高慢なあなたに、教育的指導を

八柳 梨子

いきなりお使いを頼まれる

 その日、高丸日和はとことんついていなかった。


 仕事に行こうと家の玄関を出たとたんにサンダルのストラップが切れてこけるし、電車に乗ろうとしたら急いでいたおばさんに突き飛ばされて順番待ちの列からはみ出して一本見送るはめになったし、職場に到着して制服に着替え、ストッキングを履いたら伝線していたし、おかげで遅刻して上司に怒られるし、落ち込んだ気持ちを落ち着けるために一息つこうと思ってコーヒーを用意したらこぼして白いシャツの袖に染みができてしまった。


 どれも小さなことではあるが、続くとさすがに気分が滅入る。


『一番ブースにコーヒーを持ってきて』


 だから取引先と打合せ中の上司から内線で指示を受けたとき、日和の胸になんだか嫌な予感が走ったのだ。


 打合せ用ブースは基本的に仕切りで仕切られた程度の四人席だが、一番ブースは個室になっており、重要な打合せで使用される。


 広告企画室に所属する日和の上司は、三十代半ばの女性だ。仕事はかなりできるし、顔もけっこう綺麗だし、スタイルもいいが、未婚。かつて恋人はいたようだが、その性格のきつさが災いして相手が逃げたのではないかと、もっぱらの噂だ。


 大学卒業後、文房具メーカーのこの会社に入社以来、この上司のもとで働いて四年目の日和だったが、今も彼女が怖くて苦手だ。まして日和の後輩たちに任せられないほど上司が重要と思っている打合せの席に、このとことんついてない日に限ってコーヒーを運んでいくなど――考えただけで緊張に手がこわばる。


「失礼します」


 ノックしてからゆっくりと扉を開く。上司である松坂佳恵と、こちらに背を向けている男性が一人、四人席の広いテーブルで向かい合っていた。


 まずは客の前に、そして上司の前にカップを置き、滞りなく事が済んだと胸を撫で下ろしながらブースを出ようとしたときだった。


「薄い」


 吐き捨てるようにそう言って、男性が振り返る。その美貌に、日和は圧倒された。


(うわ。――こんなイケメン、初めて見た)


 ぼーっとする日和に、男性は不機嫌に眉を寄せる。


「聞いてる? このコーヒー、薄いって言ったんだけど」


「え? ――あ、申し訳ありません。濃い目のほうがよろしかったですか? すぐに淹れ直してまいります。お待ちくださいませ」


 だったら前もって濃い目が好きだと伝えてくれれば良かったのに――と思いながら上司の様子を窺ったら、彼女は楽しそうな笑みを浮かべていた。愛想笑いでも、呆れた笑いでもなく、心底楽しんでいるような。


 上司がこんな表情を浮かべているのを見たのはこの二年で初めてのような気がして、日和はまた固まる。そんな彼女に、男性が千円札を突き出した。


「いや、会社のじゃなくて、シアトル系コーヒーがいい。このビルの近所に店舗があったよね? これで買ってきて」


「え? あ、いや……でも……」


 取引先の担当者から金を突き出されてお使いを頼まれたこと自体初めてで、日和は戸惑いながら上司の表情を窺った。すると上司は苦笑を浮かべて頷いた。


「お願いできる? ごめんなさいね、高丸さん」


「い……いえ……」


 いつになく、上司が纏う空気が柔らかい。


(もしかして、こういう高飛車なタイプが好みなのかな。美男美女でお似合いだとは思うけど――でも意外。松坂さんて、恋愛でも女王様タイプかと思ったのに)


 千円札を握りしめてエレベーターに向かいながら、日和は首を捻っていた。



 頼まれたカプチーノが入ったカップを手にブースに戻った日向は、ドアのノックを躊躇し、しばしその場に固まる。


 意地悪だったり、性格の悪い男性を見たことはあるが、さっきの男性は桁外れだと思った。そもそも取引先の、自分の部下でもない相手に金を渡してお使いを頼むなんて聞いたことがない。役員とか上の人だったらあるのかもしれないが、目の前の男性は態度は大きいが役員という雰囲気でもなかった。いきなり部下を使い走りに使われたというのに、上司がどうしてあんなに寛いだ笑みを浮かべているのかも謎だ。


(なんか苦手だな、ああいうタイプ)


 どちらかというとおっとりとした性格の日向だったが、いくら取引先の人とはいえ、人が出したものに文句を言い、さらに上から目線で用事を言いつけてきたことに少しむかついてもいた。


(そんなに年も離れてないような気がするのに、あの人はなんであんなに偉そうなんだろう)


 無意識のうちに下唇を噛みしめ、扉を睨みつける。


 しかし別のブースで打ちあわせていた同期の飯島が訝し気な眼差しを向けてきたので、仕方なくドアをノックして中へ入った。


「お待たせいたしました。こちらはレシートとお釣りです。ご確認ください。――では、これで」


 なるべく男性の顔を見ないように心掛けながら事務的な口調で説明し、そそくさとブースを出ていこうとした日向を、松坂の声が引き留めた。


「ああ、高丸さん。紹介しておくわね。こちら、松坂亘。カラさんとこの営業職をしているの。今度からうちの担当になったから、挨拶に来てくれたのよ」


「ああ、カラさんの! いつもお世話になっております。――あれ? 折島さんは……」


 カラさんとは文具のデザインを依頼している嘉良ステーショナリーデザインスタジオのことで、折島はこれまでディレクションを担当していた営業担当だった。ふんわりとした雰囲気の優しくて感じの良い女性で、日向たちの部署でも人気が高く、半年前に彼女が結婚した時には残念に思う男性社員も少なからずいた。


「ああ、彼女、妊娠したんだ。という報告を受けてから、一度も出社していない。つわりがひどすぎて動けないらしい。こっちにも挨拶に伺わないと――ってうわごとのように言っているけど、まぁ無理だろうね」


 日和が買ってきたコーヒーを礼も言わずに飲みながら、亘はそっけない口調で説明した。

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