3
目が覚めると、そこは見知らぬ天井だった。
というか、今僕が横になっているのはスプリングの聞いた保健室の白いベッドではなく、硬めの化学繊維のような肌ざわりの寝心地悪い軽自動車の後部シートだった。かぶってたフカフカ布団は安物の薄いブランケットに変っている。
「お、起きたか」
声のする方に顔を向けると、ハンドルを握ってる菅野がいた。
「格付けに失敗してないのに待遇が貧相になってるんだけど」
「伊東○朗も浜田○功もGA○KTもいねーよ。悪かったなボロい車で」
「事実ボロい。ところで、どうして僕はここに?」
「お前が起きないから、寮まで送ってやろうと思ってな」
言われてみれば、思ってたより寝起きがいい。予定した時間より寝過ぎたようだ。
備え付けのオーディオで時間を確認すると時刻は十八時、予定の三倍も寝てしまっていた。
「コーヒーが薄過ぎたのか……起こしてくれたらよかったのに」
「お前、相当疲れが溜まってただろ? 無理に起こすのも悪いと思ってな」
友達のいらない気遣いに心打たれる。
「それで、今学校出てどの辺り?」
「まだ出てすぐのとこだけど、どっか寄るつもりだったのか?」
「晩の食材を買いにスーパーに寄ろうかと」
「わかった、丁度俺も帰りに晩飯を調達しようと思ってたところだ」
ついでにエナジードリンクも買っておこう。明日の朝までには計画書を完成させねばならない以上は夜を徹するのを覚悟しないと。
「なあ、アート」
しばらく進んでから、意を決したように菅野がこんな風に切り出した。
「ん?」
「どうして、お前はそんなに、この仕事を頑張れるんだ?」
当然ながら菅野は前を向いて運転しているからどんな表情でこの問を投げかけてきたのかわからないが、声のトーンから真面目な話だと判断できる。
「前にも言ったと思うけど、全ては人々の平和と安寧のために。そのためになら、僕は何だって投げ出せる」
「それは理由じゃない。俺が聞きたいのはその先だ。なぜお前は全ての人々に救いの手を差し伸べたいと思ってるんだ? お前の願いの本質はどこにある……?」
「……」
改めて問われて、僕は閉口してしまう。
どうして、僕はこんなにも人々を救いたいと焦がれているんだ?
その理由が、自分の中をどれだけ探しても見つからない。そもそも、当たり前のように僕の中にあった願いに『なぜ』と疑問を感じたことがなかった。
一体、この願いの源泉はどこにある?
その問に一つ回答を出すなら――
「憶えてない」
「は?」
「だから憶えてないんだって、僕の一番古い記憶にはもう既にこの願いがあったんだ」
僕はきっと忘れている。僕が持つ最も古い記憶は、呆然と立ち尽くしている僕の前に仁王立ちしている《嘘つきの魔女》の姿。
「僕にはボスに出会う以前の記憶がない。だから、この願いのきっかけを求めるなら、それ以前まで遡る必要がある」
「それじゃあお前は、理由もよくわかってないのに身を削っているってのか?」
「まあ、そうなるかな」
世界平和、なんて大それたことを嘯く人間は大抵、何か守りたいものや愛するもののために戦うのだろう。
けど――
「僕は、誰かを愛したことはない」
それは活力であるとともに弱点にもなりうる。だったら、忘れてしまってる方が都合がいい。
何を思ってこの問答を持ち掛けて来たのかわからないが、そこからスーパーに付くまで、菅野は口を閉ざしたままだった。
●
学校と寮の丁度中間地点の辺りに方舟唯一のスーパーマーケットがある。
高等部の寮は甲板部の艦橋と対になる位置に群集しており、スーパーを含め商業施設は艦橋と居住区画の間に集中している。
このような配置になっているわけは、高等部が小、中等部みたく寮長が大人数の家事をまとめて管理しているマンションタイプの寮ではなく、家事をするのが生徒自身のシェアハウスタイプであるため、学生が帰路に買い物し易いようにという配慮があるからだ。
「さて、今日は何が安い日だったかな」
今朝見た買得商品を広告したチラシを思い出しながら買い物カゴを手に取り、青果コーナーへ足を向ける。
「そうだ菅野、参考までに君のとこの夕飯の予定を聞きたい……ん、だけ、ど……」
言葉通りの意図で隣にいるはずの菅野の方を見ると、そこには菅野どころか誰もいない。かと思うと、既に菅野は僕よりも店に入り込んでいた。
そして、レジ横に山積みされている特売の即席の袋麺を一心不乱に買い物かごに放り込んでいた。
「おい、そこの養護教諭」
「…………ん、ああ、見てみろよ、五食入りで税込み三十円だってよ。普段から安いけど、特売だと一段と――っておいーー! 無言でカゴをひっくり返すんじゃねぇ!」
