馴初め

 井伊大老から暗殺を仰せつかった佐兵衛だったが、いつだってどこからかあの忌々しい狩衣姿が邪魔をするので、万延元年に入った頃には暗殺任務への情熱もすっかり冷めきっていた。

 一刻も早く江戸へ帰り、家茂公を安心させてやりたい気持ちでいっぱいだったのだ。

 とはいえこれまでの佐兵衛の行動から、尊融法親王周辺も危険と感じたのか大きい動きは控えるようになってきた。

 上出来だろう。

 どうせ彼を殺したところで他の公家が代わりに騒ぎ出すだけなのだ。

 下手に始末するよりも動きを封じることができれば幕府にとってもプラスになる。

「戻るか、江戸へ」

 佐兵衛は簡単な身仕度を終えて京を出立した。


 万延元年三月三日。

 京から江戸までひと月半をかけて佐兵衛はようやく江戸城に帰りついた。

 夕べ遅くから降り積もった雪は江戸城をも真っ白く彩り、その美しさにどこか神韻縹緲とした気持ちにさせられる。きっと家茂公もこの景色を城内から見ていることだろう。

 佐兵衛はわずかに口角をあげて江戸城桜田門方面へ向かおうと足を向けたときであった。

「殺された!」

 突如、耳を疑う言葉が飛んできた。

 周囲に視線を向けると、あちらこちらの幕府役人が一斉に桜田門へと走っていく。

(なんだ)

 と思ったのもつかの間、鼻につく匂いにハッとした。

(血の匂い──)

 殺された。血の匂い。だれが?

 佐兵衛は人の喧騒をたどり、桜田門へと向かう。

 案の定多くの野次馬が集っていたが、佐兵衛は人込みをかき分ける。ぐいと身体を前に進めていったいなにが起きたのかを目視しようと前面に躍り出た。


 ──凄惨。


 その一言だった。

 真っ白く美しかったであろう雪化粧のうえに大量の血液が霧散している。

 ひどく壊された駕籠にも血痕がこびりつき、周囲には下手人と思われる浪人の死骸が複数名転がっている。

 野次馬のうちのひとりがこそりとつぶやいた。

『井伊大老が殺された』

 ──と。

 委細は後日知った。

 登城途中の井伊大老が江戸城桜田門外(現代では警視庁がある側)にて、十八名ほどの水戸・薩摩浪士に襲撃され、斬首されたという。

 これが現代の世にいう『桜田門外の変』である。

 

 その日、家茂公はおよそ半年ぶりの佐兵衛との再会に喜びこそしたが、井伊大老の凶報によるものかひどく顔色が悪かった。

「水戸の過激派浪士が江戸に来たといううわさを聞いていたんだ。……」

 幼い将軍はつぶやく。

 この当時、水戸藩は幕府に勅書返納を命じられていた。

 井伊大老の斡旋により朝廷も「勅書返納するよ」と約束したのだが、水戸藩の藩論は幕府ではなく朝廷に直接返そうということになっていた。これに対して一部の過激派が返納を実力阻止を試みたが、謹慎中の藩主斉昭が「そんなことしたら天皇の詔に背くよ」と説得したことで過激派の者たちは一旦は諦めたのだという。

 これが目的だったんだ、と言った家茂公の顔は怒りと悲しみが混在していた。

「井伊大老が大量処刑を施したあのときから、ずっと首を狙っておったのだ。なにが天誅だ。なにが──…………佐兵衛なら分かるだろう」

「…………」

「彼は良くも悪くも正義を持っていたではないか。それは、もちろん必要のない処罰を受けた者が大勢いることも承知しておる。けれど国を夷狄から守るにおいて、彼の行動は間違っていたとは思えない。余は、彼を悪いとは言い切れない──」

 そして家茂公は井伊大老を偲ぶ涙を流した。

 桜田門外の変にて。

 彦根側は死者が四名にも及び、襲撃側は闘死一名、重傷ののち自殺した者が四名、自訴ののち傷が元で死亡した者が二名、自訴ののち死罪が六名、逃走した者は五名となった。

 この事件により、実権は安藤信正と久世広周という老中に移ることとなる。

 安藤らは公武合体を進めるため、まずは朝廷や尊攘派に顔が利く斉昭の謹慎を解いた。

 つづいて、朝幕関係改善のために必要なことを朝廷側に提案した。それは、お互いの存在を切っても切り捨てられぬような縁を結ぶこと。

 そう、十四代将軍徳川家茂に孝明天皇妹和宮を降嫁させよう、というのである。


「いや──こわい」

 江戸なんて、野蛮人しか住んでいないじゃない。

 和宮はそう言って平次の腕をぽかぽかと叩いた。

 説得をはじめて早ふた月。和宮はいまだに降嫁することを拒絶していた。

「これ、和宮さま。わがままいわんと」

「わたくしは熾仁さまと結婚するはずだったではないですかッ」

「当然、帝は何度も断りましたよ。腹違いの妹御ゆえ勝手なマネはできんとか、和宮が怖がっているとか」

 この数か月、それはそれは孝明天皇も和宮を思って降嫁辞退の旨を幾度も伝えてきた。

 しかしそのたびに幕府はいろいろな理由をつけて和宮を説得してくれ、という書簡を送ってくる。当然、他人事である公卿らは降嫁に反対する者はそれほどおらず、天皇直々に相談を受けた岩倉具視も

