第2話 緑蜻蛉

この世界は書類に書かれている文字で判断される。性格も判断材料で、割合では前者の方を重視する方が多いかも知れない。後者だけが良くても社会は受け入れてくれないし、こんな社会にいつからなってしまったのだろうか?私は両者とも良い状態でありたいと願った。その結果、私は輝かしい人生が待っていた。ただ、それは高校の最後の1年間だけだった。今は大学2年生。何もかもが楽しくない。まるで、極夜は1生続く。太陽の様にキラキラとした日々は太陽が出ない真夜中に変わった。輝かしい人生は遥か遠くに行ってしまった。もう戻る事はないかも知れない。私はイタリア会話教室の先生であるお母様、探偵であるお父様で構成された普通の家族。1つ変わっているのは今の私のお父様が2人目である事。私の1人目のお父様は肺がんで亡くなった。たった1瞬の出来事だった。なんの前触れもなく起きた事を私は素直に受け入れる事が出来なかった。その頃は高校2年生でとても泣いた事だけは覚えている。私は1人っ子でお母様の膝にしがみついて泣く事しか出来なかった。お母様は私の髪を撫でてくれた。人間が死ぬ事を知らない幼稚園児の様だった。私の1人目のお父様は自分が肺がんだと知っていた。でも、肺がんの事を家族には伝えなかった。その証拠が、お父様の寝室の引き出しに薬があった事が分かったからだ。お母様である幸子さちこは私を慰める様に言った。

「可愛い娘の事を思って何も言わなかったのよ。今が人生で1番楽しい時期って事をお父様は仕事柄、よく分かってたから」

「私はお父様に何が出来たの?」

「何もしなくても良かったのよ。私や娘に助けを求めたく無かったのよ」

「なんで言ってくれなかったんだろう?」

我が家のルールがある。その名も『芦田家の決まり』。その1、愛する。その2、知らせる。その3、誰とでも。その4、計画を守る。その5、伸び代は自分で決めない。その6、聞く事は恥では無い。その7、真面目に。その8、理解したふりをしない。この1から8のルールの頭文字を取って、『芦田家の決まり』としている。お父様は2と3のルールを破った。このルールは家族みんなで作った物だ。ルールを破ってでも伝えたい事があったとお母様は解釈する。膝にしがみついていて、お母様の顔を見てはいないのだけど、きっと笑顔だと思った。

「どんな親だって、自分の子が健康で生きてるだけで十分よ」

「そうなの。お母様」

「お父様の為にも泣かないで、笑顔で生きて行こう」

「分かりました。お母様」

私の1番目の父は生物の高校教師だった。学年主任になる程、責任感が人1倍あった。それを理由にして、私は高校の3年間を学年委員として過ごした。だから、私はクラス全員の先頭に立って生活した。4月は人々に出会いを与えた。私が3年生になって、とある男子生徒と一緒に学級委員になった。その男子生徒の名は多田野ただの翔太しょうただ。同じ時にお母様は新たな男性と事実結婚をする。事実結婚の理由は私の名字の事を気にしてくれたからだ。そんな新しい家族で笑顔が増えた時、私も嬉しい事があった。それは、多田野君と会話する機会が増えた。私はよく多田野君と呼んでいる。本当は下の名前で言いたいのに、私のプライドが私の発言を制限した。多田野君は社長の息子で仕事も出来て真面目でかっこいい。私も多田野君の様に胸を張って社会に出たい。その事で私の2番目のお父様と話した事がある。

「大学のお金とか高いからアルバイトとかやってみたいの。履歴書にも書く事も出来るから、やって損じゃないと思うの」

「娘はどんな仕事がしたい?」

「楽しく出来る仕事がやりたいわ。友達と一緒に頑張る感じがいい」

「ワシも学生の時にそう思っていた。プライベートの延長上だと考えていた。でも、今は相手が満足する仕事をしたいと思った。例えるなら、背中洗いと同じだ」

「どういう事?」

「もし、誰かに自分の背中を洗ってもらうとして、娘だったら、思いやりがある人間とない人間だったら、どっちの人間に背中洗いをしてもらいたいか?」

「思いやりがある人間がいいわ。痛いのは嫌だからね」

「その通り。でも、洗って欲しいと思っている人間がいっぱいいる。でも、思いやりのある人間だけが沢山いる訳ではない。だから、思いやりのある人間が思いやりのない人間に教える。だから、優先的に思いやりのある人間だけが長く仕事を続ける事が出来る。そんな人だけが仕事を求められる。どんな事でも思いやりがなければ、その人間は必要とされない。思いやりのある背中洗いをする事で相手が幸せになり、自分も幸せになる。それが仕事なんだ。この事を忘れないでくれ」

