第29話 あの人を飛び越えてもいいですか?

 一花のいない部屋は風邪をひきそうなほど寒々しくて、子犬のように温かくてやわらかい彼女を思い出さないわけにはいかなかった。一花のいない場所は、いたときよりもその存在が大きかった。




 雨が降っていた。

 12月の雨は凍るように冷たく、傘の外側をすっかりずぶ濡れにした。僕は相も変わらず、図書館前に立っていた。こうなってみると僕は思っていた以上に女々しくて、会えもしないのに学内のどこを通っても彼女を目で探した。その欠片だけでもいいから目の中に入れたかった。

 一花と別れた夜、澪にメッセージを送った。指先が変に冷えていた。暖房がいつの間にか切れていたのかもしれない。そのメッセージには、一花と本当に別れたということ、澪と今度こそ向き合いたいということを簡単な言葉で綴った。返事は来なかった。返事が来ないことを確認するのに十分な時間が過ぎると、一人で布団にくるまった。

 女々しくはあってもそれほどバカではない僕は現実を受け入れ始めていた。夏休み、澪は田代と別れたくなかったんだと言った。僕という障害が無くなった今、二人は上手く行っているんだろうか。

 それでも僕は自分の気持ちに決着をつけなければいけなかった。例え傷ついても。




「何してるんですか、こんな雨の日に」

 聞き覚えのある声に振り向けずにいると、彼女はおもむろにカバンから何かを取り出して、僕の肩を軽く叩き始めた。

「とりあえず、中に入りましょう? ……こんなこと、前にもありましたね。ビニール傘もそのままだし。わたしにあの時貸してくれた大きな傘、失くしちゃったんですか?」

 振り向かずにエントランスに足を運んだ。すぐ後ろを彼女が着いてくる。

 ガラス越しに彼女のシルエットが映る。さっとスライドドアが開いて、彼女が傘を畳んで傘立てに掛ける。僕も彼女の目に促されて、同じように傘を掛ける。ひとつひとつの動作がまるでコマ送りで再生されているかのようだった。

「……いつも本当に待ってるから、なかなか図書館に入れなくて困ってたんですよ」

「来てたの?」

「最低限の用がある時には。でも、丞がいると入るに入れなくて。昨日まではいない時を見計らうのが大変で」

 彼女が苦笑した。顔が少し上向きになって、しっとりした髪の中からダークブラウンの瞳が垣間見える。僕のよく知った彼女だった。

 彼女はいつかのあの日のように、僕の雨に濡れてしまった肩をタオルで拭いてくれた。そうして、僕の腕に手をかけたまま、ふっと、まつ毛を伏せた。

「逃げ回ったりしてごめんなさい。ちゃんと話し合わなきゃいけなかったのに、きちんと丞を見られなかった……。今日、見かけたら絶対に声をかけようって決めて。それで、いてくれてよかった……。雨降りだから会えないかと思ってた」

「雨なんて関係ないよ。図書館じゃなかったら抱きしめてた」

「まだ何も話を聞いてないのに」

「どんな話だって構わないよ。大切なのは自分の気持ちだけだから」

 僕たちは時間が止まったかのように見つめ合っていたけれど、雨の日の図書館のざわめきにふと意識が戻って澪の手を引いた。

「出よう」

 まだ乾ききっていない服のまま、図書館を後にした。




 久しぶりに寄った「サウザンドリーフ」は、よく知った店のようでまるで僕らなんか知らないという顔をしているようにも見えた。僕たちは席に着いてそれぞれホットドリンクを頼んだ。窓の外はさながら魚たちが泳ぐ水槽の中のようだった。

「ずっと連絡にも返事しなくて、怒ってますよね?」

「いいよ、過ぎたことだから」

「……良くないですよ。わたし、意地悪だったと思うから」

 近くに澪がいる。それだけで堪らなくなって、彼女が誰のものかなんてどうでもよくなって、そっと彼女の頬に手が伸びる。その僕の手を不思議そうに見ていた彼女は、逃げることなくそこにいた。

「そういうことするから、いつも期待しちゃう。物事が全部上手くいくんじゃないかって」

「ダメなの?」

「だって、期待って裏切られるでしょう? それで悲しくなるのはイヤかな……」

「期待していいよ、もう悲しませないから」

 彼女の冷たい手がそっと僕の手を捕らえて、そうして僕の手は持ち主のところに返された。澪は黙り込んで俯いていた。いつものように耳に髪をかけても、その暗い表情は変わっていなかった。

「何が正しいのか、何から話したらいいのかわからない……。一花さん、すごく泣いてたって遼くんに聞きました。遼くん、一花さんの相談にずっと乗っていて、その詳しい話をわたし、一言一句余すところなく何度も聞きました。一花さんがどんな風に傷ついて、どんな風に悲しんでいるのか。それを聞いて、やっぱりわたしなんかが丞と一緒にいるのは間違いなんだってすごく思った。丞とつき合っていてうれしいことがあった分、一花さんが傷ついてるんだとしたら、一花さんはやっぱり丞の元に帰るべきだと思った。わたしのことなんて待っていても何もいいことはないですよ。丞にとって大切にすべきなのはやっぱり一花さんじゃないんですか?」

「どうして僕の大切な人を勝手に決めるの? 僕にとって一花が一番大切なら、こんな雨の中、来るかわからない澪を待ったりしないよ」

 小さなため息を、澪はこぼした。まるで聞き分けのない子供を見るような目をして。

「……そんなこと言って期待させないで。夏休みにあんなに偶然会ったりしなければ、まだ引き返せたのに。言いたかったのは……。ごめんなさい、真っ直ぐにいつも言葉にできなくて」

