第14話 縁切り

「やっぱり6月に来ればよかったんじゃないかな。6月は来年もやって来るわけだし」

「そういうふうに言ってると、また6月を逃すんだからいいの」

 僕の彼女は時々、妙なところで意固地になる。明月院の、6月なら薄青の紫陽花で両脇を彩られているはずのなだらかな石段を上りながら、額に汗をにじませた。紫陽花も、他の木々と同じく濃い緑の葉を蓄えていた。

「紫陽花の時期はキレイだけど人が多いの」

「うん、テレビで毎年やってるよね」

「もう、丞ったら! そんなに興味無さそうに言わなくても」

 一花は汗に濡れた僕のTシャツの背中を、バシッと叩いた。僕は「痛いよ」と笑った。濃緑の林は暑ささえなければ清々しいほど生き生きとしていて、新鮮な感動を覚えた。


「ふう、上りきったね」

「お疲れ様。ほら、威勢のいい百日紅さるすべりが迎えてくれたよ」

 一花の指さす方向に目をやると、そこにはピンクの花をつけた百日紅が暑さに負けず凛として花を咲かせていた。セミの声が遠くなる……。艶のあるうねった幹に生命力を感じる。

「はー、疲れた。この暑さだもの」

「一花だって暑いでしょ?」

「それはね。でも、この石段を君と上りたかったし……」

 一花のロマンティックな顔に、僕はそそられる。

「そんなふうに他の寺の石段も上らせる気だね?」

「バレたか……。でも、君と鎌倉に来たかったのは本当なんだよ」

「知ってる。今度は涼しい時にね」

 彼女の顔を見ると、ほんのり赤く頬を染めてこくんと頷いた。日焼けのせいかもしれなかった。麦わら帽子のツバが彼女の頬に影を落とす。今度、というのはたまらなく甘美な響きだった。




 ゴトンという音がして、自販機からイオン飲料のペットボトルを取り出す。2本買って、1本を一花に渡す。汗まみれの体に、冷えたペットボトルがすでに冷たい。体の中にも冷たい液体を注ぎ込んで暑さを凌ぐ。

「僕たち、変人じゃないかな?」

「なんで? そんなことないよ。それより、まだ来たばかりじゃない? そんなんじゃ丞、この後、続かないよ」

 いつになくピシャリと言われて、笑うしかなくなる。彼女のタフさに感心する。この小さな体のどこにそんなエネルギーがあるんだか。


「……本当はね、明月院の前に『東慶寺』って有名なお寺があるの。縁結びでも有名なんだけどね」

「うん」

「元は縁切寺なの……。悪縁を絶って良縁を結ぶらしいんだけど、それでも縁切寺には近づきたくないっていうか……」

「一花、荷物、代わりに持とうか?」

 え、と彼女は小さく言って、僕は彼女が肩に背負っていた小ぶりのリュックを取り上げた。戸惑った顔のまま、一花は固まっていた。何もそんなに気にする必要はないのに、とそう思った。

「縁切寺は必要ないよ。一花の言う通りだと思うし、僕は不信心だから寄るところが少ない方がいいと思ってるし」

「もう! 真剣な話してるのに」

「僕も真剣だよ。一花と僕の生命がかかってるからね」

 くるくるとまたボトルキャップを回して、その透明な液体を体に取り込んだ。

 ――悪縁は断ち切って。一花はこの時、僕を縁切寺に連れていくべきだったかもしれない、と思ったのはそれからそう遠くない未来だった。




 その後僕らは鎌倉駅方面に真っ直ぐ21号線に沿って歩き、円応寺で閻魔様の笑顔を見てこれまでの悪行を反省し、長い坂を下って鎌倉駅方面へ歩いて行った。ペットボトルは1本では済まなかった。

 小町通りまで出ると、僕たちは休憩も兼ねて少し遅れた食事を取り、一花の目的地だった鶴岡八幡宮の赤い大鳥居をくぐった。

 鶴岡八幡宮は鎌倉駅からすぐのところにあり、ここが目的地ならこの駅で降りればよかったんじゃないかと僕に思わせた。大きな鳥居は、いつぞやテレビで見た通りプレッシャーのかかる大きさだった。

 大鳥居をくぐると、一花は真っ直ぐ本殿には向かわず、右の方に歩いて行った。源平池という名の小さな池に、弁財天が祀られている。弁財天と言えば芸事の神様なのに、と不思議に思っていると、一花は社の向こうに歩いて行く。そこには、大きな石が祀られていた。

