拠り所

 文久三年二月四日。

 小石川伝通院内、処静院。

 庄内藩士清河八郎はバリバリの尊王攘夷志士であった。桜田門外の変から幕府への不信感をつのらせ、いまだ言い訳ばかりで攘夷を決行せぬ幕府に対し、ある策を進言した。

 それが此度の浪士組である。

 彼が山岡鉄舟らを通して幕府に急務として進言したのは三策。

 ・攘夷の断行

 ・大赦の発令

 ・天下の英材教育

 である。

 そのため、対外的には京に上洛する将軍警護のため──と称し、幕府の後ろだてを得たうえで、腕の立つ浪士を集めた。

 無論、ここに集められた近藤や歳三たちも『将軍警護のため』という説明を受けたのであった。


「天然理心流?」

「どこぞの田舎剣法だろ――」

 幕府を後ろ楯とする浪士組として集まった者はなんと二百三十四人にものぼった。その人数が集められ、ここに会合の場が開かれたのである。

「あんだァ天然理心流舐めとんかァ」

「左之助、落ち着けよ」

 つい先日仲間になったばかりの原田である。

 ここ最近は原田もすっかり天然理心流道場に居座って、道場の稽古に参加したりタダ飯を食ったり、門人と語らったりタダ飯を食ったり──というような間柄になっていたこともあってか、馬鹿にされるのは我慢ならない。

 ぎりぎりと歯を食いしばる彼を歳三はにやりと笑いながら抑えた。原田は豪気な性格ゆえキレる沸点が低いのだ。

「言いてえやつには言わせとけ」

「けどよ土方さん──」

「どうせあとで痛い目見せてやる」

「…………」

 存外、歳三も子供である。

 藤堂がきょろりと辺りを見回すが、伊庭の姿が見当たらない。

「新八っつぁん、八郎くんは?」

「父親が許さねえんだと。行きたかったけどオイラは江戸で将軍様を守るぜぇ、なんて言ってた」

「ふうん」

 つぶやいた藤堂のうしろで、近藤もうなずく。

「彼は武家だしな。そういう好機にも恵まれているんだろう。山口くんは知っているか?」

「それが見つからなくてよ。風の噂じゃあ人を斬って逃亡中だと」

「人を……」

 ぞくり、と男たちに武者震いが走る。総司はちらりと歳三を見た。

 戦らしい戦など、したことはない。血を見るとは言ってもせいぜいが喧嘩程度であった歳三にとっては、その感覚がどれほどのものかを一度確認してみたい気持ちが胸の奥にうずいている。


「おう、酒だ。酒持ってこい!」

 奥の方で水戸訛りの男が叫んだ。

 巨漢の体を揺らして酒を煽る、笑い声のでかい不気味な男だった。

 周りには談笑する隻眼の男とその他数名が取り囲んでいる。

「なんだありゃ、うるせえな」

「水戸浪士だ。有名どころは芹沢鴨──あの中心にいる目立ったデカブツがそうだろうな」

 永倉が苦笑した。

「…………芹沢」

 歳三はぎろりと芹沢鴨を睨みつけた。

「ずいぶんな御身分だな」

 回りにいる四人ほどの従者らしき者たちに、身の回りの支給をさせている。

「気にするな」

 ぽん、と歳三の肩を叩き近藤は飯に集中する。

「あ、新八っつぁんの魚でけえ。交換」

「チビ助は一番小せえので十分だろう」

「あんただってちいせえ方だろ!」

「てめえ言ってはならぬことを!」

 卑しい戦いを繰り広げる永倉と藤堂は、やがて源三郎によって止められた。


 四日後、二月八日に江戸を発ち、長い長い道程――百三十里を越えて二月二十三日にようやく京へとたどり着いた(その道中に近藤が芹沢一行の宿を取り忘れるというおっちょこちょいぶりも発揮した)。

