少年は保護区に帰ってきた

 保護区の中は、すでに人影がまばらだった。子供が多いので夕方以降に出歩く者は少ない。宿舎の前で、走って帰ってきた男の子に会った。ロムに気付くと、逃げるように宿舎の中に入って行った。よくある事なので慣れているが、アイラスとトールがそれを見た事だけが気になった。


 どう思ったかなと振り返ると、アイラスと目が合った。彼女はにっこり笑った。大丈夫だよ、と言われているようだった。なぜそう感じたのか、自分でもよくわからない。そうだといいなという希望が、そう思わせたのかもしれない。




 まず入居手続きをしなければならない。宿舎一階の管理人室に行った。管理人は目つきの鋭い初老の女性だ。アイラスに気付き、じろりと睨んだ。


「なんだいその子は?」

「脅さないで下さい……先にニーナのところへ行ってきました」


 ロムはアイラスの認識票を示した。


「珍しいね、魔法使いか。……なんだい、喋れないのかい?」

「言葉は、わからないようです。記憶もないみたいで……。素性については、ニーナが調べてくれています」

「ふ~ん……じゃあ魔法使い同士なら話せるね。ちょっと呼んで来ておくれ」


 室内に控えていたメイドに申し付けると、彼女は一礼して出て行った。呼んでくる? 保護区内に魔法使いが? ロムは一度も聞いた事がなかった。ニーナは知っているんだろうか。いや、知らないわけがない。教えておいてほしかった。




 しばらくして来たのは、ロムも良く知る人物だった。保護区内の学校で音楽や美術等、芸術系を教えている若い男の先生だった。肩まである燃えるような赤い髪で、片眼鏡をかけている。老若男女問わず人気がある先生だ。魔法使いとは知らなかった。


「入居に来た、魔法使いですか?」


 感情のこもらない赤い目で、アイラスを見る。いくら人気者でも、ロムはこの先生が苦手だった。


「そうだよホーク。言葉がわからないらしいから、通訳しておくれ」

「その必要はないですよ」


 ホークは冷たく言い放ち、アイラスの前につかつかと歩いていった。アイラスが抱いたトールに目を落とし、高圧的に言った。


「お前が使い魔だな? 人の姿になれるのだろう?」


 アイラスが驚いて少し後ずさった。ロムも違和感を感じた。使い魔が居るという事は、認識票を見ればわかる事だし、隠すつもりもない。だが今のセリフには、それ以上の情報が必要だ。トールが人の姿になれる事、言葉を理解する事を知っているかのように聞こえた。


「……自分では変化できないと言いたいのか? ならば、私が変化させてやろうか……」


 ホークは右手をトールに伸ばした。止めなければと思った。でもなんて言えばいいのか。適切な言葉を思いつかない。その時、乾いた音が部屋に響いた。

 少し遅れて、カラカラと固い音がした。片眼鏡が床に転がっている。ホークの頬に、アイラスの小さな手形がくっきりついていた。

 アイラスは、怒りで震えながら強く叫んだ。


「トール!!」


 アイラスはトールを少し持ち上げ、ホークに見せつけるようにした。そして、もう一度叫んだ。


「トール!!」

「それがその使い魔の名前か」


 アイラスはイライラして、トールを床に下ろした。ホークの襟首を掴み、再び手を振り上げた。


「待て! やめるのじゃ!」


 いつの間にか人の姿になったトールが、アイラスを羽交い絞めにした。ロムは呆然と見ている事しかできなかった。


「すまぬ! 我が主が失礼をした」

「違うでしょう」


 ホークは片眼鏡を拾いながら言った。少し優しい顔になっていた。


「主ではない。君達は主従ではないでしょう? 友人ですね?」


 トールは驚いて言葉を失い、一言だけ絞り出した。


「……そうじゃ」

「私の方こそ、失礼しました。私は使い魔を持った事がないのでね、扱い方がよくわからないのです」


「なんだい、魔法使いは喋れないのに、使い魔は喋れるのかい?」


 管理人の言葉に、まずい、とロムは思った。トールが話す予定はなかったので、打合せをしていない。トールにこの場を切り抜けられるとは、到底思えなかった。


「こやつは……アイラスは、わしの名付け親ではない。こやつとは、最近知りおうたばかりじゃ。わしも詳しくは知らぬ。わしは、わしの名付け親に頼まれたのじゃ。この子を頼む、とな」


