第一章その5

 放課後になり、朝霧光はいつものように席を立つと廊下に出て、望や冬花と合流する。

「冬花、昼休みはどこに行ってたの?」

「音楽準備室で柴谷先生や吹奏楽部の人達と紅茶を飲んでたの」

 冬花の笑みは曇りがちだ、何があったんだろう? 何か思い詰めてる表情で冬花は提案する。

「ねぇ、せっかくだからさ……風間さんと桜木さんも誘おう」

「そうだね、俺もそう思ってた」

 望が提案に乗るとなんとなく光は感じていた。冬花も風間さんのことを気にかけているんだと、それは光も同じだった。

「それなら行こうか」

 みんなで一緒に帰る。ありふれたものだが青春モノみたいだ。

 光はなにか引っ掛かるような気持ちで二組の教室に差し掛かると、二組のホームルームも終わったところで、春菜はクシャクシャと頭を掻きながら出てきて、冬花は声をかけた。

「桜木さんどうしたの? 一緒に帰ろう!」

「あっ、うん……昨日SNSで二組の誰かが煙草を吸ったってデマ情報が流れたんだけど、玲子れいこ先生が調べたら証拠写真の煙草の吸い殻は曰く、一部の専門店でないと買えないイギリスのヴィクトリー・シガレットっていう銘柄だったそうよ……誰かが玲子先生の吸い殻を拾ってそれで拡散させたみたい……最近誰かがうちのクラスを貶めようとしてるの」

 二組の担任――綾瀬あやせ玲子れいこ先生は柴谷先生と同い年の美人の先生で、みんなは玲子先生と呼んでいる喫煙者だ。

 世間の禁煙ムードもどこ吹く風と言わんばかりに、時々敷地の外や学校の野良喫煙所で恐ろしくキツい匂いの煙草を吸ってる。

「ええっ!? 酷いじゃない!」

 感受性豊かな冬花は当然の反応を示すと望は訊いた。

「ねぇ桜木さん、それ……いつ頃から?」

「確か部活辞めた後だから六月頃かな?」

 春菜は思い出しながら言う、それでハッとして確信した表情が徐々に怒りを露にするが、一組の教室から夏海が出てくるとブルブルと首を左右に振ってクールダウンさせて歩み寄る。

「夏海、今日もみんなで帰ろう」

「あっ、うんまた昨日みたいに街に――」

 夏海が安堵の表情を見せたかと思った瞬間、何の前触れもなく冬花は人目を憚らず夏海に抱きついた。

「雪水さん……どうしたの?」

 困惑する夏海に冬花の瞳から大粒の涙が溢れ出し、嗚咽を漏らす。

「うっ……辛かったんだよね夏海ちゃん……毎日辛くて苦しい日々を送って……吹奏楽部辞めた後も一人で心細くて耐えていたんだよね? 今日聞いたの、吹奏楽部の先輩や駒崎さんから……夏海ちゃんがフルート頑張ってたけど……壊れちゃったって」

