貴方を満たす五臓六腑 12

 最近少し寝不足が過ぎる。ソファに寝転がったまま、ブラッドは差し込む太陽の強い光に顔を顰めた。窓にかかったブラインドを繋ぐ糸がほつれて千切れ、稲穂のように垂れたその隙間から明るい光を垂れ流している。陽光を手で遮りながらちらりと指の隙間から見えた太陽の位置で時間帯を割り出し、飯を食うかこのまま夕方まで寝るかという二択を自分の前に並べる。基本ブラッドが自炊することはない。食べたいなら外出しなければいけない。それはとても面倒だ。

「寝るか……」

 もぞもぞと狭いソファの上で体勢を変え手を退かすと、そこに蛇がいた。

赤黒くぬめる鱗に包まれた胴が宙をうねる。そいつは視界の右側から現れ、俺の左目の真ん前に陣取ってしゅーしゅーと息を吹きかけてきた。

 ああ疲れている。ブラッドは改めて自覚する。これが出てくるときは、俺が俺を御しきれなくなりつつある時だ。戦後ケアの一環で受けたカウンセリングで、医者がブラッドに滔々と諭したのだ。

 これは、あなたのトラウマの形です。その見えない右の眼球にあなたは囚われているのでしょう。医者の話を聞いてブラッドは嗤った。申し訳ないが、この目は戦場で負傷したものではない。その一言で補助金の対象にならないと判断されたらしく、ブラッドは戸外へと放り出された。もう何もないな。そう思って帰っていた途中に、ブラッドはハーツに出会ったのだ。

 浅ましいか、卑しいか。俺の脳を蛇が這い回る。そいつは右の眼窩からまれに飛び出し、鎌首を俺の顔にくるりと向けて舌を出す。

 お前の選択を、ずっと見ていたぞ。その眼がただのガラス玉になる前から。

空虚な眼球の後ろから、息を殺して、ずっと、じっと。

 脳の底を焦げ付かせながら、お前の手が引き金に指をかける瞬間を。

  反射?とっさに?

     兵士としての本能が?

         躊躇っていたら戦場では直ぐに死ぬと?

                誰も否定できない、戦争での一般論。

 そんなものを担ぎ出す地点で、お前はわかっているんじゃないか?

 ああ、あの一瞬、確かにお前は計算した。回転の速いおつむで、弾き出すことができた。あいつをここで消した方が、確実に自分の生存確率は上がると。

 不意に、手にずっしりとした感触を覚えた。見ずともわかる。ブラッドの愛銃だ。安全装置はすでに外れていた。世の中はシンプルにできている。本当にそう思う。この引き金一つで与えてくれるのは、今望んでやまない、沈黙という結末だ。

 蛇が舌を伸ばし、息を吐いた。まるで哂っているように見える。

 蛇に向かって銃口を向ける。引き金に指をかける。これで、やっと静かになる。安堵と、解放への期待が心を浸していく。

 だけど、引き金を引く瞬間、ブラッドは不思議でしょうがなかった。


 どうして、蛇に突き付けたはずの銃口が、俺のこめかみに押し当てられているのだろう?


「ブラッド!!」

 ハーツの甲高い悲鳴。まるでカナリアみたいだ。あの密林の中、鮮やかな尾を引いて飛び去るあの姿。

「お、おかえり」

 引き金にかけていた指が、嫌に重く感じた。まるで向精神薬を飲んだ時の反動のような頭の重さ。自分は疲れている、それをブラッドは理解していた。だがそれだけだった。理解できても対応ができるとは限らない。

 走り寄ってきたハーツがブラッドの銃を取り上げ、そのグリップで正確かつ遠慮なく彼の胸を打ち付けた。一番弱い部分にグリップの角を当てられ、ブリキの心臓ががたついて悲鳴を上げ、簡単に緊急停止する。ブラッドの意識が闇に落ちた。

