18/モウ、オマエヲ、逃ガサナイ。

 黒に黒を重ねたような漆黒の部屋で目が覚める。

 ──いや、はたして本当に目は覚めているのだろうか?

 まるで目を瞑っているかのように、視界に一切の光が入ってこない。


「……誰か──!」


 声が虚しく部屋を残響する。そこは、自分の息遣いさえも鮮明に耳に残る無音空間だった。

 座ったまま左手を伸ばし、暗い部屋の障害物を手探りで探す。

 しかし、手は何も触れることはなかった。このままでは埒があかない。僕は意を決して、立ち上がろうと右手に力を入れた。


「──いッ!」


 右に重心をかけた途端、右手から頭にかけてに激痛が走る。それどころか手が床にはりつけにされているかのように微動だにしない。

 それは動けば動くほどに痛みを伝達する。

 光のない部屋で視覚だけで右手の状況を把握することは困難だ。首、肩、腕の順に左手で右腕を探っていくと、それが右手の甲に触れた。

 しかし、触れれば触れるほどに脈打つように痛みが増していった。


 ──濡れている? 水か?

 指先に触れた液体を指同士で擦る。


 ──いや、少し粘着性がある。……これは水じゃない。

 さらに手の甲を探ると〝細い突起〟にぶつかった。

 それは触れるたび、僕に痛みを叫ぶ。


 ──突起? 三本あるのか?

 撫でるように探ると、障害物となっている突起は3本あった。


 ──なんだこれは。鉄の匂い? そんな、まさか……。

 左手に付着した液体の匂いを嗅いで戦慄する。

 右手は流血し、血で濡れている──!


