第30話 後日譚 天使に、或いは大蛇に(前)

 ググゥはおもむろに瞼を持ち上げた。

 刹那、雪を照り返した陽射しが眼球を透く。

 視界は油膜のように七色に歪み、脳の芯は鈍い衝撃で揺れた。

 舞台の上で目を覚ましたのかと錯覚した。それほどまでに光は強烈だった。

 思わず、視線を何もかも吸い込まれそうな青空の果てへと逃がした。こうでもしなければ、視界も、思考も、落ち着いてくれそうにない。

 真夏を思い出させるような空模様だった。太陽と地上を遮るものは何もなく、総てのものが鮮明に模られ、冬の景色に夏の情景を重ねてしまったほどだ。そういえば、真夏の砂浜も雪のように白かった。

 空は高く、そして深い。もう何度も思い知らされている、事実。

 眺めていると、その広大さに海を連想させられた。汲み取ろうとしても、羨望は今となってはもうない。希望とも絶望とも読み取れなくなった無表情の空。その深い青色の底に沈殿してしまっているのだろう。

 陽射しは感傷的な思いをいっさい気にしない。このぶっきら棒な太陽との付き合い方も昔と何ら変わらない。

 降り注いだ陽射しは、雪に吸収されることなく拡散されている。木陰も満月の光を浴びたようにうっすらと明るい。ゆえに遠くの木立の奥の奥まで、陰に呑み込まれてしまうことなく見渡すことができた。これもまた昼と夜が同居した形なのだろう。

 どこまでも繰り返される針葉樹の風景は、樹海に足を踏み入れて迎えた最初の朝の印象と変わらなかった。黒い幹が垂直に並び、日向と日影が縞模様となって延々と続く。ただ幹の太さはまちまちで、そのことが遠近感を狂わせ、眩暈に似た錯覚を引き起こす。二次元とも三次元ともつかない舞台に設置された背景画のようで、このことも舞台上であるかのような演出を醸しているのかもしれなかった。

 錯覚に陥ったのは、景色があまりにも絵画的で不可思議であったというだけではなかった。どこか現実離れした感を拭えない。意匠というか、何者かの手が加えられたような消化しきれない違和感が残っているのだった。

 眠りに落ちている間に、もしくは灰色に埋め尽くした吹雪の帳の裏で何が起こったのだろうか。

 陽射しが馴染み始め、焦点は再び足元に戻した。

 その異様さに目を奪われた。

 呼吸はおろか、瞬きをすることも、忘れてしまった。

 凍えた全身に力を入れ、幹から背を離す。それが精いっぱいの動作だった。そのまま体重移動に任せて歩み出る。

 寝起きの間もない頭は微熱を保ったままで、思うように機能してくれない。加えて不意に浴びせられた強烈な朝陽の痺れ。今自分がいるのが夢の続きなのか、それとも昨夜の吹雪いた夜が夢の出来事だったのか、記憶は混ざり合うことなく、スライドのように繰り返された。一瞬前の、数分前のことでさえ加速をつけて過去へと運ばれていく。目覚めたときの記憶は正しかったのか、自信はすでにもてなかった。

 積もった雪が落ちる木の下ではない。何もない滑らかな一帯に、雪をえぐり返したような、狼などが争った跡のような乱れた箇所を見つけた。周囲を見渡すまでもなく、生きものの気配は感じられない。それに昨夜は吹雪だった。

 そちらに向かって歩いてみる。

 途中で見つけたのは、一枚の鳥の羽根だった。明るい灰色で、まだ艶もよく、きれいに形を保ったままだった。

 間もなくして、もう一枚の羽根を見つけた。こちらも同じ様な色合いだった。

 拾い上げてみた。光沢があり、陽を受けて淡く虹色に輝いている。しなやかで柔らかい。抜け落ちてそれほど時間は経っていないのだろう。

 視線を近くの乱れた雪へ何気なく投げたときだった。墨汁のような黒い液体が飛散し、雪に沈んでいる様に気がついた。

 これは何を意味しているのだろうか?