「あーッまだ腹の虫が収まらねえっ」

「平助、落ち着けよ」

 芹沢の高慢な態度に、藤堂はもはや鯉口をきっている。ふたたびフォローにまわる歳三もどこか浮かない顔をしている。

「俺が粗相をしちまったんだ。仕方あるまいよ」

 近藤はふたりを見てにがっぽく笑った。


 到着して間もなく、壬生郷八木源之丞方への宿営が決定。さあこれから活動がはじまるのだ──とみなが浮き足立っていた当日の深夜のことであった。

 浪士を新徳寺に集めた清河が、彼らにとって思わぬことを公言したのだ。

「この浪士組の本来の目的は、将軍警護ではなく尊王攘夷の先鋒として、活躍いただきたい」

 と。

 この清河の寝返り発言をうけ、賛同した二百数十名は三月十三日、江戸へ出立。京残留を決意したのは、のちの壬生浪士組の名を担うこととなる、近藤と芹沢の両一派だった。


「京都守護職預り壬生浪士組」


 偶然の産物により生まれ出た彼らが、これから先のおよそ六年間で天下に名を知らしめることになろうとは。

 約二ヶ月後、珍妙な身なりの女ふたりと出逢い、心を燃やすことになろうとは。


 きっと彼ら自身とて、予想だにしなかったに違いない──。



 ※

 家茂公は、文久三年三月に上洛。

 それからおよそ一年ほど滞京していたが、元治元年も五月ごろにようやく江戸へ下ることとなった。しかし江戸へ供するのは佐兵衛のみ。平次は現状の時勢も考え合わせたうえでいま少し京に残ることを決めたのであった。

「朝廷の一部の公卿があやしい動きをしているようですな」

「あやしい動き?」

「ええ。いまは京都守護職配下の幕臣が総出で調査中とのことです。土佐勤皇党も動き出していると佐兵衛より報告を得ているゆえ、近々なにかが起こるでしょう」

「────」

 帝は御簾の奥でじっと黙り込んだ。

 その杞憂は、数日後に新選組がひとりの男を捕らえたことにより現実となる。

 そう、桝屋喜右衛門捕縛により露見した、過激派集団のおそろしい計画。それを阻止するために新選組が池田屋へと乗り込み浪士たちを一網打尽にしたのである。


「報告によると、中川宮さまを幽閉したのちに会津候や一橋どのを暗殺、果ては帝を長州へ連れ去るという計画を語ったようです。まったく暴挙もここまでゆくといっそ清々しい」

「────」

 平次の報告を受けた一部の公卿はおののいた。

 そんな大それた計画を立てていたとは。それもこれも、公武合体勢力が強くなっていた朝廷に対して尊王を謳う志士たちの反逆ともとれるものである。

 めずらしく平次もすこし怒っているようで、その険しい表情を隠しもしない。

「よくない。非常によくない」

「本当におそろしい限りやで。なんちゅう蛮行を働かんとしておったんか──過激派もここまできたかっちゅう感じやな」

「そうじゃあねえですよ宮さま。こんな馬鹿げた計画を企てる者たちが、本気で国造りを考えているわきゃァあるめえ。その場その場で、ただおのれの命を賭し、目の前の憎い幕府主力陣を殺しゃァなんとかなると思っていやがる──こんなのは改革でもなんでもねぇ、ただの駄々じゃねえか」

「…………平次」

「尊王倒幕を掲げるなァべつにいい。勝手にせえと言うてやる。しかし命を散らすことこそが美しいものと考える者に、この国を憂う資格などない!」

 平次がこれほど怒りをあらわにすることもめずらしい。

 よほど、帝が危険にさらされる可能性があったことに対して憤りを覚えているのだろう。

 結局この計画は、新選組や会津配下の組織によって未然に食い止められたが、一方で過激派志士の思考や感情がもはやそれほどまで高ぶってきていることも認知させられる事件であった。