「菅野、まさかキミは毎日このような食事をしているのか?」
だとしたら、呆れる他ないが。
「別にいいじゃんかよー、俺料理できねぇし。楽で安くて美味いに越したことねぇよ。そうやってすぐにインスタントを悪者扱いするのは料理出来る奴の傲慢だと俺は思うね」
「誰がいつ食べ物を悪者扱いした?」
「ちょ、痛っ! やめろ、脇腹を短剣で小突くな、地味に痛い!」
「食べ物に善も悪もない、問題なのは、毎日、栄養が極端なバランスの物を食べ続けているキミにある」
結局のところ、菅野はさもインスタン食品を擁護しているように見せてるが、その実、自分の栄養管理の杜撰さを揉み消そうとしているのだ。
「味や栄養バランス、価格設定。確かに、インスタント食品は企業の弛まぬ努力で日々進化している。しかし、いくら塩分を控えめにしても、ノンフライ製法で油の使用量を抑えても、足りない栄養素を補えるわけじゃない」
これらの企業努力は称えられるべきものだ。今までは味や長期保存の観点から諦めざるをえなかった塩分や油、コレステロールの大量投入を、代替品や技術で抑えることに成功したのだから。
だが、これはあくまでも、多かったものを減らしただけなのだ。
初めから無いものは無いままだ。即席麺はあくまでも小麦とかん水を混ぜ合わせた中華麺と塩や出汁で出来たスープでしかない。即席麺の中でもカップ麺なんかには「かやく」として乾燥させた野菜や動物性たんぱく質も付いてくるがそれも微々たる量だ。
即席麺だけでは、塩分と炭水化物、それに油分しか摂取できない。肉や野菜などに豊富に含まれる栄養素を満足に身体に取り込めはしない。
「確かに器にお湯を掛けるだけのお手軽さは魅力的だ。しかも、パッケージには健康志向であることはを示唆するキャッチコビーが目に付く。だがな菅野、どこにもこれ一つで十分なんて文言は載ってないんだよ。結果として高血圧症やメタボリックシンドロームを防げたとしても、他の生活習慣病に掛かるリスクが出て来る。それこそ命に関わりかねない」
「とは言ってもな、俺なんてお前に比べたら老い先短い人生だし、美味いものを食いたいだけ食って多少早く死ぬくらい――」
菅野の言葉が終わるより早く、そのヘラヘラ顔に詰め寄り、僕は彼の胸ぐらを掴んでいた。
「早死になんて許さない……! 忘れたのか? 僕との約束を」
それは、僕があの日、瀧貴さんにも言った言葉だった。
どうやら、瀧貴さんの死で僕は『死』という言葉にデリケートになっているみたいだ。
「言ったはずだよ、菅野秋人、僕が望む未来の風景にはキミたちがいなければいけないんだ、もう既に瀧貴さんはいなくなってしまった。既に最善の未来ではないかもしれない……それでも、これ以上誰にもそこに辿り着くまで死んでほしくないんだ」
菅野を掴んだ手は力なく解かれた。あの日の無力さを、不甲斐なさを思い出してしまったからか。
最善でなくなったから妥協する。そんな選択肢はあり得ない。
どんなに見栄えが悪くたって、僕の思い描く未来から、これ以上誰もいなくなってほしくない。
「悪い、俺も軽口が過ぎた」
「そう思うなら、ちゃんと生きてくれ。そうだな、いい機会だし、ちゃんとした食事を取れるよう僕がレクチャーしてあげるよ。即席麺でも工夫を凝らせばスキルがなくてもなんとかなるものさ」
仕方なし、即席麺を一袋だけ菅野のカゴにいれ、僕は菅野の腕を引いて店内のある場所に向かう。
「君のことだ、どうせ麺を茹でるための鍋くらいしか調理器具を持っていないんだろう」
「ご明察で」
「だから、包丁もフライパンも要らない方法を使う」
僕が菅野を引き連れてやってきたのは、スーパーと業務提携を行っている精肉店だ。
販売されている肉は自社経営の牧場から取り寄せているらしく、色鮮やかな牛、豚、鶏の各種部位とそれらを用いた加工食品がケースに並んでいる。
「おじさん、
品質もよく、価格設定も良心的なこの店にやってくると、つい口調が弾んでしまう。
僕はあまり利用しないけど、この店は頼めば適当な厚さに精肉や加工肉をスライスしてくれるのだ。
「お、白雪ちゃん、毎度ありがとうな」
カウンターには一見するとプロレスラーか軍人と見紛うほどガッシリとした体格の店主がいた。少し厳ついが客商売を生業にしているだけあって愛想がよく、つい話し込んでしまうことがある。
「焼豚とベーコンね、了解了解……ん? そちらさんは?」
注文の品を袋に入れようとした店主が僕の隣に並ぶ菅野に気付き怪訝そうな顔をする。
