第2話 孤独の国

 渡り鳥ググゥは幾百もの夜を飛び越えてきた。

 今日も一羽、洋上の風に吹かれ、時間とともに流されていく。

 陽もすでに落ち、その名残りは空の端で僅かに震えているばかりだった。夜を迎えた海は不気味な穴倉に似ている。ぽっかりと口を開け、夜の明かりを総てその懐にしまい込もうと構えているようだ。

 視線を遠く這わせたとき、視界には巨大な島、もしくは大陸の影が水平線を割っていた。

 瞬きをしても消えないということは、幻ではないのだろう。無限とも思えた海原を渡る旅に、いよいよ終焉が訪れるのだろうか、それとも……。


――このまま進路を逸れて再び海路を選択しようか?


 ググゥの頭を過る。

 変わらない風景を手放すことには想像以上に勇気がいりそうだった。身体を傾けるだけで進路を変えることはできる。が、それも不安が残った。

 そっと両翼を見やった。

 間違いない。風は真っ直ぐにその大地を目指して流れている。

 頭で考えても仕方がない。新たに見えてきたこの異国の地で翼を休めることに決めた。

 次第に広がってくる港湾には、無数の灯かりが集まっていた。肩を寄せ合っているような光の群れは、故郷の『祈りの島』で暮らしている同族のコロニーの姿を呼び起こした。

 懐かしさに吸い寄せられていく。

 この気持ちに従う限り、久方ぶりに大地に足をつけることができそうだ。何よりも海風がそう背中を押してくれているのだから。

 しかし、喧騒が治まった夜明け前の時間を選んで降り立とうとしても、その光の輪の中へ飛び込むことができなかった。

 今度は渡り鳥の一族に囲まれて暮らしてきた想い出が邪魔をするのだ。滑るように埠頭の先まで忍び寄ってみても、近づくにつれて優しい想い出と辛い想い出の双方が首をもたげ、交錯し、呼吸は掻き乱された。

 想い出の割合が半々では駄目だった。着地を果たす気持ちに二の足を踏ませる。

 その結果、弧を描いて海へ引き返し、近海の空を旋回し続ける日々が過ぎていくことになる。

 夜が明けるまで何度も試みた。

 何日も何日も。

 何も変わらないばかりか、翼は重たくなるばかりだった。港に近づくたびに鼓動は激しさを増す。水平に飛んでいるつもりでも、眼下の景色は不安定に揺れ、眩暈を起こしてしまいそうだった。

 その夜も決心がつかないまま、沿岸の上空で気持ちを持て余していた。

 諦めて逃げ出したほうが楽なのかもしれない。

 この地にこだわって身体を休める必要はないのだ。そもそもこの地に想い出はないのだから。それならば、もっと安らいでいられる静かな場所を求めてもよいはずだ。選択を覆しても誰からも責められることはない。しかし、それでは何も変わらないことにも気づいていた。

 夜明け前の最も灯かりが少なくなる時間を選ぶと、残りの灯かりの群れも目を閉じて視界から追いやった。

 息を止める。

 そのまま、夜に溶け込むようにして埠頭へと進路を取る。

 それでも、やはり真っ直ぐに港湾へ滑空することは難しかった。

 鼓動は惑わされない。正直だった。警笛を鳴らすように胸を打つ。

 薄目で進路を目視した。

 次第に輝きが視界に広がってくる。

 灯かりが目に染み込むだけで全身は反発する磁石のように弾かれ、進路から逸れていく。

 夜景を斜めに切って飛ぶ中、抜け道のように灯かりが乏しい一帯を見つけた。

 ここなら着水ができそうだ。

 それは光の群れを左右に押し分けた広い河川だった。穏やかな河であることは空からも見て取れた。

 二度三度、川面を乱して着水を果たした。

 水音が落ち着いたとき、この異国者を無言で受け入れてくれた河を『流民の河』と名づけた。

 流されないように川岸の葦に身体を押しつけて固定させる。

 酷使され続けた肉体はようやく休息を許された。これが束の間の休息になるのか、長い休息になるのか、想像はできなかった。

 今はほんの少しでも何も考えないでいられる時間が欲しかった。自分が渡り鳥の一族あることから離れたかった。少なくとも沿岸の空を旋回し続けた日々と比べれば、水に浮かんでいるほうが、そのことを忘れることができそうだった。