 次にブラッドが目を覚ました時には、すでにブリキの心臓は再起動されて丁寧にネジを巻かれ、こちこちと規則正しい音でブラッドを正しい方向に導こうとしていた。蛇の姿はもうどこにもなかった。きっともう右目の後ろでとぐろを巻き、眠るように静かにまたこちらを伺っているのだろう。

 ぼうっとする残った左目を擦りながら体を起こすと、机の上にまだ湯気の立つマグカップがあった。ミルクが多めのカフェオレは好みではなかったが、大人しく口をつける。

「ごめんね」

 キッチンの椅子に横座りして、ハーツが背もたれに顎を預けてこちらを見ていた。

「強くなったなあ、ハーちゃん」

 ハーツを鍛えたのはブラッドだ。六年間ブラッドがこの子供に教えられたことはそれくらいしかない。学も無く、才も無い。田舎から若いうちに徴兵されてきた兵士などどいつもそんなものだろう。だからこそ、戦闘術だけは徹底的にハーツに仕込んだ。小さな顔を腫れるまで殴ってイアにメスで刺されたこともあったし、組手の怪我で足を引きずって買い物に出て行ったハーツの姿に激高したパン屋の親父に、めん棒で殴り飛ばされたこともあった。それでもブラッドはハーツの訓練を絶対に止めなかった。

 一つはハーツの目的に必要だったから。もう一つはブラッドと一緒に暮らすからだ。

「駄目だって思うんだ、こう、反射で動いてる最中にちらっと頭の片隅を掠めるみたいに。でもその時には、ブラッドの胸に僕の手が叩き込まれてて……」

 脳で考えた指示よりも、身体に染み込んだ反射の方が速くて当然だ。ハーツは本当に優秀に育っている。考えるよりも先に身体が状況に最適な対応をする。人がそんな風に動けるようになるまでに、どれだけの鍛錬が必要かハーツはわかっていない。

 それが特に、自分の身近な人を相手にしてなら尚更だ。まず人は自分の近しい人を敵と判断することに抵抗がある。元々群れる生き物だから、一度仲間だと思うと気を許してしまって、どうしても咄嗟の所で普段通りの対応ができない。優秀な軍人もスパイも、大体それで死ぬ。だからこそ、ブラッドはハーツにそれができるように教え込んだ。

 自分が碌でもない幻覚に囚われて彼に危害を加えようとしても、それを無意識下の反射で――ブラッドだとわかった上でも躊躇わず――迎撃できるように。

「しばらくゆっくりしたら?ここの所働き詰めじゃない。お金無いの?」

 あるかないかで言えば常にない。いや、語弊がある。稼いではいるが、使う金も多いだけだ。ブラッドの渋面で察したのか「僕も新聞配達ぐらいは」なんてハーツは切り出してくる。

「お前がそれを心配する必要はないって、何回言ったっけ?」

 そもそも金が無いのはハーツのせいばかりではない。ブラッドも酒にギャンブルに女にと、それなりに遊んで生活している。単なる浪費家なのだ、自分は。そして毎晩キナ臭い事に首を突っ込むような仕事をしているのは、次に起こるだろう戦争への準備期間に、自分にできることがこれしかないからだ。

「まあ心配すんな。ハーちゃんの世話は俺が三十になるまでって元々約束してるんだから、そこは甘えとけ」

「……三十になる頃でも、まだ次の戦争は起こってないと思うよ」

 ハーツが理解に苦しむように眉根を寄せる。理解されなくていいとブラッドは思っているので、乾いた愛想笑いを吐き出すだけに留めた。そんなのれんに腕押しの反応にいよいよハーツも限界を感じたのか、やがてやんわりと切り出した。