「──ひぃッ!」


 奪われた視覚が恐怖を増幅させる。しかし、取り乱せば取り乱すほどに右手の痛みは強くなっていった。


「……ったく、みっともねーなぁ」


 聞き覚えのある声が笑う。


「──ッ! 徹? 徹なの? ねぇ、助けてよ! 右手が──」


 僕の怯える声を聞くと、その笑い声は勢いを増した。


「──ハハッ。 それな、俺がヤったんだよ」


 僕は耳を疑う。高笑いする徹の声が、記憶の中の彼を塗りつぶしてゆく。

 僕の右手をこんな風にしたのは、徹の仕業だというのか──。


「ま、寝てたし覚えてないのも無理ねぇわ。目隠し、解いてやるから待ってろ」


 視覚が奪われていたのはどうやら目隠しのせいだったようだ。しかし、それでも暗いことには違いない。

 月の光が微々たる光源となり、辺りを見回すと自分がどこにいるのかはすぐにわかった。


「中学校の、教室──?」


 徹は頷いた。

 そうだ、思い出した。たしかカラオケに行ったあとに、僕は徹に襲われたのだ。


「せっかくだ。自分の右手──見てみろよ」


 そう言うと部屋が明るくなった。光源は教室の蛍光灯ではなく、徹の足元に置かれたランタンだ。

 徹が指差す方向に目をやると、その先には3本の釘で床に固定された僕の右手があった。

 あらためて知る激痛の根源。

 視覚が痛覚とリンクし、脳にさらに深く刻み込まれる〝死の恐怖〟。

 唸る。喘ぐ。叫ぶ。リンクした痛覚を理性で抑えられず、僕は母音だけで混沌と形成された言語を息の続く限り叫んだ。


「十一時三十分。……お前、二時間も寝てたんだぜ?」


 聞こえない。聞き取れない。理解できない。叫び声で徹の言葉が掻き消され、何もかもが理解ができない。


「誕生日まで残り三十分。……なぁ。誕生日に死ぬって、どんな気持ちだ?」


 徹は僕の右手を両手で掴み、無理矢理持ち上げた。

 釘がギチギチと音を鳴らし、肉を貫く。

 紅を溢しながら床と離れてゆく光景は、手から釘を抜くというより、釘から手を抜くようなものだった。


 ──寒い。


 血を流しすぎて頭がクラクラする。


「──も、もうやめッ──!」


 僕が許しを請うと、次の瞬間、何かが焦げる匂いがした。

 それは──ガスバーナーだ。

 痛みの変化とともに右手を見ると、徹は僕の手を灼いていた。

 肉がほのかに赤く光り、ブスブスと煙を立てる。手の神経は釘が貫かれた痛みと灼かれた痛みで錯乱し、脳は状況把握が間に合わない。


「ちなみにここは二階、俺らの教室だ。玄関は窓を割って開放してある。つまり、逃げ道はそこしかねぇよ」


 ただ殺すだけじゃつまらないからな、と徹は言う。

 生きる希望を与えておいて、そこには絶対的な死の絶望しか存在しない。

 なんとか逃れようと徹を突き飛ばそうとしたが、取っ組み合いでスタンガンを使われ、前のめりに倒れてしまった。

 カチャカチャ、と金属音が鳴るのが後ろで聞こえる。それが何であるか確認する前に痛む右手で膝を立て、僕は逃げる体勢を整えた。


「ハハッ、残念。そんな簡単に──」


 ズッ、と肉を貫く音がした。

 振り向くと、徹がナイフを逆手に持ち、僕の左ふくらはぎに突き刺していた。


「──逃がすかよ。過咲優」


 ナイフを抜く。さっきの金属音はバタフライナイフの可動音だったようだ。


「ああァああああァ!」

「ダチを傷付けるのはつらいんだ。なぁ、過咲。俺だってな──つらいんだよ」


 徹の目は輝きを失っており、悦楽の表情で笑っている。

 また、肉が焦げる匂いがした。


「……だから一生懸命逃げてくれよ。水見のために、俺のために、お前のために」


 支離滅裂。責任転嫁と自己肯定。

 徹は言動と行動の歯車が噛み合わなくなっている。


 ──落ち着け。自分を守るのは〝理性〟だ。


 アドレナリンが大量分泌して痛みが緩和したのか、思考が回るようになってきていた。


「徹! 水見さんはこんなこと望んでなんか──」

「許可なく口を開くな!」


 反論すると同時に、ナイフが右の足首を一閃する。

 ブチィ! と破裂する衝撃と断裂音。きっと、アキレス腱が切れた音だ。

 繰り返される灼けるような脈打つ痛みと──悲鳴。


「……望んでいるさ。少なくとも──俺は」


 僕は右足を確認するよりも先に徹を睨みつける。その姿を見て、彼自身も悦んでいるように見えた。

 両足はもう──使い物にならない。

「綺麗事で塗り固めたお前の話は、もうコリゴリなんだよ……」

 もう僕の言葉は届かない。もはや交渉など不可能だ。

 腕の力だけで、そう──自分の力だけで逃げ切るしかない。


 ──今はとにかく、何を犠牲にしてでも、外に……!


 僕は前だけを向き、一階に続く階段に向かって廊下を必死に這う。


「次は五分後。ま、ダチとしての最後の雑談でもしようぜ」


 ゆっくりと後ろを歩く徹の足音が僕を追う。

 僕が這うスピードに合わせて──ゆっくりと。

 ひと思いに殺してくれと何度心の中で叫んだかわからない。

 足音が心と身体を〝恐怖〟で蝕み、中から殺していく音が聞こえる気がした。


「……よく俺に──夢を語ってくれたんだ。出場するコンクールは全部入賞したいとか、ピアニストになったら海外で活躍したいとか──」


 背後でカチャカチャと金属音を弄びながら徹は呟く。おそらく、バタフライナイフの刀身の出し入れの音だ。

 その可動音が耳で響くたび、両足の裂傷が疼く。


「それなのにアイツは──そんな水見の夢を奪ったんだ。……なぁ、許せないよな? 許せないだろ?」


 徹の言う〝アイツ〟とは、たぶん〝伊達〟のことだ。


「……許せない。でも──僕ならもっと違うやり方をしていた」


 振り返らず、ただただ前に進みながら僕は返事を返す。

 しかし、今自分は生かされている状態なのを忘れてしまっていた。絶対的強者に向かって弱者が意見を言えば、結果は明らかだ。

 金属音が──止んだ。


「……お前、自分が置かれた状況わかってねぇな?」


 床を這う僕の目の前にしゃがみ込み、ナイフの切っ先を眉間に当てた。切っ先がプツリと薄く皮膚だけを裂き、額から血が滲む。


「今の徹は──水見さんを理由にして……暴力を奮っているだけだ!」


 目を背けずに僕は言った。

 大切な友達に自らの過ちに気付いて欲しい、ただその一心で。


「その目……気に入らねぇ!」


 プチッ。

 その音とともに、薄暗い廊下の左半分の映像が黒に染まる。

 徹の表情の冷たさは変わらない。

 目、口、首、右肩。そして僕の視線は、徹の右腕を肩から指先まで辿る。

 しかし、肘から先は視界の〝黒〟に吸い込まれて映っていなかった。


「────」


 記憶をさかのぼる。

 何度記憶を整理しても、彼の手に握られていたものは〝バタフライナイフ〟以外考えられなかった。


 ──まさか、ナイフが目に……?


 左目から涙が流れ出る。

 痛みはほとんどなく、目の周りには違和感だけがそこ存在していた。


 ──いや、涙よりもドロっとしている……?


