第8話 陸の孤島

 渡り鳥ググゥは、『平和の象徴』の一族と『陸の孤島』と名づけたプラットフォームの小さな世界に別れを告げることにした。リリィと初めて言葉を交わしてからちょうど十四日後のことだった。

 毎日夜明けまでリリィと時間を過ごした。さすがに数日も経てば、プラットフォームの端での立ち話ではなくなり、ベンチへと場所を移した。いつの間にか、夜明けまでというのが暗黙の約束となっていたが、困ったことに夜明けの時刻は日を重ねるごとに早まっていった。

 ググゥは加速して短くなっていく時間に焦りを覚えた。自分のことや南洋の景色の素晴らしさを伝えるには、時間がいくらあっても足りなかった。

 それでもチョココルネを二つにちぎって食べ合うことを欠かすことはなかった。口をモゴモゴと動かしている間は沈黙が生まれる。それは儀式のようでも、過去へ捧げる祈りのようでもあった。とにかくふたりにとっては大切な時間に思われた。食べ重ねてもチョココルネの味が変わることはなく、クリームは相変わらず甘すぎるほどに重く、喉をすんなりと通ってはくれなかった。

 ググゥの中心にはいつもリリィがいた。それはとても幸せだったが、絶えず溺れるような不安にもさらされていた。不安を自分でどう解釈してみても、別れを予感させる胸騒ぎであるという結論に導かれた。

 日を重ねるごとに春は近づく。陽が昇る時間は早まる。ググゥは口にしなかったが、二つしかない選択肢が頭から離れることはなかった。もうこれでおしまいにするのか、それともふたりでここではないどこかへ目指さないといけないのか。リリィが時折見せる虚空を見つめる視線や沈黙からは、同じことを考えているように思えた。

 お互いに不安を悟られないように黙ったまま、そしてふたりはすでに決めていた答えを出し合った。

 旅立つ約束をしたその日、『陸の孤島』は五分咲きの桜に囲まれていた。満開を待たずにして去ることは、どこか後ろ髪を引かれる思いであったが、新しい道を歩み出すにはふさわしい時分であるようにも思えた。まだ濃すぎない香りは、残された未来と幸せを描く想像力を充分にかき立ててくれた。桜は毎年春になれば必ず満開を迎える。そのうちどこかでリリィと大地に寝そべって満開の桜を見あげる日も来るだろう。


 旅立つ前夜、周囲の鳩のざわめきが静まることを待った。風の音しか聞こえないことを確認すると鳩の女王を訪ねた。

 ググゥが寝床に選んでいた場所は、L字型のマンションの最南端の屋上だった。これまでの習慣なのかもしれない。遮るものがない先端が一番落ち着いた。またそこが『陸の孤島』の一番近くでもあった。

 鳩の女王の寝床は対角のもう片方のL字の端、異端者であるググゥと最も離れた場所だった。ググゥ側は街の喧騒と熱気と隣り合わせであるのに対し、鳩の女王側の背後には『流民の河』が流れていた。川面を滑って吹きあがる風は心地よく、静かで、見晴らしもよかった。L字を越えて女王側へ向かうことは、墜落という形で来訪した日以来のことだった。

 ググゥの羽音は騒々しい。他の鳩たちに悟られないためにも夜に溶けて歩いていくことにした。

 鳩の女王はググゥの気配を感じ取ると重ねていた瞼を上品に開いた。優雅な仕草で姿勢を正す。

「駄目ですね、従者の見張りの者たちはいったい何をしているのでしょう?」

 そう言うと、鳩の女王は表情を緩めた。家来を非難している響きはなかった。

「それだけここが平和ということなのでしょう」

 ググゥは目を瞑り、女王の好意に応えるように丁寧な口調で言葉を返す。

「いよいよお別れのときですね」

「はい。今まで長い間、本当にお世話になりました」

「ここでは皆起きてしまいます。場所を移しましょう」

 鳩の女王は歩き始めた。ググゥもその後をついていった。それほど気を遣わずに歩いたが、途中で目を覚ました鳩はいなかった。

 案内されたのは『鳥瞰の懐』と呼ばれている執務が行われている一角だった。L字の直角にあたる箇所にあり、給水タンクの上にあった。ここは執務者階級の者しか立ち入ることが許されていなかった。マンションの最も高い場所に位置し、コロニーの全景を含めて周囲の景色を総て見渡すことができた。