 唖然と立ちすくんでいると間もなく、機械油のような粘っこい臭いが風に乗って届いた。自然豊かとは形容しがたいが、人工的な臭いはこの世界には似つかわしくなかった。

 そう、匂いが昨夜までとは異なっていたのだ。風景をいくら演出してみせても、匂いまでは作ることができない。目覚めたこの場所が舞台の上だと感じたのは、眩い光だけではなかったのだ。嗅覚は目覚める前から慣らされていたのだろう。だから、今しがた墨汁のような染みを見て気がつかされた。

 ふらつきながらも、その臭いがする方へ足を向け、交互に動かす。

 一羽の鳩と出遭った。

 見開かれた眼は瞬かない。雪に埋もれて頭部だけがこちらを見あげている。光を失ったその眼に吸い寄せられ、拾いあげた羽根の持ち主が何者であるのかを知った。

 黒々と洞穴のような無を湛えた眼が気になり、くちばしで、その者を雪から救い出す。

 胴体はなかった。

 首の付け根の断面からは、機械油に塗れた金属のボルトが覗き、数本の配線コードらしきものが垂れ下がっていた。

 頭部を咥えたまま、辺りを見渡してみる。

 機械油の臭気がより濃く、霧のように充満しているような気がしてならなかった。

 彼ら一族の、一部分だけがやたらと目についた。翼や脚など複製のような部品が転がっていたり、雪に埋もれていたりしているのだ。

 中には胴体が縦に頭から真っ二つに割れているものまであった。そのいずれの部品も、組み立ての途中で破棄されたものとは思えなかった。鋭利な刃物で切り落とされたり、力任せに引きちぎられていたり、何者かによって壊されたかのようだった。この場所で。間違いなく。

 気がつけば、辺りの雪は乱れていた。目覚めたときに感じた、整いすぎたような雪景色の印象からはかけ離れていた。

 咥えていた亡骸を丁寧に置く。振り返ってみても、夜を明かした大きな幹も他の幹に呑み込まれ、背景画に取り込まれて判別することはできなかった。歩いてきた足跡だけが頼りだったが、それもうやむやとなっていた。


――ここで目覚めた?


 語り直すまでもなく、散らばっていた羽根は彼ら破壊された鳥たちのものであり、黒い染みは彼らの身体から流れ落ちたものだった。

 その一族の内部は機械仕掛けだったが、外見は生きている鳥と区別がつかないほどに精巧に作られていた。このとき、彼らが精密かつ精巧に作られた悲しい生き物であることを知った。

 戸惑うばかりだった。

 何を意味しているのか、そこが、分からない。

 惨劇の舞台の中央を歩き回ることしかできなかった。台詞を忘れた役者のように。幹の間を縫って吹き抜けてくる風は、冷たいはずだったが、身震いしてしまう暇も余裕もない。

 一夜のうちに何が起きたのだろうか?

 何度も同じ言葉を頭に浮かべては、記憶の引き出しを漁ったが、それでもこの脈絡の前後に繋がるものは見つからなかった。

 何もかも違和感だらけだった。胸の奥底……『永承の砂浜』に通じるものを見つけようと、溶けることのない心の原形を探ってみても、やはり無駄だった。喚起されるものはない。過去と記憶を結び付けているものはこの樹海にはなかった。視線を泳がせては、紐解く何かが落ちていないかと必死に探す有様だった。

 突然、吐き気に襲われた。

 記憶を執拗に探りすぎたせいかもしれない。

 いや、それは違った。

 もう一度、辺りの雪を見渡した。

 そして、もう一度、ここまで歩いてきた足取りを目で追った。

 今度は、ゆっくりと吐き気が込みあがってきた。

 周囲の乱れた足跡の中に、異種、人間の足跡が混ざっていることを見出してしまったのだった。

 足跡はこの惨劇の舞台から抜け出すように、もしくは新たな何かを追い求めるように、ゆっくりと蛇行しながら森の奥へと繋がっている。付け加えるならば、足跡があるということは、その者は空を飛べないということだ。