「破約攘夷を確約し、鎖国状態に戻すと約するならば降嫁を勅許すべきです」

 と帝に進言した。

 帝も致し方なしと腹を決めて幕府にその旨を返答したのだが、今日になって和宮がとうとう宮中にまであがって縁談を拒絶したのである。

 無理もない。

 いまだ幼い彼女にとって、異人のいるおそろしい土地にたったひとりで放り込まれるなど考えられないことなのだろう。平次は端正な顔をわずかに歪めて彼女の頭を撫でた。

「むこうも必死だ。国のためと向こうが言わはる以上は腹ァ決めたらんと」

「平次はどうせ他人事ですもの。好き勝手なことを言って……」

 と和宮は平次の胸に顔をうずめる。さめざめと涙に暮れるのもこれでふた月だ。

 その背中を優しくさすってやりながら平次はため息交じりに「そんなことはない」とわらう。

「和宮さまが降嫁のため江戸へゆくなら、この平次も当然お供せにゃァなりますまいよ」

「…………ほんとう?」

「もちろん。おひとりで関東になど行かせはしませんとも」

「────」

 そのやり取りを御簾のなかから見ていた兄、孝明天皇は沈んだ声でつぶやいた。

「いい加減におし、和宮」

 その言葉に和宮はハッと顔をあげた。

「どうしてもそちがイヤというのならば、一歳になる余の娘を嫁がせる。それを幕府が断るならば余は天皇の座を譲位をし、おまえも尼とさせる。この件を断ったとしても熾仁親王と縁組することは許さぬ。──みな国のため、覚悟をもって進めた話であることを忘れるな」

「…………」

 和宮は絶句した。

 天皇が譲位をも視野にいれていたなんて。

 和宮の心はぐらりと揺れる。

「御所の女官も東下させる。大奥に入りても御所の流儀のままでよい。それでもイヤか──」

 兄の声はやさしかった。

 和宮は双眸から涙をこぼして平次を見上げる。

 その視線を受けてしずかにうなずいた平次に、和宮は声を詰まらせながら、言った。

「わかり、ました」

 降嫁を承諾します、と。


 ※

 その一報は、すぐに家茂公の耳にも入った。

「噂によれば彼女は泣くほど嫌がっておるそうだな。……可哀想に」

「無理もありますまい。いまだ十四の子どもです」

「私と同い年か」

「どうやら出生日も近いようですよ。もしかしたら気が合うかもしれませんね」

 佐兵衛は微笑んだ。

 この降嫁問題は、幕府の出した「七、八年。長くても十年のうちには攘夷をする!」というその場しのぎの返答により、表向きは無事に結ばれることとなった。

 文久元年十月二十日。

 和宮は一万人の行列をつくりながら京を出立する。


「こいつは、いつぞやの番犬殿」

「ゲッ──」

 佐兵衛は顔をゆがめた。 

 家茂公の命により、道中の和宮の様子を見てこいと言われた佐兵衛は途中の辻で和宮御一行と合流することが出来たのだが。……そこにまさか幾度か刃を交わしたあの男がいたとは。