 背中を支えてくれる葦の感触も疲れた肉体を優しく包んでくれる。

 これまで眠らずに幾百もの夜を飛び続けてきたが、空腹も眠気にも襲われることはなかった。それよりも不思議だったことは、身体を休めて瞼を重ねたとき、不意に涙が零れ落ちたことだった。もう涙は流し尽くして枯れ果てたものだと思っていたのに。『祈りの島』から逃げ出したときから眼と心は乾き始め、潮風に絶えず曝され続けてきた。傷口は癒えないまま固くなり、完治されることなく残った。

 おそらくこれが最後の涙になるのだろう。今夜だけは涙が流れるままに総てを受け入れたかった。その後は再び心の扉を固く閉ざすのだ。

 夜明けの空に誓った。

 同意を求めるように落とした視線の先には、清らかな月影を浴びた自分の真顔があった。

 『流民の河』はやはり何も語ってくれない。

 水鏡はありのままの姿を静かに映し返してくれた。


 ググゥは幾百日ぶりに夢を見た。

 夢を見ることを忘れた脳裏は白壁のようだった。

 何もなかった。

 硬くて無表情な壁が眼鼻の先で立ち塞がっている。

 ……流した涙によって柔らかくなったのかもしれない。その壁も、ぼんやりと見つめているうちにスポンジ状に目が粗くなり、やがて表面の境は曖昧になってきた。

 濃密な霧が立ち込めたまだら模様の空間へと変わっていく。

 その霧も、少しずつ晴れていった。

 白い壁の向こうには広大な空間があった。

 どうやら青空のようだ。点描で描かれたような淡い色彩が透けて浮かんでくる。

 霧は完全に散り、視界は明るい色調に彩られた。

 青い空が視界の大半を占め、下方には武骨な岩肌が姿を現す。

 岩間では柔らかい草が揺れ、視界に映るものを一つ一つ丁寧に確認したとき、記憶が溢れ出した。ここは、これまでの想い出の総てといってもよい。思い出深い『祈りの島』に違いなかった。

 風景を懐かしんでいると、青空を背に一羽の渡り鳥が忽然と姿を現した。

 その渡り鳥は目を瞑って岩肌に佇んでいる。

 どこか見慣れた姿だった。同族の他の誰かなのではない。もっと身近な存在が感じられる。その渡り鳥は、自分自身、ググゥだった。

 その渡り鳥はゆっくりと瞼を開いた。

 慣れ親しんだ青空が眼を透く。胸の奥まで染め抜く。

 足元からは絶えず潮風が巻きあがってくる。その風に混ざって波の豪快に砕ける音も耳に届いた。匂いも感じられた。むせ返るほどの濃密な海の匂いと、陽に焼けた岩の地の匂い。世界はより具体的な場所へと渡り鳥を誘っていく。

 ここは『祈りの島』の中でも特別な場所だった。北端の絶壁の窪みに位置し、その渡り鳥にとって、総ての始まりであり終わりでもある場所だった。

 何気なく視線を右にやった。

 すぐ隣には最愛の妻が寄り添ってくれていた。

 少し痩せた妻の身体を潮風から守るように翼を広げて抱き寄せると、目を再び瞑って妻に気づかれないように涙を流した。

「君にはずっとそばにいて欲しい」

「あなたが逃げ出してしまわなければ、私はいつまでもここであなたのことを待つわ」

 その言葉は渡り鳥の耳を通じ、夢を突き抜けてググゥの胸の奥にも深く響いた。

「僕は運命に翻弄されながらも君を見つけ出し、君を選んだ。それぐらい君のことが大切なんだ。その気持ちを君にも知ってもらいたい。だから、一族の『掟』に縛られない特別な楽園を築いてみせるつもりさ」

「特別な楽園って?」

「明日の朝には、僕らは再び別れて別々の海を目指して旅立たなければならない。大勢の仲間たちと古からの慣習に従うんだ。そしてまた大勢の仲間たちと一緒にこの島に戻ってきて、同じやり方で愛を捧げる。僕にとって君を愛することは、もっと特別なことなんだ。『掟』に従っているだけでは慣習に気持ちが呑み込まれてしまいそうで、それが怖い」