「――今週のお茶会は、欠席しようと思うんだ」

 ハーツの言葉の裏にあるものをブラッドはすぐに読み取り、そして声を荒げた。

「あ?変な気を使うな!それで、お前の目的が果たせるのか!?」

「そうじゃないよ。僕は――」

 今、自分は慮られている。それがわかるからこそブラッドは苛立つ。

「まともな親に育てられたガキに囲まれて日和ったのか?そういうのはな、まともな身体に戻ってから言いな!」

 なんて大人げない。自分で言っていて怖気がする。子供のように癇癪を起して、優しくかけられる毛布を無碍に払い除けるように反発する。それも心優しい子供を相手にだ。

 ハーツは目を見開いてブラッドの言葉を耐え切り、僅かに肩を震わせた後に、抑え込むように自分のシャツの胸元を握り締めた。何度も瞬きし、涙を堪えているのが分かる。吸うよりも多く息を吐いて嗚咽を肺の中で押し潰し、数秒かけて自分を整えると、微かに笑った。

「――僕は元々、まともな身体じゃないよ」

 さっさとさっきこの空っぽの頭を撃ち抜いていればよかった。

 自分の愚かさに歯噛みしながら、ブラッドはハーツから目を背けた。いつものように。


 今日はこのクラスになってから最高に珍しいものを目にしている。リブはパックジュースのストローを行儀悪くがじがじと噛みながら、机に突っ伏すハーツを見下ろしていた。昼休みなので誰が何をしようが自由ではあるが、普段周囲に溶け込むように礼儀正しい振る舞いをするハーツがこんな風に崩れているのは珍しい。

「何?こいつ調子悪いの?」

「ぶぶー、大ハズレ!」

「奇跡の爆弾低気圧なのー」

 ラングス姉妹がちょんちょんと指先でハーツの頭を小突くと、顔を上げないまま、まるで羽虫を払うようにあしらわれる。

「ハーツ!?体調でも悪いのか??明日は俺がホストのお茶会だ。お前の好きなブラウニーも用意させたんだぞ」

 学食から戻ってきたフレンテが心配そうにハーツの肩を揺すった。

「しんどいのなら保健室に……」

 ぱしん、と音を立ててフレンテの手が弾かれる。枕にしていた腕の隙間から、見たことも無い剣呑な光を宿した金の瞳が覗いた。思わず皆息を呑む。

「ごめん。大丈夫だから」

 それっきりまた黙るハーツ。これは重症だ。皆顔を見合わせるが、どうすればいいのかわからない。優しく温厚、態度に出るほど彼の機嫌が悪いところなどまだ見たことなかったのだ。ちらちらと視線を送られて、居心地悪そうにハーツが小さく身じろぎした。

「ほっときなさいよ。自分で消化したいから、こんな亀みたいに丸まってるんでしょ」

 ゴーラがぴしゃりと容赦なく言い放つ。

「ハーツも、こんなところでこれ見よがしに突っ伏してないで、もうちょっと裏庭とか空き教室とか、そういう所に逃げ込みなさいよ」

「確かにそうだよな!」

 なぜか返答したのはリブだった。むんずとハーツの腕を掴み、無理矢理彼を立たせる。

「俺、良い場所知ってんだよ」

 ハーツが口を開く間も与えずに、引っ張るように教室から連れ出す。去り際に唖然とする残りの面々にウインクを投げた。

「じゃ、次の授業は体調不良で休んでるってことで!」

「ハーツは信じてもらえると思うけど」

「リブは信じてもらえないでしょー」

 肩を竦めるラングス姉妹。フレンテとリブも苦笑いだ。数席隣で事の成り行きを見ていたイザームは不愉快そうに口を歪めていたが、直ぐにまた本に目を落としていた。

「それにしても、あいつらは仲が良いなぁ」

「特待生の一般市民と成金息子って、ちょっと噛み合わないとすぐ犬猿の仲になりそうなもんなのにね。性格が全然違うのが逆に良かったのかしら」

「最初はリブが舎弟にするつもりかと勘繰っていたが、そんな兆候も無い」

「ある意味浮いてるからー」

「似た者同士でもあるのかもねー」

 午後の授業の担当教師が教室に入ってくる。三人は誰が口火を切ってこの状況を穏便に済ませようかと目配せし合いながら、普段通りを装って席に着いた。

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