第6話 名前のないもの(上)

 私と直哉の偵察の結果を受けて、私の母とミチコちゃんは、毎日話し合っていた。普通の人なら、にやにや話して済ませばいい話を、二人は真剣に話していた。私と直哉は、それを「旅館会議」と呼んでいた。


 一方、私と直哉は、それ以来大して会っていなかった。前から頻繁に会っていたわけではないから、それが自然な流れだったのだ。二人で偵察に行く前は、ばったり近所のコンビニで会うとか、駅のホームで会うとか、そういう偶然の要素で会う機会の方が、ずっと多かった。


 だから、私は安心していた。会おうとしてもしなくても、直哉には会えるものなのだ。そんなふうに考えていた。


 ところが、いざラブホテルから帰ってきたら、以前のような偶然は起こらなくなった。メールをすれば、難なく会える。最悪、直哉のバイト先に行けば、多分会える。


 でも、今までは、わざわざ会いに行かなくても充分会えたのだ。なんだか、直哉が急に目の前からいなくなった気がした。

 目の前、というよりも、地球上から。それくらい、直哉の姿は消えてしまったように思えた。


 そんな時に頭を過ぎるのは、あの日のバスタブだ。


 『お前とヤってたら、納得した。』


 直哉とヤることになるなんて、思っていなかったのに。それでも、私は納得した。裸になるのも、直哉の肩越しに天井を見るのも、直哉と物理的に体を繋げることも。

 それはやけに居心地が良くて、穏やかで温かい。

 生きるには、それが必要だと思えるくらいに。


 けれど、その感情の名前を、私は知らない。


 私はまた、直哉とヤりたい。


 綺麗な言葉を並べる事はいくらでも出来るが、平たく言えば、そういうことだ。



 ところが、いざ目の前に直哉が現れると、そんな気持ちはちっとも言葉にならない。無意識の中に、潜り込んでしまう。

 もちろん、二人の再会に感動して熱い抱擁を交わす、なんて展開にはちっともならない。いつも通りに振舞って、いつも通りの会話をするだけだ。


 久しぶりに、私と直哉は近所のコンビニで深夜で顔を合わせた。その夜、私はチョコアイスが食べたくなり、コンビニでアイスを漁っていた。


「見過ぎ、見過ぎ。」


 すると、後ろから声がした。アイス売り場から体を起こして振り返ると、直哉が立っていた。


「なんで夜中に、必死にアイス見てんの?」

 必死な姿を見られて悔しかったので、堂々と言ってやった。

「食べたかったから。」

 すると、直哉は意味ありげな顔で笑った。

「奇遇じゃん。」

 そう言うと、直哉もさっきまでの私と同じように、アイスを漁りだした。


 百円アイス片手に、コンビニの正面にある公園に行った。この公園は、Y字型の道路のスキマに出来た、三角形の公園だ。だから、三方向を道路に囲まれている。でも、深夜なので交通量は疎らだ。時々通過する車の音が、風の音みたいに聞こえる。