「またそんな変なことばかり言う」

 何度も聞いた妻の受け答えだった。妻は決まって、そう言う。きっと少し呆れた表情を浮かべていることだろう。

 渡り鳥はそっと瞼を開いた。

 やはり隣の妻は少し呆れて笑っていた。

 これでよいと思ったとき、異変は前触れもなく起こった。

 妻の顔が、渡り鳥の目の前に広がった刹那、妻の姿は砂となって青空に舞い散ったのだ。

 視界に映る総てのものが白い砂と化して一斉に崩れ始めた。

 一瞬の出来事だった。

 妻の姿も触れていた温もりも、柔らかな緑の草の曲線も、佇んでいる武骨な崖も、重力に引きずられて脆く崩れていく。雲さえも地と海に落ちた。色も形も匂いも区別のつかない砂の粒となって。

 総てを均一にならすかのようだった。もしくは無に帰すかのように。まるで再生不能を暗示しているようで、絶望感に襲われた。

 渡り鳥が埋もれた砂から這い出したときには、白い砂浜が緩やかな隆起を築きながらどこまでも続いていた。海は砂の海へと変わっていた。

 翼をはためかせた。激しく首を振ってみる。

 羽根の間に入り込んでいた砂が煙のように舞った。

 今度は足元の砂をすくって空へとばら撒いてみる。

 いずれの砂も、崖を形成していたものなのか、岩間に生えていた草のものなのか、いつもよい匂いのする妻の肉体のものなのか、判別することは不可能だった。

 砂だらけの世界を飽きるまで眺め尽くした。

 涙はもう乾ききっていた。

 どうしてもこの場所から動き出す気にはなれなかった。

 なぜ、と自問してみても答えは出なかった。全身は鉛を背負わされたように重く、気持ちまでもが怠惰な砂丘に絡み取られて沈んでいた。

 耳を澄ませば、微かに漣の打ち寄せてくる柔らかい音が聞こえる。


――僕は……何を考えているのだろう?


 頭も心も空っぽだった。

 鉄製の箱を抱えているような重さだけが身体の芯に残っていた。

 鉄の蓋を開けてみても中は空っぽだった。怒りの感情さえも拾いあげてみせることはできなかった。

 砂浜に立ち尽くしている渡り鳥…ググゥは、別れた妻はおろか、その他のいかなる者も恨んではいなかった。明確な意味も理由も見つけられないまま、ひたすらに自分を責め続けていた。


 ググゥは嗅ぎ慣れない匂いで目を覚ました。

 全身に染みついた潮風ではなく、朝陽に蒸された川面の匂いにくすぐられて。改めて河と海の匂いの違いを、微睡と現実の狭間で知った。

 河の水を一口飲み、そのまま顔を洗う。

 しばらくは何をする気も起らなかった。やはり着水して睡眠をとったことが間違いだったのかもしれない。全身はおぼろげに憶えている夢を引きずっているようで重いままだった。青空に残る月の位置からして、まだ朝の時間帯だろう。

 これから先、どこを目指して飛ぶべきだろうか?

 自分にふさわしい流れ着く先はどこなのだろう?

 言葉だけが空しく宙を漂う。

 首を動かして四方を見渡してみても、答えは見つからなかった。進路を示してくれるものはない。

 眩い光に曝された景色は見慣れない異国そのものだった。

 河の両岸には似たようなフォルムのマンションが背比べするように臨み、その間を巨大な鉄橋が跨いでいる。鉄橋を渡る電車も間延びしたように長く、南洋の島々の細々とした港町のものとでは、何もかも規模が違った。

 頭を上げ、目を凝らして朝陽を瞳に浮かべてみた。

 今度は視線を落とし、水面の歪んだ自分の顔を睨んでみる。

 そのまま目を閉じてみては、うたかたに耳を傾けて微かな声を拾おうとした。

 異国の地で、流民のググゥに助言を授けてくれるものは何もなかった。

 ふと気がついた。

 孤独と安らぎは静寂という点において似ているのではないのか、と。右目と左目に映る世界のようなものではないのだろうか、と。右目で孤独と対峙し、左目で安らぎを求める。そして悲しみとは、その両眼で捉えて映る景色のようなものではないのだろうか、と。二つの視野が重なり合い、視界に奥行きは生まれる。孤独を強いられた視界に、逃れようと安らぎを求める感情が投影される。悲しみは、重なった孤独と安らぎが生む錯覚のようなものなのかもしれない。

 だとしたら、それは決して逃れることのできない現実であると同時に、振り払うことのできる幻影でもある。今はその果てしない幻影の側に魅入られてしまっているだけなのだろうか。だから、いくら飛び続けてみても悲しみからは逃れられず、そこはかとなく悲しみが滲んだ現実に絶えず曝され続けている。

 悲しみは匂いのようにそのうち褪せてしまうのだろうか?

