僕たちはベッドの中

江山菰

タンポポの根っこのような

「カティとならできた」

 目の前にいる友人の言葉に、サイラスは口と鼻からビールを噴き出した。

 洒落てもいなければ特段に料理がうまいわけでもなく、ただ仕事帰りに立ち寄りやすいというだけのスペイン風バルで、二人は軽く飲んでいた。

 トレバーはビールに汚れた眼鏡をハンカチで拭き、次に顔をぬぐった。

 その神経質そうな所作のわりに、彼の顔は明るかった。

「できたって……あのカティと?あの電算室の?」

「うん」

 あの可愛げのない、たんぽぽの根っこみたいな?と言おうとしたが、友人が陶然とした黒い目で照れたように

「できたんだよ。ほんとに」

と言うので、サイラスは白いワイシャツの上からもありありとわかる筋肉隆々とした肩をすくませた。

 トレバーは店員を呼ぶと布巾を持ってくるよう頼み、待ちきれないのかテーブル備え付けの紙ナプキンで一度はサイラスの口に納まった液体を拭き取り始めた。

「なんでカティと……?? この間揉めてたんじゃないのか」

「ふふっ……この間、一人で残業してたらさ、カティが来たんだ」


 夜の10時過ぎ、トレバーはがらんとしたオフィスに一人残っていた。

 理論上の数字と実際に帳票に出力された数字、実際の収支の額がどうしても合わない。

 眼鏡をデスクに置くと、軽く床を蹴ってOAチェアを後ろへ進め、背凭れも折れんばかりにぐっと背を倒し手足を伸ばし、伸びをする。

 目を閉じると奥がちかちかする。しかし、目を開けているときの、眼底にあるひりひりとももやもやともつかぬ不快感よりはずっと楽だった。

 2分ほどそうしていると、軽い足音が近づいてくるのが聞こえた。

 彼は目を開いた。

 そこには、数日前彼が食ってかかった電算室のカティが立っていた。

 食ってかかった、と言うのは彼の認識であり、弱気な愚痴を誘い受けがちに吐いてすごすご帰って行ったというのが事実だったのだが、その時はけんもほろろに彼を追いかえした彼女が、少々ばつ悪げに高級チョコレートの紙箱と、データを再出力した伝票の束を抱えていた。


 いつも粗暴で男のような口調、仕事はできるが冷淡で人には一切手を貸さないという評判の彼女が開口一番、すまんかった、と言った。

「トレバーの言う通り、こっちにミスがあったんだ」

 謝りながら、チョコレートの箱を手渡す。

「よかったら食ってくれ」

 カティが担当しているのは、社内でもほぼ一部の人間しかアクセスを許可されない、個人情報と出納情報の管理及び関連付けだった。

 そのリストのうちの一件が、未入金にも拘らずチェック済み状態になっていたのだった。

 そのデータのやりとりは銀行のシステムエンジニアを介してオンラインで行われる作業であり、通常こういうことは起こらない。カティを含め誰しもこんな事態を予測していなかった。

 たまたまその入金に係る業務を所掌していたのがトレバーで、もうかれこれ1週間ほど狂った数字が彼の頭の中をぐるぐると回っていた。

「ここんとこ、ちょっと弄らせてくれ」

 カティは痩せぎすの身体を、椅子に座ったトレバーの膝と彼のデスクの間に割り込ませた。

 慌てて彼は立ち上がりカティに椅子を譲る。

 この椅子でけえな、とカティは少しぼやき、PCの画面に出ていた表の一部を、キーボードを叩いてちょいちょいと手直しすると、黒瞳がちの目をしぱしぱと瞬かせているトレバーに細長い指で訂正箇所とそのソースとなる出力伝票を交互に指し示した。

「ここだ……ほんとにすまんかった。ほら、ここ直しただけでほとんど解決だろ」

「ほんとだ」

「この頃アップデートでおかしくなったとこがあってばたばたしちまって……気づけなくてごめんな」

「……」

「明日、あんたの上司にも私が詫びを入れとくし、始末書も書く」

「……ありがとう」

「悪いのは私だから、礼とか言わなくていいぞ」

 そのとき、きゅるると腹の虫が鳴り、カティは白いシャツの腹に手を当てた。

 その仕草に、ふとトレバーは彼女の胸の膨らみと細い腰を意識した。

「お腹空いてるの?」

「まあな」

 トレバーがチョコレートの箱を開け、差し出すとカティは笑って手に取ろうとはしなかった。

 トレバーがプラリネを詰めた一粒を口に抛りこみ、おいしいよ、ともう一度勧めると彼女も緑のピスタチオがまぶされた一粒を摘まんだ。

 長い指の動きが思いもよらず優雅で扇情的だった。

「疲れた。もう帰ろうぜ」

 口の中のチョコレートを頬の方へ押しやってもごもごと言いながら立ち上がったカティを間近に見て、トレバーは思った。


 今まで気づかなかったけど、この人、すごくいい匂いがする。

 香料の匂いじゃない。

 匂いと言っていいのかどうかもわからないけど、うなじや胸元から温かく立ち昇る何かに胸の奥がくすぐったい。

 それに、カティってこんなに美人で優しそうだったかな?


 ここ数日の残業疲れで思考が痺れたようになっているところへ、自分の非を素直に認め一気に問題を解決しにやってきた彼女が一瞬女神のように見え、トレバーは彼のわりに非常に大胆な提案をした。


「ねえ、一緒にご飯食べて帰ろうよ」

「は?」

「僕もお腹空いてるし」

「お……おう」


 カティは少し考えると言った。

「じゃ、うちで飯食ってくか?すぐ近くだし…外でなんか食うには、ちょっと懐具合がよくねえんだ」

「僕が払うのに」

「迷惑かけたのは私だぞ? 今夜はトレバーに払わすわけにゃいかねえよ」

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