 この事件を受けて報復を決意した志士が起こしたのが、およそひと月後に京都御所蛤御門前にて起きた激闘である。

 たったの一日で終結した戦ではあったものの、京市街への被害はすさまじかった。

 激しい残党狩りにより京はたちまち火の海となり、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の間のなんと三分の二がおよそ三日に渡って燃え続けた。

 幕府側は「この責はお前たちにあり」と責任をむりやり押し付けて、尊攘派志士三十三人を斬首した。


 京が焼け野原となり一週間が過ぎた。

「──ああしまった、またダメにした」

 平次はつぶやく。

 扇子の骨組みが一部折れてしまった。

 むかしから怒りを覚えると扇子を握る手に力がこもり、こうしてよく折ってしまうのだ。

 仕方がない、買いに行こう。

 と御所を出る。

 一面焼土と化したこの街の人々が、あちらこちらで嘆きの言葉を口にする。この分では、扇子を売ってくれるなじみの店も焼けてしまったかもしれない──と足早に向かっていたときだった。


「あっ」


 女の声が耳についた。

 ふっと前を見ると、髪色の不思議な女がしゃがみこんでなにかをしている。どうやら鼻緒が切れたようだ。

「もし、大丈夫か」

「あっ──はい、いえ。鼻緒が」

「なぁに。簡単に直せらァ──」

 と屈んで足先に目を凝らす。なるほど、結い紐で補強してやれば歩けるようにはなるだろう。

 平次は懐から紐を取り出して丁寧にむすんでやる。

 その手際の良さにいたく感動したのか、女からは感嘆の声がもれている。

「すみません、助かりました。私こういうの不器用だから──」

「なんのこれしき」

「ありがとうございます」

 鼻緒を結んでやりながら、女の足を見た。先ほどすこし足首を抑えていたようにも見えたが──と思い、「くじいたな、痛むか」と問う。

「え? あ、たぶん大丈夫。いまのところは」

「そうかい、……無理はいかんぜ」

 と言って微笑むと、女も笑顔で「だいじょうぶ」と言った。

「これで歩けよう」

「本当にありがとうございました」

「挫くとあとに響く。いまは平気でも、しばらく足もとには気ィつけな」

「はい」

 女は跳ねるように頭を下げて足早に去って行った。

 おもしろい髪の色をした女がいるものだ、と喉の奥で笑い、平次はふたたび歩みを進めた。

 この出会いを佐兵衛に宛てて文をしたためてやろう──と思いながら。


 ──結局、扇子の店はなんとか戦火を逃れていたようで無事に調達することが出来た。


 ※

 慶応元年閏五月。

 徳川家十四代将軍徳川家茂は、第二次長州征討の趣旨を天皇に奏上するため、上洛することが決定。この時、家茂公は十八歳にまで成長していた。

「和宮、京の土産は何がいい」

 と笑う家茂に和宮は甘えたような顔をして小首を傾げる。

「あなたが持ってきてくださるなら、なんでも」

「そなたは──」

 家茂は、和宮の手を優しく握ってやりながら再び尋ねた。

「本当に何が良い。お前にとって久しぶりの京物だろ、好きな物を言って」

「……では西陣織を」

「西陣織か、わかった」

「無理はなさらないでね」

「うん。帝にお言付けはあるか」

「お身体にお気をつけて、と」

「承った」

 その様子を後ろで微笑まし気に眺めるは、佐兵衛である。

 平次は元治元年の八月ごろに一度江戸へ来たものの、慶応元年に入ると間もなく一足先に京へと上っていった。頻繁に文をしたためて京の情勢を知らせてくれる彼に、江戸の土産話を持ってゆかねば──などと考えながら、佐兵衛は主君と自分の旅支度をととのえる。