 まさか、とロムは思った。迷いなくすらすら出てきたセリフは嘘とは思えなかった。それなら今の話は本当なんだろうか。何百年前か知らないけれど、はるか昔に亡くなったであろうトールの名付け親が、今10歳のアイラスを知るわけがない。


「君の名付け親は……?」


 トールは答えず、首を横に振った。


「そうか……。君の名付け親は、亡くなる前に君の『真の名』を、この子に教えたのだな……」


 トールの目が泳いだ。あ、ヤバイ。そこはダメなんだ。


「アイラスは、落ち着いた?」


 注意を逸らさなければ、と思ってロムは話しかけた。トールはほっとしたような顔で、まだ抱きしめていたアイラスを離した。

 離れていく小さな手を、トールが再び掴んだ。アイラスは不思議そうにトールを見上げ、驚き、目を伏せて頷いた。二人の間で行われた会話は、なんとなく想像が付いた。


 アイラスの目から、もう激情の炎は消えていた。でも、この小さな身体の一体どこに、あんな激しさがあったんだろう。自分にはない強さを見た気がして眩しかった。


 アイラスはおずおずとホークに近づき、その手に触れた。ホークもまた驚いて、笑顔を見せた。その笑顔は、ロム以外に向けられるいつもの笑顔だった。

 ホークは自分を嫌っているのではないか? と思っている。そう思うからこそ苦手なのだけど。

 二人が手を放すのを待って、管理人が声をかけた。


「話はできたのかい?」

「ええ、まあ。でも大丈夫です。彼女には彼が……トールが居ます。言葉を覚える助けになるでしょう」


 私は必要ありませんとでも言わんばかりに、ホークは早々に退室しようとした。ロムは慌てて声をかけた。


「待って下さい! 先生は、アイラス達の事を知っていたんですか?」


 ここを逃して、後で改めて声をかけるのは億劫なので、疑問に思っていた事を聞いておきたかった。


「ああ。ニーナから連絡があったからね」


 やっぱり……そういう事は教えておいてほしい。もっとも、ホークのとった行動は、ニーナにしてみれば想定外だったとは思うのだが。


「君の事も、また頼まれたよ」

「えっ、俺? 俺の事で、何を……?」


 それに、またって。過去にも頼まれた事があったのだろうか。

 クロンメルに来て、保護区に入って、人には迷惑をかけないよう気を付けてきた。わがままを言った事もない。頼まれる心当たりが全然ない。逆に、何を頼まれても忠実にこなしてきたつもりだ。


「さあね? 『神の子』の考える事は良くわからないよ。私には、君が助けが必要な子とは思えないからね。……他にはないかい?」

「ありません……」


 腑に落ちない思いはあったが、今はそう答えるしかなかった。


 そこからは、事務的な話が進んだ。管理人から保護区の説明を受け、アイラスには一室与えられたが、トールの部屋は当然無かった。トールは基本猫の姿で過ごすよう言われ、寝起きもアイラスの部屋ということになった。


 報酬としてもらっていたお金を出すと、トールの食費に当ててくれることになった。トールは、人の食事は猫の姿では美味しくないので、猫の餌を求めた。そのため、少なくとも半年はトールのためにお金を入れなくていい事になった。食堂に連れて行けば、トールの食事も出してもらえるらしい。他にもペットを飼っている住人は居て、皆同じようにしているとのことだった。それはロムも見た事があった。


「ロムの隣の部屋が空いていたから、そこにしておいたよ。鍵はコレだ」


 管理人は、アイラスではなくロムに鍵を手渡した。


「案内してやりな」

「わかりました」

「アンタはもう、今月限度額に達してるから、来月まで出かけないんだろう? そこの使い魔と一緒に、言葉を教えておやり。言葉がわからないと、学校にも行けないからね」


 ロムは頷いた。管理人からの頼まれ事は毎回気が重いのに、今日は全然面倒とは思わなかった。


「部屋に行って早く着替えな。アイラスの服はすぐ用意させよう。着替えたら、早めに食事に行くんだよ。もうアンタ達だけだからね」

「わかりました。色々ありがとうございます」

「それにしても」


 管理人がニヤリと笑った。


「アンタが人を連れてくるなんてねえ」


 そんなに変かな? でも確かに、この二年間は人を避けていたかもしれない。人に関わらなければ、迷惑をかけることもない。ニーナだけが名指しで呼び出すので、会う機会が多かったくらいだ。


「これで何か変わるといいんだがね……」


 部屋を退出する直前、管理人が小さな声で呟いたのが聞こえた。だが、その意味はわからなかった。それより、トールに名付け親の事を聞けるかな等と考えていた。

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