「お父様の言う事を肝に命じておくわ。思いやりのある人間になりたいから」

多田野君と一緒に働きたい。多田野君は高嶺の花の様な存在だった。私もいろんな花を見て生きて来たけど、彼の様に白や黒のだけの色で表現している花は少ない。派手な色を好まない無彩色な色が私の人生に色を付けてくれた。アルバムはまだ薄いけど、濃い内容だった。だけど、多田野君は私も無彩色にして、いきなり消えた。世界でたった1つの多田野君の色のクレヨンはもう小さくなって、気がつけばもう少なくなっていた。それは大学受験の時、多田野君と同じ大学を受けていた。でも、大学の入学式に多田野君の姿は無かった。クレヨンを入れた容器に多田野君の色のクレヨンはもう無かった。同じ桜を多田野君と一緒に見る事も出来なかった。彼の学力は高校のテストの掲示板によく上位にいた。多田野君に限って落ちるはずが無かった。他に考えられるのは他の大学に行ってしまった可能性がある。私の気持ちはリセットする事が出来ない。高校の卒業アルバムにいた多田野君は遠い存在になってしまった。これからの人生、いくら塗り絵をしたとしても多田野君の色のクレヨンを使わないと満足出来ない。高嶺の花は風に飛ばされて違う場所でまた咲いているだろう。結局、私は多田野君の様になれなくて、多田野君と一緒に働く事は出来なかった。高嶺の花には追い風が吹いているのに、私の花には向かい風が吹いていた。私は多田野君と共に前へ進む事が出来なかった。自然の力に勝る力が無かった。そんな中、私に友達が出来た。田中たなか愛梨あいりとその彼氏の高田たかだたけるだ。愛梨ちゃんはよく一緒にカフェに行ったりする程、仲が良い。高田君は俳優をやっている。今を輝く高田君は忙しくて、私と愛梨ちゃんで遊園地に行った事は何回もあった。その時に撮った写真は自分の部屋に飾っている。ピンクのペンキ塗りされた木製の写真立てが2人の笑顔を引き立てた。でも、全ての写真立てに私と多田野君との2ショット写真は無い。あったのは、卒業アルバムのクラスの集合写真だけだ。


私が愛梨ちゃんと会う回数が多田野君の記録を上回った頃、私と愛梨ちゃんで大学近くのカフェに行った。

「いらっしゃいませ。お客様は何名ですか?」

「2名です」

「奥のテーブルをご利用ください」

窓側の机に2人は腰をかけた。雨が降っていて温かい飲み物が飲みたい。

「今日は何にするの、きさっち?」

愛梨ちゃんは私をきさっちと言う。今の多田野君は私をどう呼んでくれるのだろうか?昔から芦田さんと呼ばれる。いつか、願いが叶うのであれば、下の名前で呼んで欲しい。

「カフェラテにするわ」

「いつもカフェラテだね。ここのお店のカフェラテは美味しいの?」

「どこの店もカフェラテは美味しいけど、ここのお店のカフェラテはパンダが描かれているの。特に目と口元が可愛い」

パンダの目は多田野君の目と口元に似ている。くりくりした可愛らしい目やプルプルした唇を想像すると高校の時を思い出す。昔に戻る事が出来るなら、高校の時に戻りたい。

「そうなんだ。私もいつも通り、アップルティーを注文しようかしら」

「今日もアップルティーなんだ」

「実は、青森県出身で、林檎は昔から好きなの」

「青森県って言えば、津軽弁か南部弁とか」

「あまり、そういう話はして欲しくないな」

「分かってる。冗談だよ」

2人は笑い合った。それは、きっと幸せの証だ。多田野君がいなくても幸せだった。でも、細胞は愛を求めていた。そう考えると、愛梨ちゃんはとても幸せだと思った。彼氏もいて、人生も楽しんでいる。苦しい事の方が少ないと思った。愛梨ちゃんは机にある呼び出しボタンを押した。同年代くらいの店員が机に近づく。私はその店員の顔を見た。素の笑顔なのか、作り笑顔なのか分からない。でも、その笑顔は私の心を洗ってくれた。

