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新しい場所で


 母がいなくなった部屋は、少しばかり広すぎる。三人でも住める広さの駅前の物件だったから家賃も高く、姉が一人で住み続けるには分不相応な場所になってしまった。


 父と僕が出て行って、大学卒業まで十五年住み続けた家を引き払った。新しいアパートには年数回しか帰らなかったけれど、四年が経ってやっと実家と言う思いが芽生えてきた。そんな中、また家は広くなってしまった。いや、僕たちが小さくなっていったのだろう。否が応でも、毎日一歩ずつ進んでいる証なのかもしれない。


 僕たちは次の家を探したが、姉にはこだわりがあった。ものごころついた時から使い続けているダイニングテーブルだけは持っていきたい、と言うのだ。六人はかけられる大きさの明るい木のテーブルだ。数年前、姉の友人に頼み、傷のついた表面を削りピカピカにして貰ったので、まだまだ現役である。


 テーブルが入るほどの広さと家賃の兼ね合いで家探しは難航したが、郊外の山あいのアパートで条件が良さそうな物件がいくつか見つかった。その中でも見晴らしが良く、広さも家賃も申し分ない物件を訪れた時、僕たちの気持ちは決まった。


 引っ越し予定日には僕は渡航しているので、引っ越しには立ち会えない。この家が新しい実家になると言っても全く実感が湧かなかった。


 頭の中で木のダイニングテーブルを置いてみる。かつて海を見下ろすマンションで、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、ゴールデンレトリバー、僕の五人でテーブルを囲んだ日々が懐かしい。僕らはもうその時の空気を感じることは出来ないけれど、食卓にあるテーブルだけが僕らの記憶を静かに包んでいるような気がした。


 僕はドアを開けてバルコニーに出る。


 ぽかぽかした春の陽気に包まれた山あいの街を見下ろす。ところどころで綺麗なピンクの花びらが街を彩っている。海の見える街が好きだったけれど、山の風景も良いものだ。山のすぐ向こうに広がる海を想像しながら、ぼーっと見慣れない景色を眺めていた。地に足のつかない実感がぽっかりと身体を包んでいる。僕らはここでまた、生きていくのである。


 ふと、吹いた風が僕の鼻をかすめていく。


 

 新しい生活の匂いがした。





 了

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