 気がつけば、肩で息をしていた。

 戸惑いながらも、必死に落ち着かせようとしていた。

 それも叶わずに、誤魔化すようにその足跡を追って駆け出していた。

 もう足跡を見失うようなことはなかった。そのそばで機能停止している鳩の部品も少なくなっている。

 このまま足を止めなければ、再び会うことができるのだろうか。

 思い出される、遠い昔に歩んだ大蛇の背の道のことを。あのときも同じような得体のしれない不気味さと不吉さがそこはかとなくあった。

 不意に笑いが込みあがる。

 あのときはリリィを失うかもしれないという漠然とした不吉さ。今回は血生臭くても、最後にもう一度会えるかもしれないという、希望。それはどのような形であれ、どのような結末であれ、希望として捉えていた。そして、こうして足跡を追いかけて、追いつけるかもしれないという可能性を感じさせてくれているのは、空を飛べないという事実。そのことに悩み、絶望もしたけれど、最後に助けてくれるのがその事実であるという皮肉。

 何度も雪に足をとられては立ち上がる。

 再び駆け出す。

 あのとき、大蛇の背の道の曲がりくねった先を抜けた後、突然の土砂降りに出くわした。木の根の窪みで雨宿りをしているうちに眠りに落ちた。目を覚ましてからは、不自然すぎるほどに長く、自然の摂理から僅かにずれた天気雨を眺めていた。

 あのとき、リリィの心象風景を覗いた。

 青く澄み渡った空から静かに垂れる雨、その絹のような雨脚が途切れるまで。

 脚に力が入る。

 できるだけ早く追いつかないといけないという衝動に駆られた。

 天候が急転し、雪が降り始めれば足跡が消えてしまうと考えたから?

 再び彼女の懐に飛び込むことができるのは今しかないと感じたから?

 それは分からなかった。

 とにかく急がなければと胸を突かれた。

 

――おそらく、この地に雨が降るなんてことはない。


 膝の関節が笑いそうになる。

 あのときの記憶、ガードレールを飛び越えて川面を目指して斜面を駆け下りた、あのときの光景が鮮明に蘇った。

 木立から眩い光が染み出す。

 目を細める。

 異国の女性の姿を、確かに、真っ直ぐに捉えた。

 彼女はこちらに気がついていない様子だった。初めてこの樹海で出会ったときと同じだ。恐ろしいまでに澄んでいる空を、ぼんやりと眺めているようだ。もしくは無言で対峙しているかのように。

 息を呑んだ。

 あのとき、彼女は一際高い木の下にいた。そう、確かにこの木だった。淡く沈んだ陰から空を見上げて。総てが重なったのだ。既視感。過去と現在のピントが寸分も違わずに一枚の絵に収まる。あのときも今も、この角度から彼女の姿を捉え、この方角から近づいていった。時刻もきっと同じだったはず。

「これが『再会』なのか?」

 立ち止まり、叫んでみた。

 必ずしも彼女に向けられた声ではなかった。まとまりきれなかった声量は、青空へと拡散していく。彼女の耳にも心にも届かない。空を睨んだが、返ってきたものは何もなかった。

 再び歩み出す。もう駆ける力は残っていなかったが、確実に彼女の元へと近づいていく。

 彼女の目元はくすんでいて、哀れすぎるほどに疲れている様子だった。唇からも血の気は失せ、灰色がかった緑色の瞳も彩度を欠いて虚ろだった。

 まるで魂の抜けた人形のようだった。彼女が抱えている物語はどのようなものなのだろうか。目にしてきた惨状は、彼女がもたらした結果なのだろう。そう捉えてみれば、とてつもなく大きな仕事を成し遂げて放心しているようにも見えた。とにかく脆くて、危うそうだった。ひとたび強い風が彼女を襲えば、再び消え去ってしまいそうなほどに。成し遂げた仕事のことは改める必要はないだろう。彼女の垂れた左手に握られている片刃が物語っている。刀身を染めた黒い液体は乾いておらず、鈍く光を返していた。

 雪に足をとられる。

 躓きそうになって、瞬きをしばらく忘れていたことに気づかされた。

 胸の奥から溢れ出す言葉を、全身では支えきれなかった。

 彼女の名前は?