「ご注文をお伺いします」

「カフェラテとアップルティーを1つずつで」

「かしこまりました。少々お待ちください」

店員は厨房に戻り、店員の掛け声で全てのスタッフが返事をして作業に取り掛かる。

「そういえば、きさっちはピーチジュースって知ってる?」

「ピーチジュースって、飲み物じゃないの?」

「きさっちは知らないの?今流行っている可愛い女子なんだよ。これ見て」

愛梨ちゃんはスマホの画面を見せてくれた。無線のイヤフォンの片方を私に貸してくれた。

〈ピーチジュースチャンネル。今からメイクをしていくよ。今日のメイクのタイトルは彼氏と遊園地と行く時の勝負メイクだよ〉

事細かく化粧をしていく。すっぴんでも可愛いピーチジュースは化粧をする度に、少しずつ大人っぽく仕上がる。かっこいい女性の出来上がりだ。でも、喋り方が幼かった。

〈出来上がり〜。これで恋愛映画の一コマの様な写真が撮れるよ。まったね〜〉

動画が終わると喋り出したのは愛梨ちゃんだった。愛梨ちゃんの目はキラキラしていた。

「超可愛いでしょ。今、化粧品とかのCMまで出ている超有名な子なんだよ」

「そうなんだ。CMは見た事あるけど名前までは知らなかった」

「何が凄いって、メイクの上達法を載せている動画配信者でも、化粧品のCMをしているんだよ。美容業界の歴史を変えたんだよ。凄いんだよ」

「すっぴんの状態も見せて、化粧後の状態も見せるからこそ、その変化が分かる。だから、若いユーザーの心を鷲掴みにしているって事だよね」

「今までの化粧品のCMは従来の化粧品との比較をしていたけど、これを起点に根本的に変える事になるって美容業界が今とても盛り上がっているのよ」

「凄いね。こんな人間の事を革命家っていうのね。そう考えたら、同じ時代に凄い人間と生まれてしまったのね」

「いつの時代だって凄い人間はいるけど、凄い人間の中で凄いの」

「私も凄い人間になれる日が来るのかな?」

愛梨ちゃんは黙り込んで、数秒後に笑った。

「凄い人間にならなくたっていいのよ」

「なんでなの?」

「お待たせ致しました」

横から聞き覚えのある声が聞こえた。私の顔の横からいい香りがする。

「カフェラテとアップルティーをお持ち致しました。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「はい」

「伝票をこちらに置いておきます。ごゆっくりどうぞ」

木製の長方形の机にパンダの目と口元、林檎の香りで可愛い机に変化した。愛梨ちゃんはスマホのカメラを起動させた。撮る事を忘れ欠けていた私もスマホのカメラを起動させた。

「そう言えば、イヤフォン貸してくれてありがとう」

「こちらこそ、いっぱい話して悪かったかな?」

「大丈夫だよ。私も愛梨ちゃんと話せて楽しい。話を戻すけど、凄い人間にならなくていい理由はなんでなの?」

「凄い人間になれなくても、今の人生が楽しければ関係ないでしょ。今もこうして楽しく写真を撮れているし、深く考える必要は無いんじゃない」

ピーチジュースは本当に容姿が恵まれていて、こんな顔になる事が出来るなら、なりたいと思えた。化粧品のCMは可愛い女優やモデルが起用される事が多くて、元々顔が可愛いから化粧をしたら、もっと可愛くなる事は目に見えている。通信販売会社の様に一般人が化粧した事によってどう変化したかを女性は見たいはずだ。でも、私の様な若い女性は可愛い女優やモデルが写っている付加価値が付いた商品が欲しくなる。この商品を買えば、可愛い女優やモデルの様になれると無理やり思っていた。きっと、ピーチジュースと名乗る配信者は化粧の変化を私達に見せる事によって、私の様な要望を持つ人間にも好感を得ようとしていた。この子は何処か多田野君に似ている。2人の共通点は、私の概念を変えた事と顔のパーツだ。そう思うと、2人の顔の区別がつかなくなった。林檎の香りは初恋の人間を思い出した。きっと疲れているのだと思い、スマホをカバンに収めて、顔を両手で叩く。可愛いパンダをキスする様に飲む。甘くて苦い味がした。その味はあの日に似ていた。私が飲み終わると、林檎の香りがしなくなった。2人は笑顔でレジに向かう。会計はそれぞれの料金を払った。愛梨ちゃんとはここで解散し、カフェの玄関に置いていた傘を持って家に帰る。さっきまで梅雨だったのに、今は晴れている。傘を使わないで済むから視界が広がった。葉桜の葉が水滴を弾く。水滴が1滴落ちて地面を見る。その地面にピンク色の葉が1瞬だけ見えた気がした。瞬きを数回繰り返してもう1度見ると水溜りしか見えなかった。私は疲れているのだと思った。家に帰ると、スマホが振動と共に聞き慣れた音で鳴った。私の2番目のお父様からの電話だ。