 私達は、ブランコに座った。


「涼しいな。」


 本物の風が、そよそよと流れる。アイスの冷たさが、心地良く体を通る。月も、心なしか気持ちよさそうに浮かんで見える。


 何故か、何から話そうか考えてしまった。


「ミチコちゃん、元気?」

「あぁ、うん。時々、ハツエさんがうちに来る。」

「らしいね。」


 何にも話さなくても、いいような気もした。でも、たくさん話したい気だってした。

「一口、食っていい?」

 直哉が言うので、私は大げさに嫌な顔をして、選び抜いた百円アイスを差し出した。

「俺のもやるから。」

 けらけら笑って、お互いのアイスを食べた。


 それから、他愛の無い話をし続けた。特別じゃない、他愛の無い話ばかりだ。今までずっと、私達が繰り返して来たように。


「旅館会議、ずいぶん熱心だよな。」

「うん。やたら真剣だし。」

「あれで、何か変わるのかねぇ。」


 直哉は、ぼんやり言った。私は、どうだろうね、と言葉を浮かべてから、続けた。


「旅館が変わるって言うより、あの人たちが変わるんじゃない?気分的に。」


 アイスの甘い香りが、少しだけ風に乗ってきた。


「そのために、俺らが犠牲にー…。」

 そこまで言って、直哉の言葉は立ち止まった。

「違うか、別に犠牲になってはいないや。」

 そう言い換えると、直哉は、ふとジャングルジムに目をやった。


「俺さぁ。」

 声の周囲が、引き締まる。

「俺は男だからさ、例えば、女の子と飲んで2人で泊まったら、多分、手ぇ出しちゃうと思うんだ。」


 人の性欲のおかげでご飯を食べてきた身だ。私は、直哉の発言を軽蔑なんかしていない。だから、隣で黙ってアイスを食べた。直哉は、その沈黙を飲み込んで続ける。


「でもさ、たまに思うんだよ。なんでこいつとヤっちゃったんだって。」

 私は、今度はうなずいた。

「ヤる前に、一瞬迷うんだよ。こいつとヤって、後悔しないか?ってさ。」

 そこで一旦、直哉の視線は手元のアイスに戻った。

「結局、ヤっちゃうけど。」


 そこまで来て、直哉は急に早口で一気に言った。


「とりあえず、俺はお前とヤる前に迷わなかったんだよ、それだけ。」

「私、また直哉とヤりたい。」


 私の言葉に、直哉は目を丸くして宙を見た。アイスの表面から水滴が流れて、それはぽたりと地べたに落ちた。


「その気持ちは、なんとなくわかる。」

「でも私、直哉の何になりたいのかは、わからないよ。」

「俺は単純に」


 直哉はぴたりと言葉を止めた。続きを待ってみたけれど、直哉は何も言わずに残りのアイスを一気に口に押し込んだ。


「……まぁ、いいや」


 そうして直哉は立ち上がり、

「ほら、立てよ」

 と私をブランコの座板に立たせると、私のブランコを揺らし始めた。

「二人乗り、懐かしいな。」

「壊れない?」

「わかんない。」

 そのまま揺れるブランコに、直哉が乗り込む。小さな座板の上で向かい合って、私たちはブランコを漕いだ。


 ブランコは不恰好に揺れる。

 夏の夜の空気が頬を撫でる。

 どこへも進めない代わりに、直哉から笑い声が聞こえた。


「ちゃんと漕げって!」

「久しぶりなんだからさ!無理!」

「あのさぁ、今度髪切ってくんねぇ?」

「止めてくれたら考える!」


 ギシギシ揺れるブランコに、私は声を上げる。それが合図になって、直哉はブランコを漕ぐ動きを止めた。


 揺れが小さくなったブランコで、私はようやく直哉の顔を見上げた。自分の息が切れているのが聞こえる。


「もー、子どもじゃないんだからさ。」

「でも結構いい線行ってただろ、この歳にしては。」

「落ちたらどうすんの。」

「そん時は、道連れだな。」


 私も直哉もブランコを降りて、ブランコ越しにお互いを見た。


 月が出ていた。

 直哉の顔を月明かりが照らして、鼻筋をなぞるように影が落ちる。

 それが羨ましかった。

 月明かりのように、触れられるなら触れていたかった。


「確かに、結構、前髪伸びたね。」

「な。」


 吸い寄せられたのか、吸い寄せたのか。直哉と私は、そのままキスをした。

 夏の夜の空気とアイスの香りがないまぜなって、直哉の唇はひんやりしている。

 けれど、分厚い舌が私の息を絡め取る頃には、二人の温度は同じになって、どちらがどちらかもわからなくなってしまう。


 ぽってりと熱を帯びた唇を離して、直哉が苦笑いを浮かべた。

「さすがに、外だからな。」

「そうだね。」

 顔を離せば、夜風が私たちの間を我が物顔で通り抜ける。


 それを眺める私の気持ちには、名前がなかった。

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