 彼女は、どこからこの地にやって来たのだろう?

 この悲劇との関わりは?

 彼女とこの果てた鳩たちとの関係は?

 どうして彼女もこの樹海でずっと彷徨っている?

 何もかもが疑問形だった。

 彼女のことをただ知りたかった。これら総ての言葉は、孤独に彷徨いながら『再会』のために温めてきたものではなかった。眩暈を伴った今朝の目覚め、足跡をなぞり、彼女の姿を見つけ、駆け出して、彼女の表情を確かめたときに生まれた言葉だった。

 そして、強すぎた衝動は、冬眠していた言葉たちまでも、長すぎた冬から揺り起こした。


 リリィは……どうして、

 あのとき、

 あのプラットフォームにいたのだろう?

 何をしようとしていたのだろう?

 何を、何かを待っていたのだろうか?

リリィの……目的、その目的、目的は?


 再開した異国の彼女の表情は、リリィをプラットフォームで見かけたときの表情に通じるものがあった。一瞬、異国の彼女の頭上にも天使の環を見たような気がした。古ぼけていて、うっすらと埃を被っていそうな、あの懐かしい環。しかしそれは淡い記憶に惑わされた幻覚にすぎなかった。

 一歩ずつ彼女に歩み近づいていく。もう雪に足をとられることはなかった。

 彼女に近づくにつれて、リリィの面影が濃く重なっていく。

 投げかける言葉を選び抜くことができなかった。心の戸惑いを見透かすように、視界の端を、黒い影が流れた。

 不意の出来事で、その影を捉えることはできなかった。

 背後から風を切り、そのまま異国の彼女がもたれている針葉樹へと消えた。

 僅かな時差があり、枝葉に積もっていた雪が一握りほど崩れ落ちる。

 動揺はしなかった。

 ただ、歩き続ける。

 小さな胸は整理しきれないことだらけで、もう何が起こっても不思議とは思えなかった。空から金色の龍が暴れ出そうが、春を待たずにして雪原から艶めかしい大蛇が目覚めようが。総てを受け入れる覚悟だけは不思議とできていた。吐き気が治まったことで自覚できた。むしろ今は大きな安心となって心の中心に居座ってくれていた。だから理解できずに整理がつかないことは多くても、足は迷わずに彼女へと向けられていく。一歩ずつ確実に。焦る必要もなく、歩むことさえ止めなければ大丈夫なんだと。

 再び空が唸った。

 先ほど疾風のごとく空を駆けた黒い影は、巨大な群れの斥候だったのかもしれない。空が唸った後の僅かな静寂、再び空が震え出した瞬間、数百本もの矢が周囲の雪に突き刺さった。いや、周囲だけではない。彼女がもたれている木にも刺さる。

 二呼吸ほどの間を置き、右からの空からも左からの空からも、矢の雨が降り注いできた。

 ただ、考えていた。

 突然襲われた矢のことではない。

 今、一番口にしたい言葉を、その意味を。

 もう一度空が鳴った。

 黒い雨が降る。

 矢の雨も雪と同じだった。流れ去ることはなく、視界に積もっていく。

「リリィ……」

 吐息ともとれる、声が漏れた。

 たった一言。その言葉以外、選びきれなかったということだろうか。

 彼女に伝えてみて、何を確認したいのだろうか?

