第5話 人前でヤキモチ

「……ああいう言い方って、やっぱりよくないと思うよ」

 ヤツらが帰ると、一花がやさしくそう言った。その口調は特に責めているわけでもなく、それでいて悪いところは直すべきだと教えているようだった。

「悪かったと思ってるよ」

「じゃあ、指摘しなくてもどの発言かわかってるんだね?」

「ああ」

 ベッドに、彼女に背を向けた姿勢で転がっていると、髪を拭き終えた彼女が僕の隣に座って、「よっこいしょ」と言いながら、決して持ち上がらない僕の頭を膝の上にのせようとした。僕は自発的に頭を動かした。彼女の太股は風呂上がりでしっとりしていた。

「つまらないの? いつもそっぽ向いて話、聞いてる」

「つまらないとかそういうのは」

「別に子供っぽいとは思わないよ。わたしは君が嫌なら今すぐ断ってもいいよ」

 まるっきり子供っぽかった。母親に何かを諭されているような気持ちになった。

「……ヤツらの連絡先、知らないくせに」

「あ」と一花は小さく声に出した。それは今、そのことに気がついてハッとしたという感じではなかった。彼女が次に何を言うのか気になった。

「小野寺くんと、連絡先の交換したの。今回のことがあって」

「なるほど」

「……別にやましい事がある訳じゃないの。たまにメッセージのやり取りをするくらいで」

「なるほど」

 彼女の小さな手は、僕の頭の上で行き場を見失っていた。行き場がなく、立ち止まったままだった。

「ごめんなさい、内緒で」

「別にいいよ、小野寺でしょう? あいつはそういうヤツだし」

「小野寺くんも他意はないんだから、ケンカとかしないで」

「しないよ。気にしなくていいよ。僕に一花を縛り付ける権利はないし」

「ごめんなさい……」と、彼女は項垂れた。髪をしっかりと乾かさないままで、そのまま布団に入った。自然に背中合わせになる。意地でも一花の方を見るもんか、とこっちも意固地になる。

「ねえ」

 背中を軽く揺さぶられる。

「寝ちゃった?」

 寝たふりをしていると、背中で小さなため息が聞こえて眠れなくなる。少しすると、いつも通りの透き通った寝息が聞こえてきて、一花は体を丸くした。






「ごめん、昨日のこと、まだ怒ってる?」

 腕の中で丸くなっていた一花が目を開けると、まず昨日のことを謝った。

「え? ああ……、別にそんなに怒ってないから大丈夫だよ。ごめんね、一瞬、寝ぼけて話に頭がついて行かなくて」

 その額にキスをする。

「……どっちかと言うと」

「言うと?」

 一花は布団に半分顔を埋めて、赤くなっているようだった。

「うれしかった。小野寺くんたちには悪いけど」

「どうして?」

「だって人前でヤキモチやいてくれるタイプじゃないじゃない」

「ヤキモチ?」

「ヤキモチでしょう?」

 布団の中から小動物のように上目遣いで僕を見てきた。その瞳はイタズラをする前の子供のようだった。

「……ヤキモチ」

「面白くなかったんでしょう? いろいろと」

「うん、まぁ、素直に言えば」

 一花はもう顔を布団から出していて、くすくすとうれしそうに笑った。何がそんなにうれしいのか、よくわからなかった。

「わたしはうれしい」






 結局、どうやって断ったのかわからないままにその話は立ち消えとなった。一花はかわいい顔をして、ふふ、と微笑んだ。たまに小野寺と笹塚は「あーあ、つまらない」と嘆いていたけれど、僕はそれには特に反応を示さず、彼らを刺激しないことにした。

 一度だけ小野寺に捕まって学食への道すがら、愚痴をこぼされたことがあるが、要約すると、僕と一花の間柄がうらやましい、というものだった。

「一花のことが好きなのか?」

と聞くと、

「お前、バカじゃねえの? 一花ちゃんは彼氏がいるんだから、好きになっても実りがないじゃん」

と答えた。それは一花本人を本当に好きかどうかとは別の話なんじゃないか、と一日中、そのことでもやもやして家に帰った。

 先に帰っていた一花が「お帰り」と出迎えてくれて、これが「違い」ってやつなのかな、と思う。テーブルの上には少し早い夕飯の支度が進められていて、とりあえずシャワーを使う。




「なぁに? そんなこと聞いたの? 本当に君って面白いなぁ」

 ころころ笑う一花の声に、コロッケを落としそうになる。落ちたパン粉を一花がティッシュでキレイにしてくれる。

「そうだね。小野寺くんはわたしに本気じゃないよ。からかってるだけだよ。そんなことでヤキモチやく必要は無いから安心して」

「彼氏がいるからって理由で諦めるなんて安易じゃない?」

「いいじゃん、簡単で。物事は難しくなくちゃいけないって訳じゃないよ。小野寺くんは、わたしを本気で好きでいてくれているかは別にして、わたしに君がいるから、好きにならないでいてくれてるんでしょう?」

「よくわからないな」

 よくわからなかった。

 一花は子供を見るような目でまた微笑んでいたけれど、まったく他人ひとの気持ちはわからなかった。

 相手に恋人がいるかいないかで、その人を好きだという気持ちをコントロールできるものなんだろうか?