方舟は全寮制のため、ここにいる子供たちは皆親元を離れて生活している。方舟で両親が働いているなら子供と大人の取り合わせはあり得なくもないが基本的には僕と菅野の組み合わせは珍しく不審に思うのも無理はない。
「おい、アート、怪しまれてるぞ、どうする」
「そんなこと、店に入る前からわかっていことだ、対策は既に練ってある」
僕にしか聞こえないであろう絶妙な声量で危機意識の低い菅野が助け舟を求めてきたので、この瞬間のために車の中で五分でパパっと考えた秘策を披露する。
「私の義兄なんです。姉さんが海外出張だからって義兄(にい)さんったらインスタントばっかり食べてたんですよ」
瞬間、菅野が硬直したのを肌で感じた。
「学校で保健の先生してるくせにガサツで自分の健康管理がいい加減だから、ちゃんとしたもの食べてもらおうと思って買い物に付き合ってるんです。ね、義兄さん」
僕は普段の買い物しているときと同じ自然な笑顔と振る舞いで、即興の脳内原稿を読み上げた。
「そうかい、流石白雪ちゃんだ! しっかりしてるな。アンタもいい義妹さんが出来てよかったな。あんまり心配させてやるなよ」
微塵も疑うことなく店主は僕達を義理の兄妹と認識し、それ以上詮索することなく、いつも通りの愛想の良さで会計を済ませ僕と菅野を見送った。
「心臓を握り潰されたような気分だった」
肉屋から少し離れたところで、硬くなっていた菅野が息を吹き返した。
「安心しなよ、君の心臓は多少鼓動は上がってるが正常に稼働している・狭心症も心臓発作も心配する必要ない」
念のため、ある程度回復した精密解析で菅野の心臓の様子を確認したが問題はなかった。
「そういう意味じゃねぇよ、その位、ビビったってことだ」
「突発的なストレスホルモンの放出で心臓が発作的に稼働を止める事例は実在するよ。冗談でも万が一があるから心配するんだよ」
まあ、仮に心臓発作が起これば「止まった」なんて言ってられないだろうけど。
「にしても、よくあんな嘘がすぐに出てくるな。姉なんて架空の人物まで出して」
「いるよ、『白雪未希』には姉が、正確には『姉役』だけどね」
「それって、第三機関のバディのことか?」
僕の所属する第三機関はボスを含め僅か七人の構成員で成立する組織だ。
仕事の都合上、言い訳や辻褄合わせのための『口実』が必要な場合が出てくる。そのため、僕達は互いを友人、恋人、親子、兄弟姉妹といった『口実』に使うことを了承した『
「うん、僕は彼女の妹、彼女は僕の姉という形でバディを組んでる。口実に使った後はどんな些細なことでも報告しないといけない」
「こんなことで口実に使われる姉役の人も迷惑だろうに」
「向こうの方が僕を口実に色々してるよ。むしろこの程度じゃ割に合わないよ」
彼女はことあるごとに、やれ妹が事故に巻き込まれただの、危篤で入院中だの、テロリストに人質に取られただのと理由を付けては日本にいる僕のとこに来ている。ということになっている。
どれだけ不幸な妹なんだか。
「しかし、まあ、キミの偏食癖は独り身であるところに起因するものだと思うな。独身だと料理するしないに関わらず食事に無頓着になりがちだからね。健康に生きたいなら身を固めることも一考した方がいい」
「したくても生憎と相手がいない。三角みたく素敵な相手方がいれば話が早いんだけどな」
「なに、急ぎ過ぎることもない、男性は歳を重ねるごとに魅力が増すともいう。それに、キミは生活能力に目を瞑れば十分に魅力的だ。きっとすぐにでも見つかるさ」
「……どうだかな」
どうにも乗り気でない菅野は斜向いてしまった。
「なんにせよ、問題は解決すべきだ。キミの生活能力は改善する必要がある。独り身を貫くにも、身を固めるにしても、だ」
とは言え、一朝一夕でどうこうできるものではない。長い目で見ていかないとだな。
「だから、まずは足掛かりとして、平日は難しいし次の日曜日、僕はキミの部屋に行きます」
「え、なんで?」
「部屋の様子を見て改善点を洗おう。ついでに簡単な昼食の作り方も教えてあげる」
なにか不都合でもあるのか、戸惑った様子を見せるが、すぐに諦めたように頭を掻いて、菅野は力なく微笑んだ。
「わかった。それまでに掃除でもして、見れる程度のものにはしておくよ」
「ああ、約束だ。忘れるなよ」
菅野に釣られて僕は微笑み返した。
けど、思い返せば、僕が微笑んだのは、彼の笑みに言い様のない不安を感じたからだったのかもしれない。
それがあのときにわかっていたところで、事態はもうどうしようもなかったのだが――
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