 数日後、一行は江戸城を出立した。


 しかし出立した家茂公一行は間もなく、孝明天皇の勅語により出鼻をくじかれた。

「しばらく大坂城に留まり、長州征伐は待て」

 と、天皇が仰せられたのである。

 理由としては、時期尚早であること。

 長州を征伐するための軍備もまだ揃ってはいない上に、いま幕府に味方しようと思う諸藩は少ない。

 だから待て、というのだ。

 そんな勅命を受けたものだから、幕府はこれから先の勅許が出るまでの約一年間、数万という大軍と共に、大坂で待機をするはめになる。


 そして時は慶応二年七月。

 いまだ京へと上洛することすら叶わぬ家茂公は、脚気という病を患ってしまっていた。

 すこし前から症状は出ていたが、この当時は不治の病と言われていたこの脚気。この頃、佐兵衛は焦りや不安から心身ともに疲弊しきっていた。

 京にいる平次のもとへ、主君の病に対して相談した帰りのこと。

 船着場近くにあるうどん屋が目に留まり、佐兵衛は己の空腹を満たすためにすごすごと入店した。

「へい、らっしゃい!」

 店内には、店の主人のほかに女の客がひとり。

 こんな夜も更けた時間にひとりでいるとは、どういう客なんだ──といぶかしみながら、佐兵衛は席について「素うどん」とつぶやいた。腹は減っているが、たらふく食うほどの元気がなかった。

 女は、立っていた腰を再び椅子に沈めて、佐兵衛をじっと見つめてきた。

(なんだ、この女は)

 ただでさえ主君の病が八方塞がりであるいま、なにもかもが煩わしくて佐兵衛は不機嫌な声色でつぶやく。

「──なにか用かい」

 射抜くような目線を女に送った。しかし女はひるむことなくこちらを見つめ返すと、

「素うどんを頼んだから」

 と抜けた答えをよこした。

「…………」

 声にこそ出さないが、佐兵衛のなかは疑心で埋まる。怪訝な顔に気付いたか、女はぱっと笑顔になって手を振った。

「わたしもさっき素うどん食べて──なんか親近感沸いたっていう、ね」

「────」

「まあ、それだけなんですけれど」

 女は器を持ち上げて、続けた。

「出汁がね、美味しいんですよここ」

 佐兵衛はちらりと店の主人に目を向ける。ここは初めてくる店だった。

「ほう」

「召し上がったことは?」

「いや、オレも東国だもんで。初めて」

「も?」

「あんたにゃ訛りがねえだろ」

「ああ──」

「へいおまちっ」

 ちょうどいいタイミングで主人が素うどんを持ってきた。どれ、そんなに言うならば味わってやろう──と佐兵衛が疲れた自分を奮い立たせ、汁を一口飲む。

(ああ、うまい!)

 佐兵衛は唸るように笑った。

 京のそばはもっと薄味で、出汁で食べるような感覚がしてあまり好きではなかった。江戸ッ子が食べるそばはもう少しつゆの味が濃いのである。しかし、この店は出汁の味を生かしながらもしっかりと味があり、飽きない風味に仕上がっている。

「うまい」

 すっかり気に入ってしまった。

 女も嬉しそうに「ほら」とはしゃいでいる。

 佐兵衛はうどんを呑み込んでから、気になっていることを聞いた。

「あんた、女一人でこんな夜分に──うどんを食っていたのか」

「うん、さっきついたんですよ。伏見から淀川くだって、さっき」

「ふうん。宿は」

「隣の旅籠。おっちゃんの口利きで泊めてくれそうだから」

「そうかい。──」

(女のひとり旅か、豪気な女だ)

 と佐兵衛は内心で感心した。

「お兄さんは、こんな夜遅くまでなにしてたんですか」

 女は聞いた。その言葉を受けて、佐兵衛は主人の容態を思い出して気分が暗くなる。

「オレァ、──主人がね。ちと病に臥せっているもんで、その看病をしていたのよ」

「病って、」

「脚気だと」

「────」

 女は口を開けたまま黙り込んだ。しかしまもなくふうむと唸るや、

「玄米、食べないとね」

 と言った。

 佐兵衛はハッと顔をあげて女を見る。

「なに」

「脚気。治すなら栄養とらなくちゃ」

「────」

「豚肉は食べないんでしょ、だから玄米」

(なんだ、どういうことだ──)

 この女は医者か。薬屋なのか。それとも──。

 いやそんなことはどうでもいい。玄米、玄米がきくのか?

