第3話






「ア゛アアアアアアア!!」


吠えるビースト。逃げ惑うロバ。

痛みと疲労で、ロバの動きはかなり鈍ってきていた。

かばんは、海岸にたどり着くや否や、助手を見上げて声を上げた。


「助手さん!私をここで下ろして、カルガモさん達をお願い!」

「任せるのです…!」


助手はかばんから手を離す。

浜辺にかばんが着地する音が響き、ビーストはそちらを振り返ってかばんの姿を目に留めた。


「こっちだ!!」


強く叫ぶかばん。

先程まで執拗にロバを狙っていたビーストは、その声に大きな咆吼をあげると、ロバには目もくれず、かばんに向かって駆け出した。

ロバはそれを見て、緊張の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。






「狙いを変えた…!一体何故――」


驚くプロングホーンの言葉に、ハッとしたように息を呑んだのは、リョコウバト。


「ビーストは他のけものより【ヒト】を狙うって――」


かばん達とキュルル達の会話を聞いていた彼女は、その言葉を思い出して呟いた。







「アードウルフ!大丈夫ですか!?」


桟橋に降り立った助手は、蹲って震えているアードウルフに声をかける。

足に裂傷をつくった彼女は、傷口を押さえたまま涙目でなんとか応えた。


「私は大丈夫です…!カルガモさんが…!」


倒れてぐったりとしているカルガモは、腕に噛みつかれたような深い傷があった。

痛みと出血で朦朧としているのか、小さく呻き声をあげている。


「――ッ先にカルガモを避難させます。アイツはかばんが引きつけてくれているので安心するのです。刺激しないように、落ち着いてここで待つのです。いいですね」

「は、はい…!」


助手はカルガモを抱えて再び上昇する。

しかしホテルまで運んでいては、アードウルフとロバの救出に時間がかかってしまう。

辺りを見渡し、近くまで来ているサーバル達のボートを認めると、そこに向かって飛んだ。


「カルガモ…!」


ボートにゆっくりと下ろされたカルガモを見て、サーバルが泣きそうな声をあげる。


「ここで保護してやってほしいのです。私はアードウルフを助けに戻るので」


早口でそう言い、再び飛び立とうとした助手は。


「――キュルル…!?」


自分とは全く違う方向を食い入るように見ているカラカルの言葉に、動きを止めてしまった。









「博士、アードウルフさんを助けて!ロバさんは、ぼくが!」


かばん同様、海岸にたどり着いたキュルルは、博士に着陸するよう求めた。

博士は焦りと心配がない交ぜになった表情で、しかし、と溢す。


「大丈夫なのですか…!?」

「だって、ロバさんはもうほとんど自分じゃ動けないよ!誰かが手を貸してあげないと…!」


博士は一瞬、判断に迷う。

危険だが、もう引き返す時間と余裕はない。


「――…頼んだのですよ…!」


海岸にキュルルを下ろし、博士は願うようにそう言って、アードウルフの元へと飛翔した。


「ロバさん…!」


キュルルは即座に、へたり込んでいるロバの傍らに駆け寄って声をかけた。

乱れた呼吸を整えることもできず、ロバはその声に耳を震わせると、堰を切ったように涙を零した。


「キュルルちゃん…!キュルルちゃん…!!私、私…!」

「落ち着いて、ロバさん。ぼくが肩を貸すから、立って動けるかな?とにかくまずは、ボートまで逃げよう」


キュルルはなんとか立ち上がったロバの体を支えてやると、共に桟橋目指して歩き出した。







かばんはビーストの攻撃を紙一重で避けながら、桟橋から少しずつ距離を取る。

敵意を剥き出しにしたビーストの爛々と光る瞳が、自分を捉え続けていることを確かめながら。


「ヴヴヴァアアアアアアア!!」


ビーストが怒号をあげながら大きく腕を振るう。

かばんはそれを身を引いて躱しながら、後ろ手に手を回して、背中の鞄から突き出た棒の柄を握った。


「――…ごめん…!」


苦しげに表情を歪めてぽつりと呟き、かばんはそれを鞄から引き抜くと同時に振るった。

鋭い一撃がビーストの胴を打ちつけ、彼女は悲鳴のような咆吼を短くあげると、わずかにかばんから後ずさった。

すかさずかばんは棒の切っ先をビーストに突きつけ、正面からじっと睨む。


「ヴゥウウウウ…!ヴゥウウウウウ…!!」


怒りの唸り声をあげるビーストは、かばんの厄介な抵抗に忌まわしさを感じているようでもあった。

一歩、かばんが踏み込むと、ビーストも様子を伺うように一歩下がる。


(――お願い、このまま…)


ビーストを威圧的に睨み付けながら、内心、かばんは祈る。


(このまま、諦めて、引き返して――)








