第27話 メイアン

 抉れない。


 ネイルの顔が、僅かに曇ったのをメイアンは見逃さなかった。

「...その希望と切望に満ちた瞳が、今から堕ちると思うと楽しみだぞ、私はな」

 くつくつと喉からせり上がっているような独特な笑い声を彼が口から溢すと、メイアンはグッと腕を引かれてネイルの腕の中に収まってしまう。

 それと同時に、大きな扉は開いた。

 その瞬間、大きな影がぐわりと大きな牙を剥いて襲い掛かってきた。その光景はノルチェが使う黒い霧とよく似ているようにメイアンは思った。

 しかしその影はネイルが軽く手を払うと、姿が書き消えてしまう。そしてその黒い霧が完全に晴れると、一人の人物が立っていた。

「メイアン!」

 己の名を呼ぶその声は、求めている声だった。

「ニ」

 ニア、とメイアンもニアを呼ぼうとしたが、ぐるりと首を回されてその口を簡単に閉ざされてしまう。

 視界いっぱいに映るのは、ネイルの顔。ぬるりとしたものが口の中に入り込み、暴れまわる。

 上手く息が出来ない。苦しい。

 そこでメイアンは己の唇をネイルに奪われている事に気付き、必死にぐいぐいと胸板を叩いて逃げようとするが、向こうの方が力が強い上に上手く息が吸えないので力がなくなってくる。

 ニアがいるのに。あの人がこの場所にいるというのに。

 しばらく咥内を好き放題にされ、ようやく口が離されると思い切り肺に空気を入れる。

「おうおう、そう視線で人を殺すような目をするなよ、ニア」

「お前の事はあんまり知らないが、とりあえず従者を弄んでくれた礼と、俺のものに勝手に触れた罰として...、死んでもらおうか?」

 ニアは小さくはにかんで、それから床に拳を叩きつけた。ビシビシと音を立てて、床に亀裂が入る。

「分かっているのか、お前は?メイアンはこちらの手中にあるんだぞ?この命、いつでも散らす事は出来る」

 ネイルはそう言って、メイアンの瞳の縁に手を置いた。片目の視界を覆われてしまい、メイアンは不安に駆られて身体を左右に振るう。しかしその拘束から逃れる事は出来ない。

「お前が来るのは想定済みだった。その目の前でメイアンの瞳を奪ってやろうと思っていたんだよ。こいつは、お前が来てくれると頑なに信じていたからな」

 希望から絶望へ。この男は趣味が悪いらしい。

「ニア=ヴーエ・メルシエ。手を挙げろ、この男の目が大切ならな」

 にやにやとネイルは笑いながら、メイアンの目元を撫でまわす。

「ッニア、言う事聞かなくていいです!俺は、好きでこうやって自分の身を投げて」

「メイアン、俺はお前に好きにしていいと言った、それは事実だ」

 ニアは低く落ち着いた声でそう言う。この場所には似つかわしくない、酷く静かな声だ。

「だが、俺達の為に死ぬ事は許してない。俺は、お前を手放す気はさらさらないからな」

 ニアがゆっくりと両手を挙げた。くす、と耳元でネイルの笑い声がした。片目を覆っていた手が離れていく。その腕は天井に向けられた。

「抵抗するなよ、ニア」

 ぱちん、と指を鳴らすと、闇の中から魔素複合体マナ・キマイラがのそのそと出て来た。いずれも先程レイとイヴを地下室へ連行していったものと同系種らしい。見た目がほぼほぼ一緒に見える。違いと言えば、体色や背の高さ、筋肉の微妙な付き方の違いくらいだろう。

 四体のそれらは、ニアを取り囲むと拳を振り上げて彼へ殴りかかる。

 ニアは抵抗一つせずに、腹や顔を腕で守りながらそれに耐えていた。

「ッニア!」

 メイアンが駆け寄ろうとするが、それをネイルが制する。そして再び目へ手が伸びてくる。

「ふふ、また再び大切なものを失う気持ちがどういうものか...」

 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべているのだろう、メイアンへニアの様子を見せつけるようにしながら、その指先が目の縁を強く食い込んでくる。

 ひゅっ、と恐怖で喉の奥が音を鳴らす。


 目が、取られる。


 確かにメイアンは意志を強く固めていた。取られてもいいとすら、思っていた。だがニアの目の前で、彼が苦しむ姿を最期に見ながら視界を失うのは嫌だ。

 こんな事を望んでいない。

 誰か、誰か誰か誰か。助けて。

魔素複合体マナ・キマイラ達を向かわせて、ローズベリが自ら命を絶った日は絶望したよ。もう二度とあいつ等と交わした約束が果たせないと。単身で突っ込んで勝てるくらいなら、あの時に勝てているからな。だから対抗兵器として魔素複合体マナ・キマイラを作り出して、街に放って威力を見たのさ。...あぁ、話が反れたな。...メイアン、お前がここへ来てくれて本当に助かった」