「なぜ貴様が」

「かわいい妹分が嫁に行くとなりゃ、相手のツラを拝みたいってのが兄心」

「なんという無礼者なんだ貴様、内親王にむかって」

「…………」

 文句を言いかけた佐兵衛を鋭い目で見てから、ゆっくりと平次は駕籠に視線を向ける。

「内親王はずっと泣いている」

「なんだと」

「無理もないがね──しかしこれ以上泣き続けちゃあ目も当てられん顔で上様のもとへ行かねばなるまい。そろそろ泣き止ませにゃ、と半刻ほど前から考えていたんだよ」

「それはそうだ」

 佐兵衛は眉を下げた。とはいえどうしたらいいのかがわからない。

 女に泣かれるのはあまり得意ではないのだ。

 それを悟ったか、平次はちいさく笑んで駕籠を覗き込む。

「内親王。駕籠にずっと入っておるのも窮屈でしょう。どうです、ここらで一度休んでは」


「っ……う、うぅ……」

 外に出てもなお泣き続ける和宮を見て、平次と佐兵衛は眉を下げて近付いた。

 和宮の目や鼻はすっかり赤くなってしまっている。

「和宮様、涙をおふきください」

 佐兵衛は自身の袖で和宮の涙をぬぐった。周りにいた駕籠もちがそれを見て「無礼な──」と声をかけようとしたが、平次はそれを無言のまま制す。

 平次は彼のそういう無駄なところに気を回さないところが気に入っていた。

「…………」

 まさか袖で涙を拭かれるなんて。

 和宮も驚いた顔で佐兵衛を見る。

「村垣佐兵衛と申します。将軍家茂公に仕える者です。内親王をお迎えに参りました」

「まあ──」

「これからの道中は拙者もともに参りますゆえ、どうぞご安心ください」

「和宮さま、この男はこの平次の友人どす。この平次がいないときは佐兵衛をなんなりとこき使うてくださいませ」

「いつから貴様と友になった」

「固ェことは言いっこなしだよ」

「平次ったら、江戸に友人がいたの?」

「おりますとも。これからしばらくは江戸に滞在しますゆえ、もっと増やそうかと」

「即刻帰ってもかまわん。内親王のことは俺にまかせろ」

「またこいつは気を利かしてすぐにこういうことを言うんです。健気でしょう」

「すてき」

「ねえ」

 和宮と平次はにっこりと微笑みあってから、その笑顔を佐兵衛に向ける。

 向けられた佐兵衛は、しかし内親王の笑みを無碍にすることもできず「くそう」とちいさく呟いた。

「では、出発」

 ふたたび行列が動き出す。

 気がつけば和宮もにこにこと笑っている。

 駕籠もちはホッとした顔で、ふたたび和宮をおさめた駕籠を運び出した。

「ああよかった、泣き止んでくれた」

「これで上様とも仲良くしていただければいいのだが」

「なに、心配あるまい。和宮様もあの帝の妹御ゆえ図太く慣れる」

「そういうもんか」

 佐兵衛はホッと息を吐く。

 まったく奇縁だとは思うが、いまだけは平次が和宮についていたことに内心で感謝をした。

「ねえ、ねえ佐兵衛」

 ふいに駕籠の窓から和宮が顔を出した。その顔色はすっかりよくなっている。

「家茂さまってどんなお方?」

「それはもう──誠実でまっすぐでお優しく、甘いものが好きな方です」

「ふうん……」

 和宮は頬をすこし染めてにっこりとわらった。

 どうやらこの降嫁問題が始まってから半年以上経過して、初めて前向きな和宮を見た気がする。こうして和宮の機嫌もだいぶマシになったころ、一行はようやく江戸城へと到着した。


 江戸城につくと、和宮は中へ通されやがて天璋院の前へ挨拶のため通された。

「…………」

 和宮は、天皇の妹である。

 そんな気持ちが和宮の中でぐるぐると渦巻いている。

 それなのに。

「よくぞ参られました、和宮」

 無表情な天璋院は上座。

 かく言う自分は、下座の上に座布団すらなし。

「…………」

 いや、おかしくね?

 私って天皇の妹だよね?

 なんであのババアが上座で私が下座?

 舐めんじゃねえぞこちとら降嫁してやった身だろうが。

 ──と考えたかはわからない。

 プルプルと震えながら、和宮は頭を下げて自己紹介を始めた。

「どうぞ、こちら京のお土産ですわ」

 そして渡したお土産の宛名には、“天璋院へ”。

「…………」

 いや、おかしくね?

 なんで呼び捨て?

 これだからボンボン気取りの嬢ちゃんは嫌いなのよ。

 目上の人に対しての礼儀皆無じゃん。

 この鼻たれ娘、天皇の妹だからってつけあがっていやがる。

 ──と考えたかもわからない。

 天璋院もプルプルと震えながらひきつった笑みを浮かべてそれを受け取った。

 この日を境に、大奥において、京vs江戸両一派のバチバチガチンコバトルが始まるのであった──。


 しかし。

「和宮、長旅ご苦労であったな。徳川家茂と申す。以後、宜しく」

「……和宮です。こちらこそ……」

 優しく微笑む目の前の少年は、なんと物静かで誠実だろうか。

 齢十四という同い年にも関わらず和宮よりもずっと落ち着いているように見える。

「帝の妹君であらせられながら、降嫁を決断されるとは。並大抵の心持ちでは出来ますまい。──有り難う、和宮」

「…………!」

 降嫁が決まってから、兄や公家の者たちは「すまんな」だの「おめでとう」だのとしきりに言ってきたが、感謝の言葉を言ってくれたのは家茂公が初めてであった。

「そんな、とんでもありません……」

「余は、生涯そなたといっしょにいたい。慣れぬ江戸での生活も余が支えてあげるよ。あっ、佐兵衛は知っているね。彼は余の側近だがとてもおもしろい男だよ。いざとなれば遠慮なく頼るといい。とっても頼りになるから。あとはね──」

「…………」

 家茂公も相当緊張しているのだろう、わたわたとせわしなく喋っている姿が可愛くて、和宮はおもわず笑う。

「ふふっ、上様」

「な、なに?」

「ありがとう、ございます」

 にっこり笑った和宮に、家茂公は頬を染めた。

 どうやら、なかなかの好スタートのようである。

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