唯一無二には程遠く 02

 朝靄の中、鼻をくすぐる芳しい匂いにソプラノは瞼を持ち上げた。寒さはない。視界の端に真っ赤に色づく南国の花が見えた。道理で寒くないはずだ。どうやらまだ自分がいるのは植物園らしかった。身体の右側に温かさを感じる。肩にアルトの頭が乗っていた。それはそれは穏やかな顔で眠っている。ソプラノは思い出す。そうだ、私達は再び元の身体に戻るために取引をしたのだ。

「アルト、アルト」

 呼びかけるうちにずるりとソプラノの膝の上までアルトの頭が滑り落ちた。

「え……?」

 彼女はそこで気付く。自分達の身体が、別たれたままだという事に。

 おそるおそるソプラノは自分の右脇腹を襟ぐりから覗く。そこにはガーゼが当てられており、引き剥がすとその下には真新しい手術痕が蚯蚓腫れのように一本走っている。

 びっくりしてひゅっと息を呑み気付く。呼吸は問題ないが、胸が引き攣るような気持ち悪さがある。そっと触れると今までとは違う、異物感に満ちた感触があった。

 変わっている、なのに戻っていない。

「そんな……元に戻してくれるって言っていたのに……ねえ、アルト、アルト起きて!」

 裏切られたショックで混乱した頭のまま、ソプラノはアルトの肩を揺らす。だが、アルトは全く起きる気配がない。すーすーと寝息を立てたまま、眉ひとつ動かさずに眠っている。

「アルト、アルトったら――――」

 ソプラノは壊れた機械のようにアルトの身体を揺らし続けていた。

 水やりの為に訪れた庭師に見つかり、病院に運び込まれるまで、ずっとずっと。


 その一報を受けて、最も驚いたのはハーツだった。

「怪盗五臓六腑が現れた……?」

「ああ、朝からえらい騒ぎだよ。今日は授業無くなるんじゃねえかな」

 朝学校に来た時には、もうクラス中がその話題で持ちきりだった。人の口に戸は立てられない。それが金持ちの内臓を狙う怪盗のことであれば、同じ金持ちであるクラスメイトが浮足立つのもしょうがなかった。

「双子の片方は死んでるらしいぞ」

「そんな!怪盗五臓六腑は殺すまではしないって……」

 そこかしこでひそひそと情報交換が進んでいる。

「心配だな……」

「昨日まであんなに元気だったのに……」

「こら、席に着きなさい!」

 教師が現れ、皆一旦席に着く。表面上はどの子も静かにしているが、どの顔にもHRで何らかの連絡がされるのではないかと興味津々の顔だ。フレンテが不愉快そうに眉根を寄せて瞠目している。教師はクラスを見回して、声を上げる。

「あーみんなも知っている通り、ラングスの家に昨夜強盗が入った。二人はショックを受けており、自宅で療養している。今日は学校を休むそうだ」

 クラスがざわついた。強盗?怪盗じゃなくて?

どういうことだ?聞いてる話と違うぞ……

「ハイ!」

 真っ直ぐ手をあげたのはリブだった。

「ラングス姉妹は怪盗五臓六腑に襲われたって聞いたんですが、本当ですか?」

 イザームの嘆息が聞こえる程に、クラスが静まりかえる。リブの直球の質問に、教師は一瞬怯んでから、「被害も小さく警察にも届けないとのことで、詳しいことはわからない」と突っぱねた。それを皮切りにまたクラスにさざ波のように囁き声が広がる。

「…………」

 その波間で、ハーツは微動だにせずに顎に手を当てて考え込んでいた。浮かんでは消える泡沫のように、その日の授業は頼りなく過ぎて去っていった。どの生徒も身が入っておらず、最初は叱責していた教師も最後には諦めて黙々と黒板に数式を書き記すだけとなる。

