第1.4話 軍神チュール、魔剣を手にすること

「化け物め! 化け物の息子め!」


 目の前で《銀糸グレイプニル》によってぐるぐる巻きにされていた〈魔狼フェンリル〉に向かって叫んでいたはずが、己が口から出ていたはずの声はどんどんと遠ざかっていく。視界も。フェンリル狼はどんどんと小さくなり、代わりに人神の背中が広がった。チュール自身の背中で――その胴体からは無数の首が生えていた。

 化け物だと、化け物の息子と虐げられていたのはフェンリル狼ではなく、節くれだった身体と無数の首を持つチュールのほうだった。そうだ――そうだ、化け物はおれだ。


 酷く重い頭のまま身を起こす。太陽はとっくに天頂を過ぎていた。

 欠損した右手の痛みを紛らわせるために、昨日はエール酒を飲んでから眠ったのだが、どうやら深酒しすぎたらしい。頭が痛む。いや、この頭痛は血液を大量に失ったためか。


 ヴァラスキャルヴ宿舎の自室の寝台に腰掛けなおしてから、息を深く吐く。頭に昇っていた血が引いて冷静な思考が戻って考えるのは、不快感である。唾を吐きたくなるような仕事だった。

 魔狼フェンリル、あの馬鹿でかく成長した愚かな狼は、ただ身体が大きく、人神の言葉を解し、そして人神の腹から生まれたという、ただそれだけの理由で蔑まれていた。異常ではあったが、けして化け物ではなかった。それをチュールは捕縛した。自分の親に疎まれるとは、可哀相と思わないでもない。

「だが愛してくれる親もいるならば、それは幸せだろうに」

 少なくとも両親共にから疎まれていた自分からすれば、羨ましいくらいだ。


 チュールにも、他人を憐れむだけの心はある。ただ他人よりも自分のことを優先させるだけのことだ。

 もうすぐ巨人族との戦争が再開されるであろうことを、チュールは知っていた。小競り合いならばアースガルドやミッドガルドの一部でもう既に起こっている。

 アース神族の将である自分が右腕を失ったことを知ったら、他のアース神たちはどう感じるだろうか。雷神トールさえいれば良いと思うかもしれない、所詮自分は雑兵と変わらない、と自嘲気味に笑む。

 今回の件で右手を失ったことはチュールにとっては大きな害であったが、代わりに得たものもあった。


 チュールは壁掛けの武器置きに掛けられている、抜き身の剣に視線を向けた。柄から刀身から、あらゆる場所に刻まれた緻密な刻印。それが示すのはそれが〈神々の宝物〉であるということだ。

「名は《魔剣ティルヴィング》。願いを叶える剣だ」

 昨夜、仕事を達成したチュールのもとに報酬を携えてやって来た人神は剣に関して、そんなふうに説明した。


 依頼人はアース神族の首長である隻眼の主神オーディンの使者を名乗ってはいたが、すっぽりと頭から被ったローブで容貌を隠しており、明らかに怪しげな人神であった。

 もちろん当初、チュールはその人神を信用しなかった。が、「仕事に必要だから」と言って渡してきた貴重な〈神々の宝物〉を見ては、少なくとも力ある人神の関係者であるということは信用しないわけにはいかない。

 そうして仕事を達成したうえで手に入れたのが《魔剣ティルヴィング》だ。フェンリルを捕縛した謝礼である。チュールは戦時でもないのいのに、この剣のために働いたのだった。

 チュールは剣の柄を握る。

 剣は異様なほど軽かった。そして手に持っただけで、禍々しいほどの魔力を感じた。


 願いを叶える剣。

 使者は確かにそう言った。

「どういう意味だ?」とこの剣を受け取った昨夜、尋ねたのを覚えている。

「言葉通りの意味さ」使者の顔は見えなかったが、笑みを浮かべたのは声色の変化でわかった。「でも気をつけると良いよ。魔剣は代償を要求するものだ」


(代償を要求して願いを叶える、ね………)

 超自然的な代物であったが、トールの《雷槌ミョルニル》しかり、オーディンの《戦槍グングニル》しかり、昨日使用した《銀糸グレイプニル》しかり、〈神々の宝物〉というものは得てしてそういうものだ。ルーンなる魔力を吸い取って力に変えるらしい。ならばどんな〈神々の宝物〉でも、目に見えず、腹も膨れない、魔力だとかいうもので代償を払っている。ティルヴィングがさらなる代償を要求するのだとしても、どうせ遠くない未来に災厄が降りかかる身だ。いまさら恐れるべきものもない。

(なにか試してみるか?)

