな疑問があれば彼は勝手に答えてくれる。

共感と共有に関しては、イマイチ実感できなかったり、二人の意見が食い違う部分はあっても、間違いなく共生している存在。

どう言えば、規理乃ちゃんに上手く伝わるだろう。

「下級生らしき二人が、こっちを凝視してるのだけど」

思考を中断されて、サヤちゃんとユミカちゃんの視線に気付く。

「おはよう」

声を掛けると、二人は戸惑ったように顔を見合わせ、

「良ちゃん」

「良くん」

と、同時に言った。

料理が得意で、小さい子の面倒見が良くて、いつも柔らかく笑っているサヤちゃんは僕を良ちゃんと呼び、悪戯好きで、好奇心旺盛なユミカちゃんは、僕を良くんと呼ぶ。

僕とゴローと規理乃ちゃんが一緒にいる状況を、二人はそれぞれ、二人らしい表情で見ていた。

「そろそろ、部屋に戻るわ」

「あ、うん」

「ゴロー、またね」

ゴローは尻尾を振る。

僕はゴローに家に帰るように言い、まだ少し早いけれど教室に向かうことにする。

その僅かな距離で、二人からの執拗な質問攻めに遭う。

良二のことを他人に説明するのと同じくらい、規理乃ちゃんのことを説明するのは難しかった。


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