05. 切り離し

 鼻を押さえて三十秒ほど我慢すると、血は止まった。

 のぼせて鼻血になるのと、似た現象なのだろう。


 力を抜いても視界の多重化が解けず、蛇口も二つに分裂して見える。

 水で顔の下半分を洗い流し、シャツに血痕が垂れていないのをチェックした。


 飲み場の台座を両手で掴んで体重を預け、多重現象が治まるのを待つ。

 冷や水が心地好かったのは、頭が火照っているからか。

 もう一度水を出し、口に含んで顔を公園の出入り口へ向けた。


 この場所から窺えるのは、西口と南口で、東側は樹が邪魔で見づらい。

 その南口も、今は朝靄あさもやが掛かって白く霞んでいる。


 一番近い西口はと言えば、やはり靄が濃く見通しが悪い。

 せっかくの朝日も露をきらめかせるばかりで、これでは深夜の方がマシだった。

 霧の深い街だという感想を抱きながら、何とは無しに西へと歩く。


 明るくなれば人も動き出すだろうし、実際、自動車のエンジン音も聞こえ始めていた。

 新聞配達なら、もう済んだ頃合いだ。

 どこかの民家から一部失敬しようと考え、グラウンドに踏み入り、外に出るため西口への直線ルートを取る。


 公園外周へ近付いても薄れない靄に、潤もようやく違和感を覚えた。

 白いベールは、公園の西に広がっている。特に入り口は、街並みが全く見えない乳白色の壁だ。

 グラウンドのふちで足を止めた彼は、遊歩道の先に目を凝らす。


 ――霧と言うより、火事で味わった煙。もっと似ているのは……。


 白い塊の中で、光が反射した。

 銀色の銃を持つ集団が、靄を押し退けてスルリと現れる。

 昨夜と同じ細身の銃身を持つ三人と、その倍の太さは優にある大型銃を抱える五人。

 頭に被るのは、お馴染みのガスマスクだ。


 跳ねるように反転した潤は、真東へと駆け出した。

 身軽な彼の方が速く、ガスマスクたちを一気に引き離す。


 南口を一瞥した彼は、そちらからも同数の追っ手が迫るのを確認して、残る一箇所の出口に賭けた。

 そこも塞がれれば万事休すだったが、幸いにも靄は存在しない。


 高校二年で幽霊部員と化してしまったものの、元は陸上部。幅跳び要員の脚は、まだなまるには早い。

 グラウンドを横断した彼は、遊歩道から東口へと走り抜けた。


 車の進入を阻む銀色のポールが、横一列に四本並ぶ。

 その間を縫って、公園の外へ一歩踏み出した時、矢知の号令が発せられた。


「撃てっ!」


 東口の左右には、しゃがんだ班員が武器を構えて待ち受ける。

 携帯バズーカの如き太い円筒に、グリップと引き金が付いた装備は、覚醒ジョルター用の拘束具――強粘着性ネットランチャーだ。


 三メートル四方に広がる網には、接着ジェルが付着する。

 空気に触れるとトリモチ並の吸着力を発揮し、剥がすには専用の剥離剤が必要だった。

 網の芯にはカーボン繊維が使われており、手で引きちぎることはもちろん不可能で、衝撃波にも耐えらる。

 至近距離で網を被せられれば、どんな屈強な相手でも自由を奪われて地を這う。


 これが普通の人間ならば、だが。

 潤に網が触れる寸前、ジョルトが発生して撃った相手に弾き返す。


「次弾、撃てっ!」


 すかさず放たれる次の網を、またもやジョルトが迎撃、そこへ間髪入れずに第三斉射が続いた。


「三撃目に合わせて、拘束球!」


 攻撃は二発ずつ。

 最初の網、そして次の二発はジョルトが防ぐ。

 跳ね返った網は撃った当人に絡み付き、直ぐに後列が剥離剤をスプレー噴射したものの、これでは自爆攻撃だ。


 しかし、最後に撃たれた二つの拘束ネットは、遂に潤の身体へ届いた。

 全力疾走中だった彼は足を取られて、もんどり打って倒れ込む。

 けた彼へ、上から網が覆い被さった。


 早朝の公道に、突風が荒れ狂う。

 ジョルトが連発され、網の目から押された空気が噴き出すが、その衝撃波が粘着力を上回ることはなかった。


 矢知の作戦は、単純にして強引である。

 催涙ガスと麻酔弾は、ジョルトに対抗するには発射間隔が悠長過ぎた。まずは量を浴びせて足を奪うべき。

 そのために入り口付近の地面には、あらかじめ粘着液も塗布されていた。


 藻掻く潤の真上へ、ソフトボールサイズの白球が次々と放りなげられる。

 これが矢知の提案で作成されたジョルター用の最新武器、“拘束球”だった。


 ロックを解除して投擲すると、球の薄い外殻は衝撃で破裂する。

 地面に塗られたものと同種の粘着液が中に収められており、矢知の目論み通りジョルトを受けて中身は潤へ降り懸かった。


 通常は対象にぶつけるように投げる球も、ジョルター相手ならその頭上が有効だろう。

 空中から落下する粘着液が上方向へ弾かれようと、結局また降り落ちるだけだ。

 ジョルトは能力者を中心にして球形に発生し、特定の方向へ力を集中させたり、軌道を曲げたりすることはない。


 実際、液の半分以上が周囲に散らされてしまっても、残りは確実に潤へ付着する。

 彼の動きが鈍ったところで、最後列にいた麻酔銃担当者が前に出て来た。


 大量の粘着液の雨に塗れ、立ち往生するジョルター。

 その静止した的へ麻酔弾を多段撃ちすれば、何れは衝撃波で撃ち落とし切れず被弾するだろうと、矢知は考えた。