 チュールは考える。代償の重さは願いの難しさに比例するのだろうか。失った右手を戻せ、などという願いは魅力的ではあるが、右手の代償として左手を奪われたりしたら笑えない。


 試してみるということで簡単な願い事にするのなら、とチュールは思い、入口のドアを見つめて言った。

「そこのドアを開かせろ」

 ドアが開き、中に女が入ってきた。

「うわっ!」女はチュールを見るなり驚く。

「なんだ?」

 誰だこいつは、とチュールは思う。この女のせいで実験が中断されてしまった。それとも――馬鹿馬鹿しいことだが、この剣の魔力で扉が開いたのだろうか。

「いや、昨日の傷が心配になって……、なに、室内でなにやってるの? 吃驚した……」

 女の言葉で彼女が誰であったか思い出す。昨日、ヴァラスキャルヴでチュールを治療したエイルという女だった。

「大したことはない」チュールは彼女の言葉の前半部にだけ答え、昨日まで自分が使っていた剣の鞘を探し、魔剣ティルヴィングを収めた。

「昨日も安静にしてろって言ったのに勝手に出ていっちゃうし……」エイルは何か気づいたようで空の匂いを嗅ぐ。「なんかお酒臭いような………」

「消毒だ」

「傷口に響くんだから、やっぱりヴァラスキャルヴの医務室でゆっくり休んでいたほうが良いのに」

 女の声が二日酔いの頭に響いて気分が悪い。チュールは顔を顰めるのを隠さなかった。まさかこのエイルという女の来訪が魔剣にドアを開かせた代償だとでもいうのだろうか。

 チュールは無言でエイルをドアの外へと押しやり、ドアを閉めようとした。

「ちょ、ちょっと待ってよ」ドアの隙間にエイルは手を差し込む。挟まる。「痛いって」

 昨日フェンリルに右腕を食われたことを思い出しつつ、チュールは仕方なく戸を開く。


「あぁ……、痛い。なんてやつだ」エイルはぶつぶつ言う。「包帯巻き直してあげようかと思ったのに……」

 右腕の包帯を見ると巻き方自体はずれていなかったが、手当のあとでまだ出血があったのか紅く、黒く染まっていた。

 追い出そうとしても追い出せそうになく、治療をしてくれるというのならそうしてもらったほうが良いので、チュールは仕方なく無言でエイルを中に迎え入れた。ベッドに座って右手を突き出す。

 エイルは携えてきた救急箱から包帯や消毒液などを取り出し、チュールの包帯を手早く取り替える。

「うっへぁ……、痛そう」

「慣れている」

「手首を何度も失っているわけ? 普通のひとは2本しかないと思うんだけどな」

 おれの親父は腕なら20本はあるし、頭は9個あるよ、などとチュールは言わないでおいた。


 包帯を取り替えてようやく開放されると思ったが、そうではなかった。エイルはにっこりと微笑んで尋ねてくる。「チュール、お腹減ってない?」

 言われたとおり、チュールは空腹だった。昨日は深酒をしたが、酒にはたびたびトールにつき合わされるため、強い。胃は元気だ。

「今、チュールがフェンリルを捕まえたお祝いをヴァルハラ中でやってるよ。お祭り騒ぎだから、早く行かないとご飯がなくなっちゃうかも」

「なんだって?」

「だっからぁ、チュールがアースガルドを騒がせてた魔狼フェンリルを退治したお祝いやってるんだって」

(は?)

 馬鹿かこいつは、とチュールは思った。いや、馬鹿なのは祝いを開催したアース神族の誰かか、それとも何者かの企みなのだろうか。


 どこからフェンリル捕縛の報が伝わったのか知らないが、フェンリルを倒して祝うことなど何もない。あれはただの狼だった。人語を理解し、人格を持つ狼だ。誰を傷つけてもいない。それを討伐して一体何を喜ぶことがある? 戦争を続け、誰が得する?


 フェンリルを捕縛したのはチュール自身であったが、アース神族の愚かさ加減に腹が立った。

 ヴァン神族や巨人族に対しての諍いでもそうだ。一体どちらが先に攻撃を仕掛けた? 和平を結んでもすぐにそれは壊れてしまう。戦うのは容易だ。しかし勝つのはそう楽ではない。戦場には出ない頭でっかちどもは、それを理解していない。いや、理解していながら、胡坐をかいているのか。


「寝る」

 チュールはベッドに横たわった。

「え? 戦祝会だよ? 良いの? チュールが――」

「さっさと出て行け」とチュールは彼女のほうを見ずに言った。


 やがてエイルが部屋を出て行く音が聞こえた。

(代償か………)

 願いを叶えられても、その代償が大きすぎれば使い物にはならない。使い方を誤らなければ危機的状況では使えるだろうが、平時に使える剣ではないな、とチュールは考える。なんにせよ、もう少し実験をし、検証してみてからだ。


 もっと実用的な力を得なければならない。何よりも強く、何よりも貴い力が。世界に己が爪痕を残すための力が。

 〈神々の宝物〉を持たず、出自を明らかにできない身分のチュールがアース神族の将にまで登り詰めるのには苦労した。だが将になったあとでも、際立つ力がなければ限界がある。最強の戦士であるトールや、新たにヴァン神族から和平の証としてやってきて、客分の将となったフレイには敵わない。


 もっと強くならなければ。戦いを調停することができないのであれば、勝つしかない。誰よりも強くなり、そして勝つのだ。

 勝つ。勝つのだ。何度も何度も、チュールは反芻した。眠れなかった。眠る気にもならなかった。

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