 彼女はハンカチを急いでカバンから取り出すと、目の縁を拭いて、それを強く握りしめた。

「わたし、どうしたら上手く行くのか、すごく悩んだんです。わたしが丞と出会わなければ、一花さんと丞の仲は壊れなかったでしょう? 後から来たわたしが悪いんだって……だから遼くんと一緒にいるのが一番いいんだってそう言われたし、丞のこともきっと忘れられるってわたしもそう思って」

 彼女は涙を拭くことができても、嗚咽を止めることはできなかった。僕は彼女の手を固く握った。澪はいつかのように、怖々と指を絡めてきた。

「それなのに遼くんの彼女、わたしより先にいたんです。地元の、高校生の時からつき合ってる人がいるって……彼女との電話の後、聞き出しました。笑っちゃうでしょう? それがみんなを傷つけない最善策だと思って一生懸命好きになろうと思ってたのに。……夏休みに、遼くんの言うように彼を待っていたのは、会ってくれない人にそばにいてほしかったから。寂しくて……。けど、丞から見たら取ってつけたような言い訳ですよね?あんな風に別れてもいいんだって繰り返しておいて、遼くんがいなくて寂しかったとか虫がいい……。疑われても、嫌われても仕方ないの」

「どうしてそんなに悲観的なの? もし澪にとって何とかしないといけないことがあるなら、僕が手伝うよ。澪はもっと自分のためにワガママを言った方がいいよ。少なくとも僕は、澪のワガママを聞きたい」

「……わたし、すごいワガママですよ」

「全部言いなよ」

「キリがないですよ」

「いいよ」

「――好きです。初めて会った時から。いろんなことがあったけど、一花さんのこと、傷つけることになっても飛び越えていいですか?」

彼女の化粧が崩れるとか、そんなことはその時気にしなくて、僕は手を出して彼女のこぼれ落ちる涙を拭った。彼女は僕の返事を待たずに耳元に唇を寄せるとこう言った。

「いつかのマフィン、食べたくなっちゃった。一緒に食べませんか」

と。それは小さな、小さな澪のワガママだった。






 二つの傘を並べて、手を繋ぎながら歩いて行く。

 道すがら、ぽつりぽつりと会わなかった間のことを話した。面白い話ではなかった。話す方も、聞く方もむしろ不愉快ですらあった。なんてことはない、お互い違う相手と会っていた時の話を交換したからだ。

 そうしているうちに暖房も入ってない僕の部屋に着いた。


「寒くない?」

「少し」

「タオル、出すよ。髪はこっちで乾かせるから」

 とりあえず温かい飲み物でも、と途中のコンビニで買ってきたコーヒーをテーブルに出す。ペットボトルを2本並べて、澪には僕のマグカップを渡した。なんだかちょっと不思議ですね、と言いながら、澪がトクトクトクとペットボトルからマグカップにコーヒーを注ぐ。

 ヒーターは部屋をなかなか温めてくれない。

 そっと、逃げられないように背中から澪を抱きしめる。それほど前のことではないはずなのに、懐かしい香りがした。澪の体は緊張していた。僕は彼女の長い髪を首筋に流して、露わになった肌に静かに口づけた。澪がぴくりと動く。手が伸びて、僕の頭を押さえる。

「まだ、何も話し終わってないから」

「いいよ、今二人でいられるだけでそれでいい」

「良くないですよ。うやむやのまま、終わらせないで……」

 彼女の唇を割る。ずっと欲していたものがそこにはあって、僕は止まれそうになかった。澪は少なからず抵抗した。拒まれていると解釈すべきなのかもしれないけれど、どちらでも構わないようにも思えた。

 足りなかった。その分、彼女を欲した。

「ちょっと待って。話をしに来たの。そういうつもりじゃなくて」

「目の前にいるのに抱かないなんて無理だよ。ずっと待ってた」

「それでも待って」

「何を待つの?」

 諦めて彼女を離す。冷め始めたコーヒーをボトルから飲む。澪は乱れた髪を軽く直していた。

「一花さんとは本当にもう別れてしまっていいんですか? 一花さんはまだやり直せるのを待ってます。くどいと思うけど、確認させて」

「澪、よく聞いて。僕は一花がずっと好きだった。そんなの嘘みたいだと自分でも思うけど、澪に会って本当の相手が誰なのかわかったんだ。目が離せなくて……。あの日、初めて澪を見た日から気持ちは変わらない。澪と田代が仲良く歩いてるのを何度見ても、それでも気持ちは変わらないんだよ。悔しくて情けなかった。でも、そういう気持ちが好きってことじゃないの? 違うとわかってる誰かの気持ちに寄り添うことが求められているの? じゃあ、自分の気持ちは圧し殺すためだけにあるってこと?」

「……。わたしと遼くんが歩いてるの、見たんですね? 遼くんといて、中には楽しいこともあったんですよ。彼、わたしをいつも笑わせてくれたし……意外ですか? 遼くんがどうしていつまでもわたしと別れないのかわからなかったけど、その分、やさしくはしてくれたんです。他の女の子とも少なくともわたしから見える範囲内では会わずにいてくれて」

「田代が好き?」

「そう思うこともあったの。じゃなきゃつき合ったりしなかったし。でも……一花さんがいるからってどんなに思っても、遼くんを選ばなきゃって強く思っても気持ちって思った通りに動かないんですね? 丞が一花さんを好きなように、わたしも遼くんを好きになりたかった。一花さんを傷つけるのが怖くて、丞も傷つけたくなくて、結局、みんな傷つけちゃった。自分の気持ちに嘘をついてもいいことなんて、一つもなかった……。だからもう嘘なんてつかないで、気持ちのまま、許されるなら丞のものでいたい」

 少し長めの前髪の向こうに、僕の好きなダークブラウンの瞳が揺れていた。



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