「こうしてお話ができるのも今夜が最後になることでしょう。あの晩は綺麗な月が出ていましたね」

 鳩の女王の言葉に執務者の響きはない。『平和の象徴』の一族とはどうも肌が合わなかったが、鳩の女王のことは、特にこの柔らかい物言いは好きだった。ここ数年『好き』を見つけることは難しかった。しかし、こうして『祈りの島』から離れた日々のことを思い返してみると、やはり『好き』を見つけることは楽しくて素敵なことだった。

「あの晩はそうでした、『伝説のカモメ』のお話をしました」

「はい、もしあのときその話をしていなかったら、僕はここにいなかったのかもしれない」

 鳩の女王の柔らかい口調に触れ、『伝説のカモメ』のことが記憶から呼び起されなかったのならば、居心地の悪さと『憂鬱の微笑』の虜になって、逃げるようにこの地から去っていたに違いない。背中の翼を失ったにもかかわらず。地面を這いずりながら。もしくは『流民の河』に身を投じていたのかもしれない。であれば、リリィと出会うことはなかったし、チョココルネの甘さに困惑してみることもなかった。

 鳩の女王の、あのときの優しい声と自分に向けられた言葉は、何の強要も伴わずに支えてくれた。そして未来という新しい希望を粘り強く導いてくれた。感謝の気持ちは喉元まで駆けあがってきたが、それを表現できるほどの言葉を知らなかった。

「おかげで僕の翼は向こうの駅までは飛ぶことができるようになりました。でもこれ以上の回復は見込めないでしょう。実は、今も真夜中に飛ぶ練習を繰り返しているのですが、これ以上に距離は伸びません。地面に足を掴まれてしまったかのように失速してしまいます」

 ググゥは月に向かって自嘲した。そのまま視線を落とせば、リリィと待ち合わせをしている『陸の孤島』が地上の海に浮かんでいた。

 孤島に配された常夜灯の光が滲む。まさに夜の海に浮かんでいる孤島だ。日中はその孤島だけが異常な人だかりとして目立ち、深夜は逆に孤島だけが無人島と化す。波打ち際を思わせる線路は視界の端を越えて続き、その線路を自由に越えられる者は鳥だけだった。夜明け前の孤島に独り佇んでいるリリィに、鳥である自分だけが会いに行くことができる。

 また、この季節、間もなく『陸の孤島』は、線路脇や駅の周囲に植えられた満開の桜によって包まれる。花弁の海というもう一つの海からの孤島にもなる。幻想や狂気を孕んだ満開の桜は、この世の者の心を惑わす。夢見心地に陶酔させ、ある者には恋心まで芽吹かせる。

 ググゥはもう幻影に惑わされたくなかった。彼岸の世界は『永承の砂浜』だけで充分だった。零れ落ちていく幻影にいくら溺れてみたところで、失ったものは何も取り返せない。心の傷も身体の傷も埋めることはできない。

 ここまで現実と彼岸を直視しているググゥにとっても、艶やかな一色に染まった桜が魅せる眩惑は脅威だった。今はリリィを何ものにも縛られずに真っ直ぐに見たかった。また自分のことを真っ直ぐに見てもらいたかった。だから、満開の桜に魅了されてしまう前にリリィの手を引いた。

 ここから抜け出そう、と。

 リリィは笑って頷いてくれた。

 あなたと一緒なら海の底だって歩いていける、と。

「伝説のカモメの後半のお話はご存知でしょうか?」

 鳩の女王もググゥと同じように『陸の孤島』を見下ろしていた。

「はい、でも後半部分はおとぎ話です。僕は全く信じていません」

 ググゥの言葉を受けて、鳩の女王は懐かしそうに表情を崩した。

「私たちの世代はあの話に夢中になったものです。そして私も一族の集団から離れて旅をして暮らすことに憧れました。結局は思い留まってしまい、大半の者と同じ運命を辿ることになりましたが。捨てることの難しさを学びました」