 夏海はなんとも言えない曇った表情になる。光は周囲の生徒達の視線が集中してることに気付いて春菜と目が合うと、彼女は無言で頷いて望は優しく冬花と夏海を諭す。

「冬花……ちょっと場所を変えよう。風間さん、僕たちにも話しを聞かせてくれるかな?」

「うん、じゃあ屋上に」

 夏海は重く頷いた。みんなで屋上に上がって塔屋を出ると、厚い雲がかかってるとはいえ陽射しに加熱されたアスファルトの熱が、上履きを履いてもはっきり伝わる。

 真夏の湿った心地よい風が吹く中、夏海は静かに話し始めた。


 私が吹部でフルートを始めたのが中学の頃、入学式の日に仲良くなった八千代ちゃんに誘われて一緒に入ったの、八千代ちゃんはオーボエだったけどみんな仲良くしていたわ。

 コンクールとは無縁の弱小だったけど顧問の先生も先輩もみんな優しくて純粋に楽しくて……文化祭や体育祭、定期演奏会の時の方が晴れ舞台だったわ。

 細高は滑り止めで受けたんだけど、それでも八千代ちゃんと一緒だったのが嬉しかったし、同じクラスになった恵美ちゃんとも仲良くなって吹部に入った。

 けど、細高の吹部は中学の時とは悪い意味で正反対だった。

 顧問の言うことは絶対だったし、パートや楽器で派閥を作っていてピリピリしていて休みなんてなかった。

 休んだら次の日はみんなの前で頭下げないといけないって、最初の頃は練習中それこそ怒鳴られて何回も泣かされて……それでも、私と八千代ちゃんや恵美ちゃんとなんとか励まし合いながら頑張ってきた。

 でも……私には無理だった!

 コンクールが近づいた七月の凄く暑い日にね、暑くて気持ち悪くなって椅子から立ち上がった瞬間に吐いて倒れちゃったの……ボーッと気が遠くなる間……聞こえちゃったの。

 楽器は大丈夫? 壊れてない? って、保健室のベッドで休んで楽になったけど、顧問が来て……お前は今日まで何してたんだ、大事なフルートを壊して失望した、時間を無駄にしたって……幸い保健室の先生が止めに入ってくれたけど、あんなに自分自身を否定されたことはなかった。

 その時、私より楽器の方が大事ならもういいや……フルートなんてもうやりたくない……吹部はもう私の居場所じゃない……辞めた後はしばらくは陰口や噂を流されたけど、顧問に怒鳴られたり人格否定されるよりはよかった。

 六月に春菜ちゃんが声をかけてくれたのは本当に嬉しかった。


 夏海は悲しげな眼差しで春菜を見つめると、春菜も沈んだ表情になる。

「そんなに嬉しかったんならさ、もっと嬉しいって顔して笑えよ……もうすぐ夏休みなんだぜ、それも彗星の夏休みだ! いっぱいさ……青春しようよ!」

「うん、わかってる……私……夏は好きだったけど、今はもう嫌いなの……暑い日になるとあの日のことを思い出して頭から離れないの」

 だから夏海はあの時、夏なんて大嫌いだと叫んでいたのか。光は六月の晴れた日のことを思い出すと、望は言い当てるように訊く。

「だからもう……吹奏楽部には戻りたくない?」

「……恵美ちゃんや先輩たちが戻ってきて欲しいって言ってるのわかってるけど……私のことを快く思わない人たちも沢山いるの……せっかく柴谷先生が纏めてくれたのに、また私のことで争ってしまうかもしれないから……吹部はもう私の居場所じゃないと思うの」

 夏海やこの前春菜が言った通り一度裏切った部活にまた戻る。学校と言うのは恐ろしく狭くて息苦しい檻だ。それをみんな知識ではなく心で熟知してる、春菜は夏海の心を刺すように言った。

「部活どころか教室――学校そのものじゃない?」

「……うん、前はみんなで楽しくやってたんだけど……今は休み時間とか昼休み……特定の人以外、私に声をかけちゃ駄目って空気なの」

 夏海は重い口調で言う、特定の人とは恐らく吹部のクラスメイトだろう、周到な手だ。

 恐らくはスクールカースト上位グループに口添えでもしたに違いないと、光は眉を顰める。

 冬花は首を横に振り、嘆きながら憤る。

「酷いよ! これじゃ部活辞めてもどこにも居場所がないじゃない!」

「だからこうして桜木さんが風間さんに寄り添ってる?」

 望が言うと春菜は「大当たり」と頷いた。

「辞めた者同士でさ、気楽にやっていこうって……勿論、辞めて逃げた弱い者同士で傷の舐め合いをしてるって陰口言う奴もいるけどさ……あたしも居場所無くしちゃったからね」