 号令に合わせ、〇・五秒間隔の射撃音が開始される。

 左右三発ずつ、麻酔弾による三段撃ち。

 顔を網と地面に接着させた潤は、彼らへ向き直ることもままならない。


「クソがあっ!」


 悪態をつくだけの彼は、もう袋の鼠にも拘わらず、衝撃波はきっちりと三回発動した。

 矢知が苛立ちを隠さず、部下へ再装填を急がせる。


「麻酔弾の間隔が空き過ぎだ、もっとタイミングを早めろ!」

「はいっ」


 見えずとも、矢知の言葉と衝撃波で何をされているのか潤にも想像が付く。


 ――麻酔なんて冗談じゃねえぞ。


 未明に練習した成果を見せるのは今だろう。

 力の込め方を思い返し、彼は脳内の取っ掛かりを探った。


 発動は勝手にするなら、威力を増幅することのみに集中する。

 欲しいのは、鬱陶しい網を無理やり剥がし飛ばせる衝撃波。極限まで高めた威力で、障害を消す。


 ――全部、ブレ・・てしまえ!


 網越しにも、彼の輪郭線が異常な多重化を始めたのが見て取れ、矢知は目をみはった。


「まだか、急げっ」

「準備完了しました!」

「撃てぇ!」


 三発の銃声に合わせて、衝撃波が二回・・

 十メートル近くは離れていた矢知にもジョルトの空気圧が届き、頬の肉が激しく揺れた。


 片膝を立てて麻酔銃を構えていた前列は、バランスを崩し尻餅をつく。

 大小二回の炸裂は、皆の耳にはっきり伝わった。

 後衝撃バックジョルト、この短時間で第三症例まで進んだ潤を、矢知は歯を食い縛って睨みつける。


「拘束球を持つ隊員は、走って追え! 他の者は車へ」

「えっ?」


 ネットから対象が逃げ出した前提の指示に、まだ事態を把握していない隊員は戸惑う声を返した。

 矢知を振り返る彼らを、二度三度と衝撃が襲う。

 駆け出した潤の足裏が接地するのに合わせて、前後連続する衝撃波が四セット、計八回発生した。


 どうやって拘束ネットから逃れたのかはともかく、粘着ジェルはもう彼の足枷ではない。

 遠ざかる潤に気付いた隊員は、慌ててその背を追う。

 拘束球を携帯しない半数の部下は、矢知と共に建設中の民家の陰に止めた輸送車へと急いだ。





 助手席に乗り込んだ矢知は、待機していた運転役へ発車を命じる。

 囚人護送車にも似た研究所の輸送車輌は、後部席も機能重視で、左右二列のベンチと装備収納ボックスが取り付けられただけの殺風景な構造だった。

 護送車と違い、前部と後部を遮る壁は存在しない。


 矢継ぎ早に無線で指示を出す矢知の様子も、隊員たちからよく見える。

 三班は公園回りのガスや粘着液の隠滅を、二班は先行する一班、つまり走って追跡中の部下と合流するように振り分けられた。


 交信が終わるのを待っていた一人から、前席へ質問が飛ぶ。

 隊長に全幅の信頼を置く、佐々井という若い隊員からだ。


「巻月……でしたか。奴はどうやって逃げたんですか?」

「自分を切り離したんだ。後衝撃バックジョルトだよ」

「あれが!」


 能力者の拘束を仕事とする対策班でも、第三症例まで実際に目撃した者は少ない。

 矢知以外では、副長を始め古参の数人が目撃したくらいだ。

 連続発動となると彼らの記憶にも無く、新人に近い佐々井には鮮烈な印象を与えたことだろう。


 後衝撃――これは前衝撃と根本的に性質が異なり、特に大きな特徴が“切り離し”現象だった。

 いくら粘着力を強くしようが、ロープで縛ろうが、何なら手錠を掛けたところで、後衝撃を発動されると全て切り離されて・・・・・・しまう。

 衝撃後、不甲斐なく下に落ちる拘束具。そんな理不尽な光景を、矢知は何度か目にしてきた。


「第三症例者に有効な対策は?」

「今の段階では無い。そう教えたよな?」

「そうですが、それでは拘束しようが――」

「追い詰めろ。能力を使うのにも、限界は有る。奴が疲れた時がチャンスだ」


 異能であろうが疲労は力を失わせる、これは運動能力と変わりない。

 体力を消耗したところに飽和攻撃を仕掛ければ、昏睡させられるだろう。

 しかし、と矢知は心中で言葉を続け、逃げる巻月潤の姿を思い浮かべる。


 地面に撒いた粘着液のトラップは、彼がこれまでの経験を活かして編み出した新たな戦法である。

 万一、第三症例まで進んでも通用するはずだった。


 ところが、潤はジョルトを連発して、平然とその上を走ったのだ。

 切り離しの連続使用、そんな芸当が出来る人間など、症例者でも特例中の特例であろう。


 後衝撃だけなら、まだいい。第四症例、衝撃切断ハッシュジョルトへ進行するまでに捕らえたい。

 第四症例者を街中に放置するのは悪夢以外の何物でもないと、矢知は低く唸る。


 潤の稀に見る能力の高さ、症例の異常な進行スピード、どちらも予見可能なレベルを超しているものの、彼は自分の見通しが甘かったことを認めていた。

 これは自分の失策だと。


「巻月の半径五メートル以内には、絶対に近付くな。各員、肝に銘じておけ」

「了解です」


 明るくなった街では、銃や催涙ガスを持ち出す訳に行かず、拘束球を主体にした接近戦が主体になる。

 厳しい攻防を予想した拘束班の隊長は、一層険しい顔で街路の前方を見つめた。

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