 佐兵衛の頭はいっしゅんにして多くのことを考えた。

 続く闇のなかに、一筋の光明が差した気がした。

「玄米ッ、玄米なら──脚気は治るかっ」

「え──ま、毎食一月くらい食べ続けたら、症状は軽くなると思います、けど」

「そう、そうか──玄米。玄米か」

 女は面食らったように佐兵衛を見ている。無理もない、よほどテンションの差が目立つのだろう。しかしそんなことは気にしていられない。確証がなくとも、なにか手立てがあるのならばとにかくやってみたかった。藁をもつかむ想いだったのだ。

 佐兵衛はその後、女とふたたび店で落ち合うことを約し、足早に市街へ駆けた。

 

 翌日、玄米を半月分ほど買い占めた佐兵衛は上機嫌でうどん屋に向かい、女に報告した。

 女は名を三橋綾乃といった。

 彼女は不思議なもので、江戸御庭番家筋である村垣家や佐兵衛の父のことも知っていた。全面的に信頼するのは危険だが、しかし彼女からは敵意も感じない。

 なにより玄米が身体に悪いということもあるまい。

 とにかく佐兵衛は家茂公に対して、ただひたすら玄米を食べるようお願いをするしかできなかった。


 そのまた翌日のことである。

 大阪城に宮中医師団が登城した。

 先日に平次から宮中医師を送る、という話を聞いていたこともあり、佐兵衛は城へ入っていく医師の後ろ姿をじとりと睨みつけながらつぶやいた。

「おい、本当に信用できるのか──あの医者ども」

「そうピリピリするなよ。宮中医師だぜ、間違いねえ」

 同僚の幕臣が、苦笑する。

「────本当かよ」

「大丈夫、大丈夫。お前もたいして休んでないんだろう。すこし寝ろ」

「…………」

 そうだ。昨日は家茂公の具合が心配で、一晩中そばについて看病をしていたのである。連日睡眠がとれていないため、さすがの佐兵衛もおのれの身体がすこしへばっているのを感じていた。

 すこし寝よう──と思った矢先、声をかけられた。

 綾乃であった。

 佐兵衛の胸がすこし軽くなる。なぜなら彼女の助言である玄米によって、家茂公の顔色がすこしずつよくなっているからだ。いまやすっかり彼女を頼もしく感じていた。

「……────、とにかく、明日もまたあのうどん屋で。さすがにオレも今日はすこし寝ようと思う」

「はい」

「じゃあな」

 と言ったとき、彼女の顔がわずかにくもった。

 しかし佐兵衛はとにかく疲れていたので、たいして気にすることなく城内へと戻ることを優先した。


 ──。

 ────。

 翌々日、空がわずかに白みだしたころ。

 佐兵衛は城の周りを散歩していた。昨日は本業である御庭番の仕事に手間取り、約束のうどん屋へ行けなかったな──とぼんやり考えながら、朝日が昇ろうとするのを眺めていた。

 が、ふと見慣れた姿が目の端にうつる。

 綾乃だった。まさか、こんな時間にこんなところにいるなんて。

 佐兵衛は駆けよった。昨日のことも謝らねばと思っていたからだ。

「お前はいつも唐突に居るんだな。昨日は悪かった。公務があって──」

 しかし綾乃はいつもの笑顔ではなかった。

「村垣さんッ、よかった──会えたッ」

 そして彼女は言ったのだ。

 先日の宮中医師を信用するな、薬を飲ませるな──と。 

「ヒ素って毒があるんです。摂取量によっては一回じゃ死なない──だけど、ごく微量でも複数回接種したら、死ぬ薬!」

「…………」

 佐兵衛は、顔から血の気が引くのを感じた。とっさに大坂城を振り仰ぐ。

「今後一切、家茂さんに食べさせるものは村垣さんを通さないとダメですッ。薬は、飲ませるふりをすればいい。玄米で症状は緩和されるんだからっ」

 綾乃は必死の様子で訴えてくる。

(いやしかし平次は宮中医師を送る、と言った。宮中医師がそんなことをするとは──)