「いえ、あなたは大半のいい加減な輩では真似できない立派な道を歩んでおられます。あなたほどの地位の方に、このようなことを申し上げることも失礼極まりないのですが」

 夜風は気持ちよかった。鳩の女王はググゥの目を見て話を聞いていた。そしてググゥの言葉が途切れると無言で微笑みを浮かべてみせた。

 ググゥには鳩の女王の真意を読み取ることができなかった。内に隠された真実は、鳩の女王のみが知るところなのだろう。おそらくこれから先も永遠に。

「僕はあの話の前半の部分がとても好きでした。何度も読み返しては、空を飛び続けるエネルギーを貰いました。飛ぶことそのものに価値がある。それは自分が何のために生きていくのかということを考えるきっかけを与えてくれました。しかし僕はもう満足に空を駆けることができない。これからは地を這う鳥として生きていくことになります。空からは見えなかったもの、見落としてきたものを、この眼に収めながら生きていくつもりです」

「あなたがこの地に落ちてきた日のことを思い出していました。あなたはこれまで空を飛びながら何を見てきたのでしょうか。おそらくあなたは一族のコロニーを発ったその日から、鳥でなくなることを最初から望んでいたのではないでしょうか。あなたの眼はそういう目をしていました。希望だけではなく、絶望だけでもなく。それは二年過ぎた今でも変わっていません。旅の終着はまだ見えていないと思いますが、あなたならきっとやり遂げられることでしょう」

「まるで何かを知っているような口ぶりですね」

 女王の過去に踏み込む意志がない意を込めて呟いた。

 そのことについて、鳩の女王は何も答えてくれなかった。

「あなたのことをここから見守っています」

 穏やかな言葉に替えて。

 それからしばらくは何も語らなかった。お互いに東の空の果てを眺めていた。

 明けていく空の端が美しかった。星は霞み、朱と藍のインクを溶かしたような空がどこまでも水平に広がっている。昔はその色をもっと近くで感じてみたいと馬鹿みたいに飛び続けた。その記憶が滲んだ空の端は、あの頃と同じくらいに遠く、そして優しく心に映った。

 間もなくリリィと約束した時間を迎える。今日すれ違いになってしまえば、もう二度と会えないだろう。なぜかそう確信していた。

 鳩の女王とのお別れの時間はすぐそこまで迫っていた。いくら考えてみても答えを見つけることはできなかった。『平和の象徴』たちに、鳩の女王に何か残してあげられることはないのだろうか、と。

 そっと鳩の女王の横顔を見やった。清々しいほど穏やかな顔で夜明けを待ってくれているようだった。おそらくこの気持ちさえも見透かされているのだろう。

「あなたならきっとまだ飛べます」

 まだ濃い天蓋の夜空へと言葉を羽ばたかせてくれた。別れの挨拶として。

「それは慰めでしょうか?」

 ググゥは微笑んだ。

「恋はきっとあなたに再び飛翔する力を授けてくれます」

「ありがとうございます。今はまだ信じられなくとも、その言葉を大切にしまっておきます」

 最後にこう訊ねずにはいられなかった。

「ここから僕たちのことを見ていらしたのですか?」

「ええ、周囲を見渡すことが私の務めですから。それに私はあなたたちよりも長く生きています。もう少し遠くの世界のことくらいは、ここからでも充分に見渡すことができます」

 ググゥは見られていたことに恥ずかしさを覚えたが、もうそのようなことで恥じる年齢でもないと思い直した。ただ胸を張っていればよい。そしてふと思った。鳩の女王は、『陸の孤島』で毎夜佇んでいるリリィのことも少なからず知っているのではないのだろうか、と。しかしそのことを聞いてみるような野暮なことはしなかった。


 ググゥはマンションの端から足を離した。

「『愚か者』の一族の渡り鳥よ、あなたが今一度大空へと誇らしく舞いあがる日のことを祈っています」

 これまでにないほどの力強い風を背に受けて。

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