 わからないなりに考えてみたけど、どちらにしてもその答えをいますぐに出さなければいけないという訳でもないので、それ以上は何も考えずに眠ることにした。何かが引っかかったけれど、自分には関係の無いことだとその時はそう思ったからだ。

 一花の小さい手足が、ほんのり熱を放って、布団の中で寒い思いをすることはなかった。






 一花が冬のコートを着て現れた。

 その辺の女の子より、彼女は寒がりだった。

 ヤマネやペンギンの話ばかりするのは、寒いところに住む彼らと自分を重ね合わせているからじゃないかと思うくらいだった。

「家の中だからって半袖のTシャツ1枚でいるのはやめてー」

 彼女は嫌な顔をした。

「これだけ暖房で温まってれば何ともないよ」

「ダメ、視覚的に寒そうだから」

「『視覚的に寒そう』って、面白い表現だね」

 その日のご飯はクリームシチューで、彼女の好きな黄色いコーンがたっぷり入っていた。僕の向かい側でふぅふぅと冷ましながら、猫舌の彼女はシチューを食べた。

「寒い日はシチュー、いいよね。一花が作るシチューは」

「シチューは?」

「……おいしい。体が温まるよ。『視覚的に』温かい」

 それだけでお腹いっぱいという笑顔で彼女は微笑んだ。長い冬が来ても、その厳しさは僕たちには届かなさそうだった。いつでも一花は子猫のように温かだったし、僕の部屋は彼女の笑顔で満たされていた。






 冬休みは母親から暮れ、正月くらいは顔を出すようにとの厳命を受け、部屋を離れることになった。もちろん一花だって条件は同じで、年末年始は家族と過ごすのが当たり前だった。


 何より僕らのしていることは『半同棲』で、『結婚』ではなかった。できたらするのかと言われれば、それは難しい問題だった。

 学生の僕には微小な、アルバイトで稼ぐ収入しかなく、一花を養っていくのに十分とはとても言えなかった。衣食住を自分の手で支えるには、何度考えてもまだ数年はかかりそうだった。就職してすぐに、という訳にも行きそうはなかった。




 そういう事情で離れ離れになる前に、クリスマスはふたりでスケートリンクに遊びに行った。

 たかがスケート、と思っていたけど、リンクの中央には立派なツリーが赤や金色のオーナメントで飾られ、その周りをたくさんの恋人たちが手を繋いで滑っていた。

 スケートをしたのは随分前のことで、今でも滑れるのか甚だ不安が残ったが、まったく経験がないという一花を滑らせるには、まずは自分をのがいちばんだと考えた。

「久しぶりだけど、ちょっと滑ってみるよ」

と言うと、ブレードの分だけ背の高いスケートシューズに不慣れな一花は、不安そうにリンクを見つめた。

 氷の上に立つと思っていた以上の不安定さに一瞬、焦ったが、止まっているよりいっそ滑った方が安定することを思い出してリンクを回る。面白いことにブレーキのかけ方はまだ覚えていて、一花の前で上手いこと止まる。

「ひゃー、君、すごいんだね」

「みんな同じくらい滑ってるだろ?」

 照れくさくなって、一花の毛糸の手袋を手に取る。小さな手が、きゅっと僕の手袋を掴む。

 氷に立った一花はブレードが滑るのを怖がって、いつまでもリンクのへりから離れようとしなかった。僕は「いいから、こっちに体重、移して」と促す。恐る恐る、へりの代わりに僕に体を預けてくる。腕にぎゅっと掴まる彼女の力に負けないうちに、思いっきり手を引いて滑り始める。

「やだ、ねえ、滑ってる。怖いよ」

「滑りに来たんだろ?」

 そう言うと、怖い怖いと言いながらも足を少しずつ動かして、緩やかに僕から離れていった。彼女の顔に喜びが見える頃、すてーんと勢いよく一花は転倒した。

「痛ーい」

 お尻を強かに打ったらしい。一花の履いてきたデニムはびっしょり濡れていたけど、僕たちはそれを予想して着替えを持ってきていたので大事を免れた。

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