 最後の授業のベルが鳴ると同時に「じゃあさよなら!」と鞄を抱え、ハーツはイアの診療所に急いだ。昨日植物園から手ぶらで帰ったブラッドは、イアに連絡してくると途中で別れてから家に帰ってこなかった。診療所の前まで来ると、案の定、入口横の色あせた青いベンチに、俯いたブラッドが腕を組んで座っている。眠っていたようだが数メートル前まで近づくと、当たり前のように彼は目を覚まし顔をあげた。

「よう。その顔だと、よっぽど想定外の事態になってるらしいな」

「怪盗五臓六腑が出たって」

「ほう、俺達を差し置いてか」

 そこでブラッドは外で話すことではないと思ったらしく立ち上がる。まだ診療時間中だったので、裏口に回り込み地下の闇医者用の施設まで降りる。粗末なベッドとパイプ椅子が置かれた薄暗い診察室で、ハーツは断片的かつ確定的でない今日学校で聞いた情報をブラッドと共有する。

「一番しっくりくるのは、本当に怪盗五臓六腑が現れたと仮定することだな」

 一通り聞き終わったブラッドはまずそう告げだ。ハーツも頷く。

「うん、僕もそう思う。強盗だったら普通に警察に届ければいいしね。後、ラングス姉妹のどちらかが死んだっていうのも違うと思うんだ。そこまでの事になったら、流石に家族も警察に訴えるんじゃないかな」

「だが夜中に抜け出したのが見つかっただけだったら、二人とも学校には来るだろう。何かは起きたんだ。警察には届けたくない、そして二人が学校に来れなくなる位の何かが」

「ってなると、やっぱりネクター臓器に関すること……」

 ぱっと、地下診療所全体の明かりがついた。

「なによ。こんな薄暗いところで」

 白衣姿のイアがドアに凭れかかってこちらを見ている。どうやら診療時間が終わってすぐに降りて来てくれたらしい。

「昨日言ってた子達、どうだったの?」

「それが……」

 同じ話をするとイアは思案顔で徐に机の横に立った。目の前の壁には大きく引き伸ばされたこの街全体の地図が貼られている。救急搬送用に他の病院の場所を網羅した地図だ。

「ハーツ君。もし偽者の怪盗五臓六腑が本当に昨晩出たとして、情報から判断できることが何か分かる?」

ハーツは額に手を当てて深く考えた後、やがてハッと目を見開いた。

「洗浄処理の問題――!!」

 イアは満足げに頷く。

「そう、その状況だったらまだ取り出したネクター臓器は次の移植者の身体に入っていないはずよ」

「どういうことだ?」

「ネクター臓器は、ネクター本人から他者に臓器移植する時と、移植者から移植者へ――嫌な言い方をすればネクター臓器を使い回す時とでまったく処理にかかる時間が違うの。一度でもネクター臓器がネクター以外の身体に入れば、最低でも洗浄処理に数日はかかる。前の移植者の痕跡を消さないと、移した時に移植者が拒絶反応を起こしてしまうから」

「そういやハーちゃんに取り戻した胃を還植する時もえらい時間かかってたもんな」

「そもそもネクター臓器は公に認められていない。そんな中で生体臓器を処理するには相応の場所と時間の確保が必要になる。取り出したら洗浄処理の間は臓器を動かせないし、まだ近くにあると考えた方が良いわ」

 イアの手がゆらゆらと街路を辿る。いくつかの病院を爪先で叩き、あれもちがう、これも違うと爪でバツの跡をつける。

「深夜一時に待ち合わせで、朝にはもう事が明るみに出ていた事を思えば、ラングス姉妹が失踪していた時間は長くても六時間程度、家からそう遠いところには――いえ、むしろ二人の人間の臓器の摘出と人工臓器の移植を行おうと思ったらほとんど移動なんて……」

 眼鏡の奥でイアの眼が見開かれる。

「まさか……そんな……!?」

「なんだ?」

「一カ所だけ、それが可能な場所があるの……だけど、ありえない」

 彼女の爪先が差す先を見て、二人の顔が凍りついた。

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