「もしもし、私だけど」

〈娘よ。いいニュースがある。聞きたいか?〉

「何よ、教えてよ。お父様」

〈高校の時、同じクラスだった多田野翔太って覚えているか?〉

「覚えているに決まってるわ。その多田野君がどうしたの?」

〈私立探偵事務所『ミステーロ』のバイトとして明日面接するのだが、休日で社長にも許可を頂いて、会いに来ていいと言われた。折角だし会ってみるか?〉

「本当…本当に会えるのよね。勿論会うわ。嘘じゃないのよね?」

「本当だ。冗談では無い」

「嬉しい。本当に本当に本当に嬉しい」

無彩色の塗り絵は再び多田野君の色を塗った。嬉しくてハイヒールなのに2回もその場を飛んだ。ハイヒールから部屋用のスリッパに履き替えて、パンダのぬいぐるみをハグして頬擦りをした。自分の部屋に飾っている写真立てを手に持つ。写真立てに入っている写真を7冊目の写真のアルバムに入れて机にしまう。絶対に多田野君との2ショットを自分の部屋に飾りたいと思った。塗り絵に色塗りする作業はもうすぐで終わるだろう。とても繊細な色で表現出来る日が着々と近づいている。


ワシは書類に書かれている文字で判断していた。性格も判断材料で、なるべく両方を兼ね備えた人間だけを会社に入れた事もある。今思えば、何もかもが発見だと思える人間を会社に入れておくべきだったと思ってしまう。今の時代は調べようと思ったら、すぐ調べれる。発見した時の感動が薄く、苦労して物事をした経験が無い若者が増え過ぎた。ワシも今の若者と同じ事があった。俺も適当に学生時代を生きてきた。今のゆとり教育とは違って、先生が殴っても蹴っても許される時代だった。こんな俺は、先生に迷惑を掛けない様に生活した。そんな生活だったから、目標も何も無かった。大人になっても目の前の仕事に明け暮れる日々だった。そんな毎日だったが、ある日、生活が大きく変わった事があった。それは、事実結婚をした事だ。誰かの為に仕事が出来る。これ以上に嬉しい事は無い。他に望む物はもう無くなった。事実結婚の相手の結婚する前の名前は伊藤いとう幸子さちこ、今の名前は芦田幸子だ。妻と元夫との間に生まれた娘が1人いる。その娘の名前は芦田きさだ。芦田幸子の元夫の芦田博之は肺がんで死んだ。妻の意見は娘が学校に色々影響したくないからと、名字を変えない方法を選んだ。死別の場合は旧姓を戻す必要は無い。だか、結婚するとなると名字が変える手続きが面倒だ。だから、事実結婚という選択肢を選んだ。3人が1つ屋根の下で生活した。高校生だった娘に何処の馬の骨かも分からない人間を自分の家の中で一緒に生活した事は今でも申し訳ないと思っている。でも、娘は無事に第一志望の大学に合格する事が出来た。今、娘はマンションに引っ越して1人暮らしをしている。妻はイタリアがとても好きでイタリア会話を教えている。俺は私立探偵事務所で働いていて、一時的に人が余りにも来ない時期があった。そんな時に妻はワシや会社を支えてくれた。