 彼女の反応だけを知れば、それだけで満足なのだろう。

 その後の展開は全く想像できなかったが、それでよかった。


 矢の雨は断続的に降ってくる。

 空が唸り、僅かな沈黙をおいて、視界に矢が刺さる。空の唸りの音が次第に大きくなってくる。矢を放つ者たちが近づいてきているのだ。おそらく囲まれつつあるのだろう。

 空は無表情を決め込んだように青いままで、照り返す雪は相変わらず眩しい。露光過多の映像を見せられているようだった。総てが用意された夢のように思えてくる。疲労か、冷気か、それとも荒唐無稽の展開の連続で現実感が乏しくなっているのか。足の感覚は薄れていた。

 それでもまだ先で待っている彼女に、吸い寄せられるように足を交互に動かす。駆け寄る気持ちもなければ、止める気持ちもなかった。矢に射抜かれても構わないと、心のどこかで覚悟ができていたからなのかもしれない。覚悟と同じくらい、当たるはずがないという妙な自信もあった。再会が許されているのであれば、矢に射抜かれるはずはないのだから。

 異国の彼女も、駆け寄って再会を果たすことを望んでいないように思えた。何もかもを受け入れる覚悟があるような、もしくは何もかもを諦めているような、静かな表情を浮かべていた。その意志は堅く、吹雪に見舞われたとしても、その表情を崩すことはできないだろう。彼女たちの悲しげな視線、愛したやや疲れた目元、限られたときに開かれる神秘的な心象世界。おそらくそこに手は届かなかったのだろう。そういう彼女たちの魅力の本質。

 彼女が矢の雨で命を落とすことになったとしても、それを見守り、受け入れることしかできないだろう。自分だけが射抜かれて死ぬことになれば、それだけのこと。彼女の心に何も届かなかったということ。ここで長かった旅にようやく終わりを告げることができる。改めてどのような結末を迎えようとも、総ての結末を受け入れる準備ができていたことを知った。

 雪に沈む足取りを確かめながら自分に言い聞かせる。恋の成就はいつだって空の天秤にかけられている、と。


 心は空っぽだった。

 まいったな、

 どこを探してみても空っぽだった。


 逡巡は続く。

 まだ手の届かない場所で佇んでいる彼女、距離と時間は僅かずつ縮まっていく。

「天使の環もドーナツも同じ形だね」

 そのようなどうでもよい言葉が頭に浮かんだ。

「でも、天使の環は食べられないわ。ドーナツのほうが好き」

 きっと、異国の彼女は少し得意げな笑みを浮かべてこう答えるだろう。そして自分の頭の上に天使の環が浮かんでいないのかと訝り、手で触ってみようとする。しかし触れないものだから、今度は目で確認しようとする。顎を上げてみるのだが、頭の動きと連動して環も動くものだから、いくら頑張ってみたところでやはり確かめられない。

 思わず笑ってしまった。場違いな、幸せに浮かれた妄想だった。

 だけど、そのような、くだらなくて、馬鹿げた話が一番したい、と思った。

 雪に足を捕られて、無様に頭から倒れた。

 すぐに起き上がり、再び歩き始める。あつらえられた舞台のような世界を一歩ずつ。

 彼女を目指して歩き続けている限り、自分にも何かしらの使命や役が与えられているような気がして嬉しかった。くだらない妄想は歩み続けることの原動力になる。

 彼女を慰めてあげたかったし、励ましてあげたくもあった。気持ちばかりが焦っていた。そのような優しい言葉は控室から出てこなかった。


――本当に、僕は何を期待しているのだろう?


 あまりにも情けなくて泣きそうな気持ちにもなる。目の前の彼女のことは何も知らないのだ。彼女も僕のことを何も知らないはずだ。共に時間を過ごしたことといえば、再会を祈ってドーナツを半分ずつ分かち合っただけ。それさえも僕の勝手な思い込みにすぎないのかもしれない。彼女は再会を祈った。しかし、その相手は誰なのだろうか。彼女と何かが始まるにはあまりにも時間が短すぎた。

 それは乗り越えられない壁のような、絶対的な隔たり。空を仰ぎ見て襲われる無色透明の厚い壁と同じだ。超える力のある者だけに許されている。何も始まっていない僕には資格もなければ、最初から力もない。

 無力感に打ちひしがれているときの空は、決まって青く澄み渡っている。

 矢の雨が降ってきた。

 青い空を背に黒い雨。

 

――またしても天気雨。

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