 視界が、黒に侵食される。痛みが、目の端から中央、目頭へと駆けて行く。

 痛いのは嫌いだ。理不尽に殴られ罵られ、暴力を振られるのが一番悲しくて痛い。心も身体も。

「こうして瞳の力を、扱える。人間を一人残らず、殺してやれる」


 酷い事を、しないで。



 唐突に痛みが、消えた。

 ひやりとした風が吹いたかと思うと、目の前に長い黒髪がふわりとその風に乗ってそよいだ。

 黒い髪、黒いドレス。それとは真反対の白い肌。

「やっと見つけたわ、ミヤチシキくん」

 人を安心させるような笑みの女性が、こちらの方へ顔を向けてくれた。

 彼女の後ろではニアの自らを庇う動きを止めており、魔素複合体マナ・キマイラ達も時が止まったように指先一つ動いていない。

 目に食い込んで視界を奪いつつあった指先も、変なところで止められている。しかし痛みはなかった。

「...ごめんなさいね、迎えが遅くなってしまって」

 すたすたと彼女はメイアンの目の前に近付いて、ネイルの指を優しく外してくれた。そして先程まで彼の指のあった場所に赤色の光の纏った指が、そっと目尻に触れる。

キュアー

 小さな風が頬と瞳の表面を撫でたかと思うと、痛みなどもうなくなっていた。

「...あなた、は?」

「...私はフィルナ・スカーレット、いや黒の魔女というのが分かりやすいのかしら。...私は、貴方を迎えに来たのよ」

 フィルナと名乗った彼女は、優しくメイアンの手を取り、彼女が現れた位置へメイアンを連れて行く。

「迎え、って...」

「貴方はこの世界の人じゃないから」

 フィルナの言葉に、メイアンはぽかんとしてしまう。

 この世界の人間ではない、というのはどういう事なのだろうか。

「...今の貴方は記憶をなくしているものね。手短に説明するわ」


 メイアンは、宮地志希みやちしきという学生だという。

 母親が亡くなった事をきっかけとして荒れてしまった父親からの暴力を受けながら、学生生活を送っていたという。

 フィルナ曰く、この世界はたくさんある世界の一つだという。他にも見た目が違うだけで迫害を受ける世界や、ロボットや改造人間が歩く世界、平和な世界も勿論存在している。そんな世界はお互いが混ざり合わないように、干渉値というもので守られているらしいのだが、時折それが揺れ動いてしまう事があるらしい。

 奇跡ほどの確率で、それに影響された存在が他の世界へと飛ばされてしまう事があるらしく、メイアンがそれに巻き込まれてこの世界に来たのだという。


「まさか、記憶を飛ばすとは思わなかったけど」

 フィルナは少し乾いた笑いを溢すと、メイアンの手を離して床に金色の光を帯びた指を滑らせる。

「...あの、俺はこの世界から帰るんですか?」

「貴方がそう望むならね?私は自分より当事者の意見を尊重するわ」

 メイアンの視線がニアの方向へ向いたのを、フィルナは見逃さなかった。

「...シキ、私は人の願いを叶える仕事をしている。だから、貴方の願いをかなえてあげるわ。元々貴方は私達の手違いでここにいるわけだから」

 フィルナは床に滑らせていた手を、すっとメイアンの目の前に向けた。びく、と彼は身体を震わせる。

「その瞳の力を上手く扱えるように、身体を軽く弄ってあげる。その代わり、もう二度と元の世界には帰れない。それか元の世界に帰してあげる代わりに、その瞳の力を失うか」

 お好きな方を、と彼女はメイアンへ訊ね聞いた。


 この世界に留まるか、この世界から出るか。

 親の顔はどうだったんだろう。親の顔を思い出せない。学生生活は楽しかったんだろうか。学校という施設を上手く思い出せない。どんな場所で生きていたんだろう。ここの場所のように内陸なのか、それとも海が見えるような場所なんだろうか。

 ここで去ってしまったとしたら。ここでニアに別れを告げられないのか。リーフェイのご飯は食べられないし、ノルチェの朗読は聞けなくなる。アズリナの凄い手裁きの掃除風景は見られなくなるし、ベンジャミンの手品は見られないし、スノーブルーから薔薇の話を聞く事は無くなる。

 凄く、寂しいとメイアンは思った。


「貴方の幸せな方を、貴方がやりたい事を重要視するべきよ、シキ」


 今、自分がしたい事は――。


「......ニアを、皆を、守りたいです。その力を、俺にくれませんか?」

 メイアンの言葉にフィルナは静かに微笑んだ。

「いいでしょう。その願い、聞き届けましょう。貴方のその魔力を身体に下ろします。その代わり、元居た世界へ帰る事はもう出来なくなります。...いいですね?」

「はい。後悔しません」

 しっかりとした声にフィルナはもう何も言わず、メイアンの両目を片手で覆い隠した。

「瞼を閉じて。少し身体が熱くなるだろうけれど、心配しなくていいわ。聖眼として一ヵ所に集めていた魔力を全体に行き渡らせるだけよ」

 言われた通りに瞼を閉じてすぐ、目からすうっと何かが消えていくような感覚がしたと思うと、首や指、腹部などがじんわりと温かくなっていき始めた。それは収まったり湧き起こったりを繰り返しながら、だんだんと熱が強さを増していく。


「魔法は信じる心。呪文などなくても、その魔法式さえ組めていれば使う事が出来るわ」


 消え入るような声を耳にしながら、熱くなっている自分の身体から熱を追い出そうとメイアンはゆっくりと手の力を抜く。指先が熱い。

 熱い。熱さを取り除くには何が必要なのか。


「水、だ」


 そう呟いた瞬間、身体が一気に冷たくなるのを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る