ファクトフルネスの練習問題としての『ファクトフルネス』

『ファクトフルネス』は示唆に富むよい本である。

ただ、この本をうまく活用するには盲信してもダメだし、問題点をあげつらってもダメだと思う。ほとんどの本がそうであるように当然瑕疵はある。

『ファクトフルネス』の精神で、『ファクトフルネス』の中にある問題を発見し修正してゆくのは、ファクトフルネス思考のトレーニングにもなり、よりよく活用することになると考えた。『ファクトフルネス』はそれ自身がファクトフルネスという考え方のの練習問題にもなるのだ。


ここでは例として2つの大きな問題について取り上げみたい。


1.13の質問と10の本能の間にはファクトに基づく関係は存在しない

『ファクトフルネス』を読めばすぐにわかる問題がこれである。

*図解はこちら https://twitter.com/K_Ichida/status/1114217683250081793


・13の質問に多くの人が間違えた事実。質問回答者の属性ついての情報はあるが、原因については調べていない。個人的な経験として、「こんな人からこんなことを言われた」という事例があるのみだ。


・10の本能は過去の認知心理学を元に著者が考えたものである。著者が参考した著作はいずれも著名なものでベストセラーでもある。つまり、多くの人が読んで納得し共感するものと言える。10にまとめたのは著者であり、他の者だったら5の本能にしたかもしれない。著者自身が仮説と脚注で述べているように、10である妥当性は検証されていない。

10の本能は仮説であり、それが事実誤認の原因になっているというのも仮説である。


ここで著者は多くの他の解釈の可能性を検証することなしに捨てている。13の質問を間違える原因は、10の本能以外にもさまざまなものが考えられるし、複数の原因が複合的に関係している可能性もある。たとえば教育や経済的要因といった社会の制度や環境が影響していることも考えられる。くわしくは拙稿書評( https://hbol.jp/187703 )をご参照いただきたい。


多くの人が13の質問と10の本能の間に関係があると誤認するのは、10の本能に納得し、共感するためだと思うが、それは前述のように、多くの人が納得し共感した著作を参考にしているのだから当然だ。

ファクトフルネスの精神で見抜かなければならない。



2.よい/悪いなど価値判断の前提を明示していない

本書では多くの前提が明示されていない。たとえば「生命」の重要性と「精神的価値」の重要性についてなんの言及がない。本書には幸福であることなどよりも生命を維持することの方が重要という前提がある。寿命が延びること、疫病にかからないことなどはそれ自体はよいことだと思うが、そのために文化を捨てたり幸福な生活を捨てたりするとなると考えてしまう人もいるだろう。本書の価値観とは相容れない。

生命は意識せずとも存在している時点で付与されているし、死は必ず訪れるものである。これに対して幸福はほとんどの場合、意識しなければ達成も維持もできないし、不幸は必ず訪れるわけではない。この考え方に基づけば「生命」よりは「精神的価値」=幸福を優先すべきという結論になりやすい。当然、他の考え方もあるだろう。立場や考え方で優先度は変わる。価値基準はさまざまな物事の評価の元になるものなので、読者に明示的に知らせるべきだろう。


この問題も「1.13の質問と10の本能の間にはファクトに基づく関係は存在しない」と同じく他の選択肢、可能性を排除しているのに、それを明示していないことから発生している。


世の中には、それだけ取り上げると、当然重要で優先すべきと思われるが、他の要因と合わせて考えるとどれを優先すべき難しいものがたくさんある。他の可能性を明示せずに切り捨てるのは本書で禁じられている「単純化本能」に他ならない。


念のために申し上げると本書にも幸福に言及している箇所はある。たとえば第7章の宿命本能の「赤ちゃんと宗教」では、子供の数が宗教によって変わらないことをファクトで示し、そこから大陸、文化、宗教が違ってもカップルが寝室でささやく幸せな家庭は同じだと説いている。ファクトから幸せのイメージまでの飛躍がありすぎるし、単純化しすぎていると感じるのは私だけだろうか? 著者はジョークのつもりなのかもしれないが。

実現すべき幸福について語られる箇所はほとんどない。あっても前述のようにいささか飛躍している。



繰り返すが、だから本書はダメだと言っているのではない。自分で本書にたくさん隠されている問題を見つけ、異なる考え方や解決方法を試みることが正しいファクトフルネス的な態度だと思う。著者自身が非常にポジティブであることは本書の特徴のひとつでもあるので、読者もそれを見習った方がよいと思う。

本書を読んでファクトフルネスな考え方が身につけば、読了する頃には複数の問題点に気づくはずである。そこからが本当の本書の価値のような気がする。本書はファクトフルネスという考え方を教えてくれる本であると同時に、問題集でもあるのだ。



補足すると訳者のひとりである上杉氏は精力的に本書を広め、解説してくださっており、下記の脚注は必読の力作である。未読の方はぜひ読んでいただきたい。


『ファクトフルネス』批判と知的誠実さ: 7万字の脚注が、たくさん読まれることはないけれど

https://jp.chibicode.com/factfulness-notes/



最後にチンパンジークイズについて、ある種の猿は文字を認識できる。つまりランダムに選ばない可能性がある。従ってチンパンジーを例に挙げるのは妥当ではない。細かいことと思うかもしれないが、本書の参考資料のひとつの冒頭で猿を使った実験に言及があり、ランダムにならないことが書いてあるのだ(詳細は https://hbol.jp/187703 )。私はこれは著者からのメッセージと理解した。読者自ら『ファクトフルネス』の精神で本書を確認してみるように言っているのだ。さもなければ参考資料の冒頭で否定されていることを本書の中で繰り返し使うことはないと思う。

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