 春菜の微笑みは寂しげで夏海は悲しげな眼差しで見つめる。

「ごめんなさい春菜ちゃん、私のせいで……一緒に辞めた友達も離れて――」

「気にするなよ! あいつらはあいつらで楽しくやってるさ! 距離を置くように言ったのあたしの方からなの……羨ましいと思うこともあるけどさ、それで……いいんじゃない?」

 後半の春菜の台詞は弱気に聞こえ、夏海は今にも涙が浮かび上がってきそうな表情で唇を噛んだ。

「でも……私のせいで居場所を無くしてしまって……」

「夏海ちゃん……春菜ちゃん……」

 冬花もどうしていいかわからないのか、ただ二人を見つめて呟く。

 望も歯痒そうな表情でジッと二人を見つめてる。

 光にとっての居場所とは? 少なくとも狭い教室でも、この屋上でもない。望と冬花と三人で放課後は気ままに街をブラブラしている。

 強いて言うなら望と冬花の二人と、どこにでも行ければそこが居場所だ。

 それならこの二人に自分ができることは? いや、自分一人ではできることは僅かだけど……光は自問自答し、ゆっくり呼吸を整えて腹を括り、突き抜けるような声を強く響かせた。


「じゃあ……みんなで作ろう!」


 みんな「えっ?」という顔で光に眼差しを向けると、夏の爽やかな風が吹きつけ、雲の隙間から陽光が射す。

「僕も自分のクラスが狭くて息苦しいから、望や雪水さんといる……でも、それは悪いことじゃないし弱さじゃないと思う。だから風間さん、もう一度夏休みを――夏を好きになろう!」

 光の言葉が、心が、果たして夏海に届いたのだろうか? 夏海は闇の中、微かな希望の光を目にしたような表情だ。夏海の唇が微かに動いた瞬間、春菜は瞳を輝かせて嬉しそうに飛び上がるような高い声を上げた。

「いいじゃない! 青春じゃない! 夏海、あたしは乗るわ!」

「それなら、俺たち今年の夏休み湘南に遊びに行く計画立ててるんだ。一緒に行こう!」

「えっ? 如月君いいの!? 本当にいいの!?」

 春菜は裏返った声で尋ねると、望は躊躇う様子もなく頷いた。

「うん、俺の親戚にホテルのオーナーをしてる人がいるから頼んでおくよ!」

「いやったぁぁぁあああっ! 湘南江ノ島! しらす丼! そうだ! まだ紹介してないけどもう一人の子も誘いたいの!」

「うん! 楽しみが増える!」

 望と春菜は元々明るい性格だからか意気投合し、光は思わず微笑む。

 冬花は夏海の目の前まで歩みより、両手をゆっくりと優しく握る。

「夏海ちゃん……光君の言う通り、居場所がないなら一緒に作ろう。怖いかもしれない、不安かもしれない、だけど大丈夫……一人じゃないよ、あたしたちがいるから」

「雪水さん……」

「冬花でいいよ」

 冬花は無邪気な笑顔で言うと夏海は声を震えさせた。

「うん……ありがとう……と……冬花ちゃ――ふっ……ふぇええええん!」

 夏海は抑えていたものが決壊し、両目から大粒の涙を溢れさせて小さな子供のように大声で泣きじゃくり、冬花は困惑しながらハンカチを取り出す。

「あわわわっ夏海ちゃん! 大丈夫?」

「大丈夫よ、嬉しくて泣いてるんだよね? 夏海」

 春菜は大粒の涙を拭う夏海の背中を優しく擦る。

 この子がもし満面の笑みを見せてくれたら、それはきっと真夏の太陽のように眩しく、素晴らしいものなんだろうと夏の空を仰ぐと気付いた。


 蝉が鳴いてる。


 僕たちの、夏の物語の始まりを告げるかのように。そういえば今朝のニュースで気象庁が梅雨明けを宣言したと報じたことを思い出した。

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