「こんな固い感じの名前じゃ、だ〜れも来ないわよ」

その時、社長の名前の私立探偵事務所だったが、社長とワシと仲が良かったから私立探偵事務所の名前も「ミステーロ」に変更した。ミステーロはイタリア語で訳すと謎という意味らしい。この変更により女性のクライアントが増えた。ワシの父親歴はたった3年で、女性の事は分からない。妻との馴れ初めは探偵の仕事で事情聴取する時にたまたま出会い、一目惚れした事だ。この歳になってもお洒落を辞めない姿を私は学んだ。この歳になるといろんな部分が衰える。それに抗う女性の姿はかっこ良かった。あの頃は3人で朝食を食べていて、その時も娘はよそよそしかった。娘に話かけても良かったが、あともう少しで娘はこの家を離れる。こんな父親が無理に話す必要は無いと思った。

「多田野君と一緒だから、早く大学に行きたいな」

「その多田野はどんな人間なんだ?」

「全てが完璧な人」

「愛されたいなら、頑張るしか無いわ。愛する人の為なら、どんな事だって出来るはずよ」

「恋人って事なのか?」

娘は顔を赤くした。目線が色っぽくなった。娘の声に多田野君という人物が出てきた。愛する人間と共に受験した事が分かった。だからこそ、2人の時間を奪わない様にと、これといって関わらなかった。いや、関わる事が出来なかったのかも知れない。そして、衝撃の声が聞こえた。

〈多田野君がいない〉

考えられるのは、大学受験に落ちたか。又は、別の大学に行ったかだ。娘はあの日から元気は無い。あの日から、娘といろんな事に関わったが何もしてあげれなかった。でも、今日は違う。急いで支度して車に入る。娘はいつも助手席に座る。乗りやすい様に工夫してマンションの駐車場に停めた。娘が近づいて車に乗る。2人はシートベルトを締めると運転手はアクセルを踏んだ。今から行く場所は、仕事の為の場所では無く、娘の願いを叶える為の場所だ。葉桜がもう1度蕾になる様な奇跡だ。この奇跡を無駄には出来ない。

「明日は同じ高校の多田野翔太がバイトとして来るんだ。明日の9時に面接をして、その後は隣の会議室で娘と多田野翔太が接触する。後は、好きにしてくれ」

「嬉しい。ありがとう。私立探偵事務所『ミステーロ』に着いてから明日の内容を言うわ」

「これは娘にとって本当に嬉しい事でいいのか?」

「勿論よ。今まで会いたくても会えない。多田野君に会えるだけで私は幸せなの」

娘の気分を上げる為にCDを聞く事にした。この曲はイタリアの曲で、その中身は『私の愛しき人間に、私を信じて欲しい。君なしでは私の心がしぼんでしまって、忠実な私は溜め息ばかりついてしまう。こんな酷い仕打ちはもう懲り懲り』という意味だ。その中身をを娘に伝える。娘は目を何度も閉じた。広角が上がる。娘は無言だったが、笑顔になった事がワシに伝わった。

「素敵な音楽だわ。聞かしてくれてありがとう」

「褒めるんだったら妻を褒めてくれ。曲を選ぶセンスがある」

ワシの車は私立探偵事務所『ミステーロ』に着いた。シャッターを開いて車を直進して停める。2人は2階に上がった。ワシが先頭に扉を開ける。オフィスが1面に広がっていた。スタッフ全員が立つ。

「こんにちわ」

「ああ、こんにちわ。こちらがワシの娘だ」

「芦田きさです。ご迷惑お掛けしますがよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

スタッフ全員は1礼してから座る。そして、スタッフ全員は仕事に戻った。ワシは娘を連れて会議室に入る。

「さっきも言った通り、ここで明日の9時に面接をする。その後は隣の会議室に娘がいて、多田野翔太が後から入ってくる。後は何か考えてきたか」

「紙に書いてきたの」

その紙には事細かく書いてあった。あの短い時間でここまで出来るなんて思っていなかった。それ程、多田野翔太への愛で溢れていた。

「ストーカーに追われる依頼者としてここに入っておく。探偵に頼む内容は良いとして、そのストーカー役の人間はいるのか?」

「高田君がいるの。高田君は俳優をやっていて、今はオフの時らしくて、ここ1週間は休みらしいの」

「なる程、それはいい。他も悪い点は無いな。これでやろう」

「分かりました。お父様」

「でも、1つ気をつけて欲しい事がある。多田野翔太は勘がいい人間なのかも知れない。ワシと娘の1つ1つの会話も凄く読み取るだろう。これが芝居だとバレたらそこで終わりだ。バレずに突き通していかなければならない。その覚悟はあるのか?」