ガタンッ








サーバルとカラカルと助手は、ボートの上で。

博士はアードウルフと共に、上空から。

かばんは、思わず瞳を動かして、それを見た。




体力と気力を使い果たしてしまい、桟橋の上で再び崩れ落ちてしまったロバと。

彼女と共に倒れ込んだ、キュルルの姿を。




「――」


息をすることも忘れ、かばんは瞳をビーストに戻す。

対する狂気に燃えた瞳は、もう自分の姿など、映してはいなかった。






――二人はほぼ同時に、砂を蹴って駆け出した。






「いたた…ロバさん、大丈夫…!?」

「ごめんなさい……キュルルちゃん……」


頭を振るいながら身を起こし、ロバを助け起こそうとするキュルル。

視線をあげれば、桟橋の近くまでたどり着いていたボートから、カラカルがあんなに嫌がっていた海に飛び込んでいるのが目に入って。

驚くキュルルに向かって、カラカルが不格好に泳ぎながら海水を飲んでしまうことも厭わず、叫んだ。



「ゲホッ――…キュルル逃げてっ…ッ後ろ!!!」



尋常じゃないカラカルの様子に、キュルルは血の気が引いていく体を無理矢理動かして振り返り。




瞳に自分を映し込んだビーストが、爪を高々と振り上げて、目前に肉薄していることに――そこでようやく気付いた。




「あっ…」


無意識に弱々しい声が溢れる。

何の抵抗も思いつかないし、間に合わない。

キュルルはそれでも、咄嗟に。

ロバの体を抱き寄せて、きつく目を瞑った。









バキッ

ドスッ








キュルルが知覚したのは、痛みではなく、音。

何かが激しく折れるような乾いた音と、湿っぽさを孕んだ重く鈍い音だった。


(え――)


不思議に思ったキュルルは、瞼をうっすらと持ち上げて、何が起こったのかを確認する。


「――」


瞬間、博士があげた悲痛な叫び声も、ロバの絶叫も耳をすり抜けて、世界から切り離されたような絶望がキュルルを支配した。




目に入ったのは、自分とビーストの間に立つ、かばんの背中。

一撃を受け止めようとしたのだろう丈夫そうな棒は、無残にもへし折られ。





――止まらなかった爪は、かばんの体に突き刺さっていた。





「――……っ……」


せり上がってきた悲鳴を必死に飲み下して、かばんは肩越しにキュルルを振り返り、絞り出すように。




「――ご、めん…なさい……ボクの、せい…で…」




悔やむように、そう、謝った。


「えっ…あっ……え……?」


キュルルは困惑の声しか溢せない。


「ヴウウゥッ!」


ビーストはかばんを捉えた腕をそのまま外側へと乱暴に振るって、爪を引き抜く。

遠心力で放り出されたかばんは、砂浜にドサッと落ちたまま、動かなかった。


「あっ……あぁ……!」


倒れたかばんから目が離せないキュルル。ビーストは血塗られた爪を再度構える。


「ミャルルルルルッ!!」


刹那、聞いたことのない鋭い声をあげながら、桟橋によじ登ったカラカルが俊敏に駆け、キュルルとロバを強引に抱えて海の中に飛び込んだ。

突然の事に面食らったビーストは、怯んだように動きを止めた。

その時。



バンッ!!



入れ替わるように、ビーストの前に落ちてきたのは、サーバル。

一瞬前まで彼女が乗っていたボートは、彼女の凄まじい跳躍の踏み切りの影響を受けてぐわんぐわんと揺れ、助手がカルガモを支えている。

着地の体勢から顔をあげたサーバルの瞳はギンと光り、食いしばった歯が覗く口元からは、フゥゥと荒い息が漏れていた。


「――」

「ヴアヴヴゥ……!」


言いようのない緊迫した空気が二人を包む。

助太刀に向かおうとしていた博士でさえ動くのを忘れてしまうような、サーバルから放たれる異様な気配。


「――…ッ…!!」


サーバルと睨み合っていたビーストは、ギリッと牙を軋ませると、イエイヌを助け出したときと同様にその場から逃げ出した。











「ハァッ、ハァッ…!」


泳ぎが得意なわけではないのに、二人も抱えて海の中をがむしゃらに動き、海岸にたどり着いたカラカルは、乱れる呼吸をなんとか整えようとする。

その横でへたり込んだキュルルは、体を動かすことも、声を発することもできなかった。

視線の先では、砂浜に倒れて動かないかばんの側で、博士と助手が必死に何かを叫んでいる。

瞳の輝きを抑えたサーバルは、桟橋の上で崩れ落ちたまま、飛び散った鮮血を呆然と眺めていた――。





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