 いろいろなことを瞬時に考えた末、むくりと佐兵衛のなかで首をもたげたのは、綾乃に対する不信感だった。

「君はいったい、何者だ。なぜそこまで言い切れる。まさかとはおもうが、薬を飲むなと言って──上様の病を」

 いや。

 ここまで言いながら佐兵衛はおのれを否定していた。

 彼女はそんなことをする奴ではない。彼女と平次は信頼できる。自分の審美眼がそう言っている。謝らなければ、疑ってしまったことを彼女に謝らなければ。

 もはや佐兵衛の心は複雑に混乱し、絡み合って自分でもわからなくなってしまっていた。

 もう、だれを信じたらよいのかわからなくなっていたのだ。

 そのとき、城がざわついているのを感じた佐兵衛が城をあおぐ。

 なにかあった。佐兵衛は、そんな確信を覚えた。


 城内に戻ったとき、場は騒然としていた。

「何事だっ」

 佐兵衛が幕臣を捕まえて尋ねると、家茂公が「腹が痛い」と言い出したという。あわてて部屋に戻ると胸の辺りに紫色の斑点を出して、腹を抑える主がいた。

 

 その夜から朝にかけ、家茂公の容態が急変。

 吐くものがなにもないのに吐き気でえずく家茂の手を、背中を、佐兵衛は必死にさすることしか出来なかった。

 彼がずっと握りしめていた愛妻、和宮への土産である西陣織だけがその場にそぐわぬほど輝いている。

 佐兵衛の心の臓がドクドクと早鐘を打った。

 いやだ。いやだ。いやだ。

「ここで貴方がいなくなっては、」

 いったい誰がこの国を、国の民を守るというのですか。

 と、喉の奥に引っ込んだ言葉の代わりにポロポロと佐兵衛の瞳から零れ落ちる涙が、家茂の手をつたう。

「生きて──」

 生きてくだされ。

 涙声で呟いた村垣の声に、家茂は微かに笑んだ。

 ──ような気がした。

 その笑顔を受けて、佐兵衛の脳裏にこれまで彼のそばで見てきた光景がよぎった。

 わずか幼い齢にして政治のトップ職を授けられた哀れな将軍。心優しくまっすぐで甘いものが大好きだった将軍。

 彼のそばに仕えているとき、自分はこれまでにないほど幸せだった。もっとずっと、そばで彼を守り支えたかった。もっと、もっと──。

 瞬間、握っていた手から力が抜ける。

「あ」

 慌てて強く握るも、もう遅い。

 涙や唾液にまみれた主君の顔は、先ほどとはうって変わって穏やかなものだった。

「────」

 主君の手を頬に当て、佐兵衛は泣いた。

 声は出さずに、しかし涙はとどまることを知らない。

 しとどに流れる涙をぬぐい、佐兵衛は静かに合掌をした。


 京では、秘密裏にその報をいち早く聞きつけた平次が、伏見の船着場から大坂までの早舟に乗り込むべく足早に向かう。

 家茂公の訃報により心をよぎったのは佐兵衛のことであった。

 はやくそばに行ってやらねばなるまい、と思った。

 なぜなら、その気持ちが痛いほどよく分かってしまうからだった。おのれの命よりもよほど大事な主君が死ぬ──これが、どれほど身を裂かれる思いか。

(よもや、後追いなんざつまらねェことは、してくれるなよ──)

 平次は、六時間もの舟旅のあいだ、ずっとそんなことを考えていた。


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