第47話~雪と水滴

 沈んでいく夕陽がアスファルトに小さな影を映す。香織は予備校の帰り道で、駅の近くのベンチに腰を下ろして行き交う人波を眺めていた。

 別に家に帰りたくないとか、電車の出発時間を待っている訳ではない。ただ、とある男子が偶然でもいいから通りかかってくれないかなという微かな思いが心の内の大半を占めていた。


 (……今日も来そうにないなぁ)


 実は予備校に通う日の帰り道は、こうして水城に会えないかなという小さな希望を抱いて、少しの時間だけ彼を待っている。

 それも校庭での出来事の後、水城と話す機会がないまま冬休み期間へと突入してしまったので、連絡先も持っていない香織にとって水城に会う方法はこれしか思い浮かばなかったからだ。

 

 (……何であの時何も言えなかったんだろう)


 伊達の暴力から助けられたとき、本音で言うと嬉しさより恐怖感の方が香織の心を支配していた。恐らくその原因は、伊達に首のあたりに手を掛けられたときとその場の雰囲気が、香織の男性恐怖症をより一層敏感にしていたからだと思う。

 だがそれは自分の見解であって、水城の立場で考えてみればどうだろうか。

 女の子の目の前でクラスメイトに一方的な暴力をふるう。しかもその女の子はただ茫然とその光景を眺めているだけ。これは香織の予想だが、水城は香織に恐怖の対象として見られているのではないかと勘違いして自分と距離を取ろうとしている……と思う。

 確かに普段大人しくて感情を表面に出すことが少ない人だと思っていたので、あの眼で伊達を殴っている水城を見た時は心臓が縮みあがるかと思った。だがそれは香織の為にやってくれたことで、水城が責任を問われることは一切していない。

 だからもし水城と会う事が出来たなら言いたい。


 (助けてくれてありがとう……それと)


 もう自分から離れないで欲しい。ずっと一緒にいて欲しい、と。

 結局今回の出来事でも「あの時何で言えなかったんだ」と後悔してしまっている。でも散々と言っていいほど後悔してきたぶん、今の香織なら面と向かって口に出せるような気がする。

 いや、必ず口に出さなければ水城との糸が完全にプツンと切れてしまう。脳がそう予感しているからこそ、絶対に言わなければならないという使命感に駆られている。


 (……あ、雪だ)


 もうそろそろ陽が完全に暮れてしまう。それに肌が感じ取っているが、だんだんと夜の冷気が存在感を増してきている。

 香織は目の前に手のひらを広げて見せると、空気中に踊っていた雪の結晶が中央に舞い降りて、すぐに香織の体温で溶けてなくなってしまった。

 最後には、ぽつんと水滴だけが手のひらに残った。


 

 (良いわけないじゃないか!)


 アスファルトを駆ける冬馬の背中に先程の情景が映し出される。


 「……冬馬、私はな、恋ってのはもっと貪欲で、それでいて純粋で自分に正直でいていいと思うぞ」

 

 刹那社長がマグカップを置いて、冬馬と目線を合わせてきた。

 いつも冗談を言って楽観的な態度をとっている社長の姿からは考えられないほど、いつになく真剣な表情に少し身をこわばらせる。


 「それにどうせ恋愛をしたことのない冬馬の事だから、自分をその小説の主人公に見立ててストーリーを動かしているんだろ? 君が味わった体験談を」

 

 さらには核心をついてきた社長の一言に何も言えなくなってしまい、喉まで上って来ていた言葉をそのまま飲み込んだ。


 「何もアクションを起こさないよりも、思いっきりぶち当たって砕けた方が、私としては男らしくて好きだけどな」

 「……そう、ですか」


 純粋な片思いを心の中にしまい込んだまま卒業していく。そう誓った事は、臆病で弱虫な自分が見出した選択肢の「逃げ」で他ならなかった。

 そして自分には相応しくないという誰が決めつけたことでもない虚言を理由に自分を正当化して、都合の悪いことからいつも逃げ回っていた。


 (全部、全部……刹那社長の言う通りだ)


 でもいつかは仮面を脱ぎ捨てなくてはいけないという事くらい、冬馬でも重々承知している。

 ……もう、弱い自分との追いかけっこは終わりだ。そして弱い自分に嘘をつくのも終わりだ。


 「すみません刹那社長。ようやく気持ちの整理がついたのでちょっと書き直してきます」

 「……うん。良い物語にしてよ?」


 刹那社長に挨拶をし、店を飛び出してから駅までの道のりを走る。そしてその途中、駅近くの橋に差し掛かった時、何か冷たいものが肌に当たった。

 

 「……雪だ」


 ふいに出会った本格的な冬の訪れに好奇心が動き、橋の中央付近で立ち止まって白い空から降りしきる雪を眺めた。

 

 (綺麗だ……)


 初めて話した勉強合宿の夜も、こういう風に花園と二人で春の星空を眺めていた。正直、その星空は良く覚えていないが、星を見つめる花園の横顔は今でもはっきりと覚えている。

 天使みたいな美人って本当にいるんだ。決して口に出せる事でもないが、本心でそう思った。多分、それが彼女はなぞのに惚れた瞬間だ。

 走って疲れた身体を休めようと、橋の欄干に手を掛ける。と、その時誤って手に持っていた小説の資料を手放してしまい、数十枚の紙が橋の外に舞った。


 (あっ……)


 口を動かすよりも先に、反射的に腕が伸びる。そしてようやく一枚の紙を掴んだ……と思った時、欄干に掛けていた手がずるっと滑り落ちた。


 (やばっ……)

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