旅館みなみ屋

矢向 亜紀

第1話 旅館みなみ屋

 自分の家が連れ込み旅館だと知ったのは、私が十二歳の時だった。


 ある日、母は私の父の墓前で私に言った。

 当時、私は生理もギリギリ始まったくらいで、正直、ようやく知識やら関心やらが出始めた頃だった。

 だから、連れ込み旅館でどんなことが行われているのか程度は、なんとなく理解できた。あくまでも、なんとなく。


 それに、うちの旅館が観光地の旅館と違うことぐらい、八年前の私でもわかっていた。

 私の母が一人で経営する旅館、みなみ屋は、明らかに住宅街の中にあった。どう考えても、普通の旅館じゃない。


 だから、驚いたという記憶よりも、やっぱりねって思ったような記憶がある。


 母が当時の私に、どうやって連れ込み旅館の事を説明したのかは、もう覚えていない。ちゃんと説明されたような気もするし、何も言われなかった気もする。ただ、

「駆け込み寺みたいなモンだと思ってくれれば、それでいいよ。」

 そう言われた事だけは思い出せる。



 新宿から急行電車に二十分乗ると、二つの路線が乗り入れる、私の家の最寄り駅に着く。改札を出ると、まずパチンコ屋とスロット屋が見える。毎朝、開店を待つ中年男性たちが、黙ってそわそわしながら並んでいる。そんな風景を横目に歩くと、古い飲み屋と新しいバーが向かい合っている。細い道路を挟んで、朝はじっと黙って、お互いを見つめている。夜は、お互い自分の事しか見ていない。


 そのまま歩くとすぐに、踏切と、父の墓石を買った石材店がある。その正面には、アジア系のスナックと、一時間飲み放題のスナック。隣同士なのに、よくお互いやっているなあと感心する。だって、夜になると出てくる客引き達は、どちらもただ店先に立っているだけなのだ。だから、上手くやっているんだろうか。


 そんな事を考えている間に、踏切が開く。酒屋の前の信号を渡れば、「旅館 みなみ屋」がある。私には連れ込む相手がいないので、みなみ屋には行かない。もしかしたら、踏切近くのスナックから、みなみ屋に人が流れているかもしれない。


 自分の親から引き受けた家業を、母は恥じてもいなければ、誇りに思ってもいないようだった。三人姉妹の末っ子だった母は、単に結婚が一番遅かったというだけで、みなみ屋を継いだ。そんな個人経営の連れ込み旅館やホテルは、この地区にもう三・四件ある。昔からずっと、川のほとりの住宅街で、ひっそりと妙な存在感を保っている。



 こんな土地柄だからだろうか。私は、家業に関してのいじめを受けたり、バカにされたりした記憶があまりない。確かに、多少はからかわれもした。でも、皆、ちゃんとわかっていた。


 あの子の家は八百屋だ、僕の家はスナックだ、あいつのうちは会社員だ、私んちは連れ込み旅館だ。それ程度のことだった。もちろん、その人を構成している要素の一つとして、認識はしている。でも、別に大したことではないって、誰もが気付いていた。そんなことより大事にしなくてはならないことが、残念だが私達にはたくさんある。


 父は、生前会社員をしていた。ぼんやりとした記憶や、追々身につけた記憶では、細身で、優しそうな顔つきの人だった。母とは学生時代に出会い、結婚したという。元から丈夫な方ではなく、それが原因かはわからないが、驚くほど早くに、この世から消えてしまった。


 そして、それ以来、八年間母には男の兆しがない。


「旦那がいなくなってもさ。」

 学生時代の仲間である隣人達に、ある日母が言っていた。

「みなみ屋が手元にあるから、なんとかできるのよね。」

 その口ぶりからは、連れ込み旅館独特の存在感とか、確かに滲むいかがわしさは感じられなかった。十八歳未満をお断りにするべき事は、他にもっとあるんじゃないかって、思うくらい。


「だから、是非使ってよ。」


 その使い方は、いかがわしくて当然なのだが。


 一度だけ、私の帰宅に合わせて昼間家にいた母に、聞いたことがある。

「この時間帯ってさぁ、混むの?」

 すると母は、歯切れよく言った。

「数は少ないけど、ワケあり率は高いね。」


 私に家業の話をする時の母は、何でもはっきり言った。勿論、お客さんのプライバシーに関することは、子どもの私にも話さなかったけれど。


 そういう情報を握っている点も、周りの人々が連れ込み旅館の関係者を差別しない理由の一つなのかもしれない。漏らされたら取り返しのつかないことになるって意識は、誰でも持っているんだろう。要は、なんだかんだで、意外と沢山の人がみなみ屋を使っているってことだ。


 別に、軽蔑もしないし幻滅もしない。汚らわしいとも思わない。


 むしろ、私達親子二人は、みんなの性欲でご飯を食べているのだから、有難い。

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