 想い出を道連れにして?

 消えない、褪せない、揺るぎのない確かなものが欲しかった。

 振り払えるもの、消えてしまうものは総て振り払いたかった。

 捨てられるものは何もかも捨てたかった。

 重い頭を振ってみた。

 軽い眩暈に襲われても、揺れた視界は何事もなく律儀に水平に落ち着いてみせる。首を振るだけでは悲しみの錯覚から逃れることはできなかった。

 今のググゥに感じられる揺るぎのない真実は一つだけだった。頬を撫でる風のみ。

 この『孤独の国』にも風はある。

 風は惑わさない。目を瞑っていても全身で感じ取ることができる。そして背中にはその風を力に換えてくれる誇らしい翼がある。広げて風に身を任せてみれば、何も考える必要もなくどこかへと誘ってくれる。きっとそこが流れ着く先の地であり、運命の約束の地でもあるのだ。

 頭で行き先を見出すよりも、風に任せて進路を示してもらうことのほうが、目的を失っている自分にはふさわしく思えてきた。きっとそれが渡り鳥の一族として生まれた運命なのだろう。風の流れ着く先に、次の運命が待っている。

 しかし一晩の休息と夢を経て、肺に根づいたものは、また別のものだった。まだ気体が閉じ込められているだけの不確かな形状の集まりではあったが、それは、生温かく、呼吸している確かな感情であることに違いなかった。

 その感情は幼いながらも、冷静な声で胸の奥からググゥに語りかけてくる。

 まだ渡り鳥でいることを続けるつもりなのか、と。もう渡り鳥でいることをやめるべきではないのか、と。これからは『掟』に縛られない生き方をしてみないか、とも。

 言葉をそこまで続けて、その感情は、微笑むのだ。なぜならもう総てを失ったはずだから、と。挑発するかのように。

 ググゥはその声に答えてみる。

 そう、だから『諦観の海』を飛び越えて長い旅に出たのだ。旅の目的を定められないままに。何者になるためにではなく、渡り鳥の一族であることを捨てるために。逃れるために。総てから逃げ出すところからこの飛翔は始まったのだから。

 もう妻とは夢の中でしか会えない。

 その夢さえも、再び見られるというわけではない。

 砂と化して何もかも失ってしまったのだ。

 それが現実。

 苦々しい笑みを空へ投げた。

 矛盾をはらんだ感情や真逆の思考に惑わされているようでは、まだまだ飛び足りないに違いない。もっと感覚が研ぎ澄まされるまで自分を追い詰めたかった。それができるくらいまで強くなりたいと願った。

 いずれにせよ、答えは空にある。

 翼を広げ、余計な水滴を払い落とした。

 大きく息を吸い込む。

 僅かな助走をつけて飛び立とうと全力で羽ばたいた。

 気持ちはすでに空の高みへと向いていた。

 上昇気流を掴もうとした、そのときだった。

 高層マンションの高さほど上昇したとき、背中に強烈な痛みが走ったのだ。

 声を漏らす間もなかった。

 翼の骨格が分解してしまったような、衝撃と激痛に襲われた。

 両翼はこれまでの過酷な滑空で摩耗しきっていた。その上、幾百日ぶりの休息を挟んでの飛翔。気ばかりが焦ってしまい、体躯に似合わずにいきなり全力で大空へ帰ろうとしたものだから、肉体は完全に気持ちに追いついてくれなかった。

 それでも羽ばたき続けることを諦めなかった。普段より何倍も重く感じられる風を捉えようとした。意地だけが原動力だった。

 全力で空を漕ぐ。

 背中の悲鳴にも耐えた。

 しかし、重力に抗うことはできなかった。

 身体は手作りのブーメランのように歪な弧を空に描く。

 何度目かの弧を空に刻んだとき、川面から吹きあがった一陣の風に呑まれた。

 不吉な腕に掴まれた気がした。高層マンションの影響を受けた変則的な気流。経験したことのないその風に乗り損なうと、煽られる形でバランスを崩した。もはや体勢を立て直すことは叶わなかった。

 ふわりと空に舞いあげられると、そのまま青空を背に流れ星となった。

 一直線に落下し、とあるマンションの屋上に叩きつけられた。

 そのコンクリートの地は鳩の王国の根城だった。その一団は、マンションの屋上から視界に収めることができる駅を縄張りとしていた。

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