 戸惑う僕を見る徹は──ニヤリと笑った。


「──時間だ。五分経った」


 ギチギチと音が鳴り、初めて痛覚が働く。目の奥に感じた圧迫感は眼球を抉るナイフによるものだ。


「アイツの時はボールペンだったんだ。お前の時はどうなるんだろうな?」


 血が滴り、眼球は熱く熱を帯びる。

 それを見て、徹は狂ったように笑った。


「あ……が……や、やめ……」


 長く、長く、続く時間。


 ──何分刺さっている? 何時間刺さっている?


 ほんの数秒の出来事が、まるで時の流れを止めたような錯覚を起こす。


 ──嫌だ。嫌だ。いやだ、イヤだ、イヤだイヤダイヤダイヤダ──。


 気がつけば、僕の視界には床と徹の両足だけが映っていた。


「──ハハッ。次も……五分後だ」


 それは〝死の宣告〟──5分後に身体の一部を損傷させるという宣言──。

 間もなく命を刈り取る、負の言霊だ。


「あー、どこまで話したっけ?」


 左目を抑えてのたうち回る僕を他所に、徹は会話を続ける。


「──そうだ。ピアニストの夢を奪われた、って話だったか? ……まぁいいや」


 身体に衝撃が走る。殴られたのか、蹴られたのか、それはわからない。

 無我夢中で這うことしか、選択肢は残されていないのだから。


「──次は、伊達と同じように手を粉々にしてやるよ」


 徹は「水見と同じ苦しみを味わえ」と、血で汚れたナイフを投げ捨てて言った。


「……でも、たいしたもんだよ。伊達は目ェ潰したら気を失ったんだぜ?」


 徹は僕の身体を蹴り上げて仰向けにすると、左目を抑えた両手を退けた。

 ガスバーナーで灼いて、止血するためだろう。

 叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。そのせいで僕の声はひどく掠れ、自分でも何を言っているのかよくわからない。


「ほら、続きだ。泣いてる暇があったら──手を動かせ」


 絶対的不利の状況ですら、逃げることを強要する。生き残れるかもしれないという希望を残した上でジワジワと追い詰める──それはある意味、一番残虐なことなのかもしれない。

 喘いでいるかのように息を切らせ、ヒューヒューと喉を鳴らし、残された両腕の肘を曲げて這う。そして、必死の思いでようやく階段にたどり着いた。

 徹は後ろでブツブツと何かを話している。

 上手く降りようだなんて思わない。何度も、何度も、伊達に突き落とされた階段だ。いまさら無様に転げ落ちたとしても何も恥ずかしくはない。


「……お前さ。なんでそんなに──生きたいの?」


 痛い。苦しい。痛い。死にたくない。痛い──。

 そんな思考的雑踏の中、徹のその言葉だけが脳裏を刻む。


「つらいだろ? 苦しいだろ? こんな世界見たくないだろ? それなのに……なんでそんなにもがくんだ」

「そんなの……」


 腕の動きを止めて振り向き、僕は徹を睨みつけた。


「そんなの──ッ! 生きたいからに決まってるだろ!」


 果たして徹の耳に届いたのだろうか。ガラガラに掠れていた僕の声は小さく、再び僕は外の世界に向かって這った。


「……へぇ」


 徹の会話が止まる。

 前に進む際に聞こえる、腕と床が擦れる音だけが階段に響いた。


「──同じ環境なのに……なんで俺とお前はこんなに中身が違うんだろうな……」


 背後には気配を感じない。

 しかし、彼の声だけは僕の耳で小さく残響して聞こえた。


「純粋で、真っ直ぐで──」


 階段を転げ落ちる。左半分が黒に染まった視界はぐるんぐるんと何度も回転し、身体の至るところを階段の角に打ち付けた。


「謙虚で、穏やかで────」


 階段の踊り場で回転は止まり、僕は仰向けになって天井を見上げていた。

 二階には徹の姿がある。それは、いつか見た伊達の姿と重なった。


「水見に好かれて、水見に守られて────」


 トン、トン、と階段を降りる音がして僕は背筋が凍った。

 よく見ると──手にはトンカチが握られている。

 黒く、禍々しい空気。今の徹がまとっているのは、正にそれだった。


「──俺と同じで、お前には父親がいないのに!」


 ──え?


 初めて知った。彼が──僕と同じ悲しみを背負っていることを。


 ──父親が……いない?


 徹が大きく振りかぶると、月の光が手に持つ鈍器をかすかに照らした。


 ──あぁ、そうか。徹も……徹も苦しかったんだ……。


 それは、左手を目掛けて弧を描きながら──。


 ──これはきっと徹の哀しみ、怒りだ。……痛みだ。


 僕は目を瞑り、避けることを止めた。

 そう──本能が叫んだのだ。



 これは避けてはいけない────と。

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