「ええ、多田野君には上手くやってみせますわ」

こうして明日の大事な日の為に会議を終えた。ワシの車に娘と入った。

「スーツを買わないか?派手な服で行くとストーカーに追われている事と矛盾が生じる。そして、スーツが似合う人間はお嫁にしたいと男は思うからな」

「はい。お父様。スーツを買いに行きましょう」

今の位置から近い洋服屋に行く。店内の端から端までスーツが置いている。男性物のスーツと女性物のスーツを着たマネキン達と店員が出迎えてくれた。何が良いかサッパリ分からないから、店員に全てお任せした。素人が出る幕ではない。

「このサイズでいいと思いますけど、どうしますか?」

「お父様、どうです?」

「これでいい」

「靴はどうされますか?」

「履きやすそうな物を持って来てくれ」

「凄い。キツくも無いし、かばかばでも無い」

「では、それも買おう」

今、人気なスーツを買った。よく見たら、出迎えてくれたマネキン達が着ていたのと一緒だった。洋服屋を出て、左の腕時計を見る。夜の6時で、そろそろお腹が空いた状態な頃だ。

「何処かで食べましょうよ」

「そうしよう。娘よ、何が食べたい?」

「カツ丼かな」

「昔からよく食るよな」

「夜暴れそうだから、お腹をいっぱいにしたい」

「怪我はするなよ。骨折姿で多田野翔太に会いたく無いだろ。ワシは海鮮丼にする。最近は脂の多い食べ物を食べると胸焼けして苦しい」

昔の娘だったら、妻にしがみついて泣いていただけだろう。俺より娘の方が妻に抱かれた回数は多いと思う。赤ん坊の時からを考えれば、当たり前なのかもしれない。ワシは父親であるのに娘の赤ん坊の時の事を俺は知らない。あの日も確かそうだった。ワシの親父は漁師だった。母親は料理が得意だったから、料理屋で働いていた。親父が漁で取ってきた魚を母親が裁く事もあった。2人は本当に幸せだった。ワシも漁師になりたかった。体を鍛えてたくて中学校では陸上部に入った。中学2年生のある日の朝、快晴な空だった。親父は少し長い漁に出て行った。翌日、歴史的な大雨になる程の悪天候に見舞われた。この時代の天気予報は外れる事の方が多かった。帰ると約束した時間に親父は帰ってこない。後から分かった事だが、漁船は漁の目的地の海底に沈んでいた。船の近くにあったのは、複数の人骨だった。しかし、小船は沈んでなかった。ワシは何も知らない状態で親父を送り出した。それが分かった母親は崖から飛び込んで、父親が眠る青い世界に行った。1人っ子だった私は、祖父と祖母に預けられた。社会人になると、第2の保護者達は瞼を開かなくなった。本当に1人っ子になった。周りが結婚するが、ワシは結婚しようとは思わない。結婚する事は、最終的には命の失う所を見られるか見る事になる。もう何も失いたくない。そうするには何も得なければ失わない事に気がついた。でも、何故か時々魚を食べたくなる。魚を食べれば幸せになれると思った。あの日の笑顔がもう肉眼では見れない。でも、瞼の裏では見える。どんな記憶や記録よりも自分の舌があの日々を覚えているからだ。


近くの飲食店でに2人は入る。

「いらっしゃいませ。2名様でしょうか」

「ああ、そうだ」

「おタバコは吸われますか?」

「いや、吸わない」

「こちらの席にお掛けください」

また私と同じくらいの年齢の女性が案内してくれた。私達はただ背後について行く事しか出来なかった。私のアルバイトはスーパーの品出しだ。こんなにお客様の近くで接する事が怖かった。今の時代は全ての物が評価される。少しでもミスしてしまうと考えるだけで過呼吸になりそうだ。スーパーの品出しだって簡単でない。でも、人と関わる事が多ければ多い程、心配事が増える。SNSが私達を怯えさせた。でも、この仕事はお客様の喜びをより感じる事が出来る。この仕事もやってみたいと思えた。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「もう決まっている」