「これ、北条政子由来の石なの。縁結びの石だから、拝んでいこうと思って。……知ってるよね、北条政子」

「ああ、源頼朝の奥さんだよね?」

「そうそう。旦那さん思いだったんだって。……旦那さんを戦に出すときの気持ちって、どんなんだったんだろうね。わたしには想像もつかないや」

 それだけ言うと一花はそそくさと石に手を合わせた。何かをお願いしている……それはたぶん僕とのことで、その小さな背中を愛おしく見つめて、自分も手を合わせる。この石にそんな力があるのか知らないけど、一花の信じるものを信じるべきなんじゃないかと思う。


「お守り、買ってこ?」

 軽く手を合わせた僕のTシャツの右の袖を指でついと引いて、照れくさそうに彼女は歩き出した。ふたりでお揃いの、組紐をきつく結んだお守りを買う。

「これで、縁をぎゅっと結んだからもうきっと離れないね。……何か言ってよ。恥ずかしいんだから」

「いや、僕は一花の願いが叶ってよかったなって思ってるよ」

「そういう願いじゃなくて。もっと長いスパンのお願いだよ」

「わかってるよ、ちゃんと」

 旅の目的を果たし、僕は彼女の麦わら帽子の小さな頭に、ポンと手を乗せた。




 鎌倉駅前でアイスを食べて体内をたっぷり冷やして、気だるい体を引きずるように電車にまた乗った。歩いて来た道を列車は遡り、歩いた時は遠く思えた鎌倉から北鎌倉の駅を易々と追い抜いた。

 ガタンゴトンと一定のリズムを刻む電車の揺れに、空いた席に座った一花は眠そうな目をした。

「わたしだけ座っちゃってごめんね」

「大丈夫だよ。レディーファーストって言うでしょ? それより疲れたんじゃないの?」

「うん、ちょっとだけ」

 たった一日で日焼け止めを塗っていたはずの一花の頬は真っ赤になっていた。日焼けをした二の腕に半袖の生地が擦れて真っ赤になっている。帰ったら、何かをしてあげなくちゃいけない気になる。女の子の脆さを目の当たりにして、僕は軽く動揺した。

「日焼け、真っ赤になっちゃったね」

「ああ、うん、いつもこうなの。去年はインドアだったから知らなかったんだね」

「そのままで大丈夫なの? 冷やす?」

「カラミンローション買って帰ろっかな」

 そんな名前のローションは知らなかったけど、一花が日焼けの対処法を知っていたようでほっとする。

 そのうち、一花はうとうとしかけて、結局そのまま降りる駅まで眠っていた。




 帰る前に、この前、澪と来たカフェ「サウザンドリーフ」で冷たいものを飲む。日焼けした一花の腕に、冷たいアイスコーヒーのカップを僕は押し当てた。

「丞、袖が濡れちゃう。君は驚いたかもしれないけど、わたしは毎年こうなるから大丈夫だよ」

「そんなの信用できない」

「本当に。毎年赤くなって、いつの間にか戻ってて、また夏になると赤くなるの」

「……不思議だね」

「自然の摂理だよ」

 さも当たり前のように一花がそう言うので、信じてもいいような気になる。店を一歩出れば、また蒸し暑い世の中に戻るのかと思うと帰るのが億劫だった。

「一花、何か食べて帰らない?」

「帰ったら素麺茹でてあげる。夜に素麺じゃ足りないかな?」

「足りなくはないけど、疲れたし……」

「君がシャワー浴びてる間に茹でるよ」

 こうなると一花は頑として譲らないので僕が折れるより他はなくなる。そういうわけで、妥協案を提案してみる。

「コンビニで蕎麦とかどう?」

「コンビニ? お昼も外食だったのに?」

「一花に無理させるのがイヤなんだよ」

「……。わかった。じゃあ何か買っていこ? その前に薬局につき合ってね」

 うん、いいよ、と僕は答えた。一花が茹でてくれる素麺がイヤな訳じゃなく、ストッカーに素麺と素麺用の麺つゆが入っていたのを知っていたのにワガママを言ったのは一花に休んでほしいからだった。

 結局のところ、それほどの距離じゃなくても炎天下、長い時間、屋外で過ごすべきじゃないということを思い知った。

 コンビニで一花は冷やし中華を、僕は冷やしたぬきそばを買った。飲み足りなくてイオン飲料も大きなボトルで買う。水分は摂るに越したことはなかった。

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