「ご注文をお伺いします」

「カツ丼の並と海鮮丼の並を1つずつ、以上だ」

「分かりました。当店、お水はセリフサービスとなっております。入り口付近にございますのでご利用ください。では、少々お待ち下さい」

「お水、私がやるよ」

「ありがとう。娘よ」

カツ丼は私の人生を支えてくれた。私が義務教育を受けていた時代、両親が働いていたから、夜は1人外食をする事もあった。近くに飲食店があったが、比較的安くてボリュームもあるカツ丼をよく食べていた。他にもいろんな物を食べたかった。でも、働いている両親の姿を想像すると、他の物を食べる気にはならなかった。いくら同じ歳の人間が隣で私の食べたい物を食べていても、私は揺らがないだろう。寂しい夜でも熱々のカツを食べれば、心は満たされた。今では、自分で働く様になって、自分の食べたい物を食べれる様になった。でも、今日はカツ丼を食べたくなった。カツ丼は私の昔からの相棒だったからだ。

「お水持ってきたよ」

「助かる」

「明日が楽しみ」

私が無意識に水を飲んでしまう。気がつけば、もう水が入っていなかった。

「もう1回注いでくる」

「どうぞ」

私はもう1度水を注いだ。又、コップを持って机に戻る。

「なんか疲れた」

「疲れるって大切な事だな」

「どういう事?」

「疲れる程、熱心である事の証明になる。その気持ちに偽りはないんだ」

「本当の愛って事」

「まあ、そうなるな」

私の顔が赤くなる。コップを手で握って、冷たい血液を体の中心に戻す。

「お待たせ致しました。カツ丼の並と海鮮丼の並です。ご注文は以上でしょうか?」

「ああ、以上だ」

2人はレンゲを使って食べ始めた。このテーブル席には咀嚼音しか聞こえる程喋らない。店内のBGMは今期のドラマの曲だ。私の2番目のお父様は最近は脂の多い食べ物を食べると胸焼けして苦しいらしい。海鮮丼が美味しいのからなのか笑顔だった。温かいカツとご飯が私の体を温める。並の量だから苦しまずに済んだ。2人は腹一杯になってそれぞれの家に帰った。早く多田野君に会いたいから、早くシャワーを浴びてお風呂場から出た。パジャマに着替えると直ぐに歯磨きをした。時間を早める為に、直ぐにベットで体を横にした。そして、睡眠音楽を携帯を充電しながら流して寝た。今までに早く寝ようと思った事はなかった。その理由は、夢を見る事が怖かったからだ。


高校の時に窓を見るといつも晴れていた。不思議だけどその時はそんな事に気がつかなかった。この地に雨が降る事はもうないだろうと思っていた。水不足なのに私は満たされていた。高校の窓はやがて大学の窓に変わる。雨が強くて、外の景色を見る事が出来ない。この地は雨で洪水警報が出ている。島にいた私に逃げる場所はない。車で遠い場所に行く事も出来ない。船や飛行機も悪天候で使えない。私は死を待つ事しか出来なかった。島の面積は狭くなる。やがて、水は私の膝まで増えていた。歩くだけで体が疲れる。水は胸の位置まで上昇する。私は現実に抗う事をやめた。水が口を覆い、鼻に近づく。洪水に浮いていた木の板や窓は水の流れには逆らえない状況だった。やがて、私も浮きながら動かない死人になってしまう。恐怖で倒れてしまった。目の前に水が広がる。そして、目を閉じた。


この夢を見て、体が勝手に起き上がる。背中がベットから90度離れた。私はため息をつく。いつもこの夢を見る。悪夢は私にまとわりつく。もうこの夢を見るのは辛い。この夢を見る事を避ける為に寝なかった日もあった。同じ大学の心理学を学んでいる生徒に聞いた事もあった。図書館で夢について調べた事もあった。でも、不安を無くなる事でしか解決する方法はないらしい。借金の問題を解決する方法はお金で解決するしかないと言われているのと同じ気がした。そんな事は誰にでも分かる。確かにそうするしかない。でも、今はもう出来ないかもしれない。これはずっと私にまとわりつく。死ぬまでずっと続く。その呪縛を解いたのは多田野君だった。その夢の原因は多田野君で、その夢を治す方法も多田野君に出会う事だ。今日は悪夢を見なくて済むと思う。どんな事があっても多田野君なら助けてくれる。

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