袂別す

「出掛けよう」

 と、松平容保は早朝に将軍から呼び出しを受けた。

 幕府軍が撤退を余儀なくされた、という報告を聞いてすぐのことであった。

 容保は、将軍様は気落ちしているのかもしれない、と己を奮い立たせ、なるべく明るい笑顔で将軍の元へと向かう。

「おお、容保どの」

「上様。今日は──空が、高う御座いますね」

「冷えた空気のおかげか。澄んでいるんだ」

「美しゅう御座います」

「うん──すこし、歩こう」

「は、」

 慶喜の表情は、どこか暗い。

 無理もないだろう、これだけ兵力には余裕があった幕府軍がこうも簡単に撤退をさせられたのだ。

 容保は悔しくて、ひとり静かに拳を握りしめる。

「…………」

 慶喜の足が、早い。

 ふ、と容保は気が付いた。

 ちょっとした散歩のわりには、随分と城から離れたような気がする。

「う、上様」

「うん」

「どちらまで行かれます」

 容保の言葉に、慶喜は暗い声で小さく「うん」と再び答えるのみで、詳しいことはなにも教えてくれない。

 この先は、港だ。

 もしやと容保は顔を青くした。

「上様、貴方は」

「容保どの」

「──は、」

「愚かなことと、思うたことはありますまいか」

「──…………」

「私はね」

 狼狽する容保に視線は向けず、慶喜はぽつりと言った。

「彼らの命が惜しくてならんよ……」

 と。

 彼はその後、訳も話さぬまま松平容保を連れて大坂から江戸へと下る。

 徳川慶喜の敵前逃亡。

 大将のおらぬ城に、守る価値もない。

 新政府軍と対峙する幕府軍は、よもやそんなことになっていようとは夢にも思わぬことだった。


 すでに無人の城と化した大坂城に、隊士が続々と撤退してくる。

「…………」

 葵は大坂奉行屋敷から大坂城の天守閣にのぼり、淀川を眺めていた。

 淀川の先で、京の町が燃えている。

 ため息をついた。

 近頃は、気が滅入ってばかりだ。

 それに加えて今朝、綾乃に言われた言葉も滅入る原因のひとつとなっていた。


 “戦のなかで落とす命を助けようというのは、生者のわがままだ”と。


 今日、井上が死ぬ。

 史実ではそうなっていた。

 もちろん、史実どおりに行かないことだってあるかもしれないが、恐らくは。

 葵は、当然助けたいと願った。

 けれど綾乃は、断固として反対をした。

 病や暗殺ならば、きっと何かしら手を打つことはできるかもしれない。が、しかし戦は違う。理由はどうであれ、自らの意思で戦に参加したのならば、そこにはもはや部外者が入る余地などない。

 戦はいわば、己との戦いなのである、と。

 綾乃は藤堂の一件からそう学んだと言った。

「あんたのそういうところ、だいっ嫌い──」

 葵は、呟く。

 なにも言えなかったのだ。

 それが正しいと思ってしまったから。

「…………」

 だから、これから聞かなければならないのであろう訃報を、葵はただひたすら待っている。

 ──しばらくして、城門あたりが騒がしくなった。どうやら永倉やほかの隊士が戻ったらしい。

「…………」

 すでに瞳に浮かんでくる涙をぬぐって、葵は駆け出した。


 城門前で、綾乃は続々と運ばれてくる怪我人を、赤、黄、白と症状の重さに分けて病室を采配していた。

 赤は重体、黄は重症、白は軽傷だ。

「この人は白だから手当ては後、杉田さんは黄!」

「お嬢、こちらで最後です」

 隊士が担架を運んできた。最後か、とホッとして患者を見る。

 息を呑んだ。

「山崎さんッ」

 山崎烝であった。

 これまで、彼が深手の傷を負ったところを見たことがない。それゆえに綾乃は動揺し、苦しそうに息をする山崎の手を握り締めた。

「…………山崎さんは赤、重体患者!」

「……うぅ、────」

 呻きながらも、山崎はひきつる笑みをくれた。

 その笑顔に綾乃は涙をこぼす。それを、天守から下りてきた葵が発見した。

「山崎さんッ」

 悲痛な叫びだった。

 しかし山崎はその呼びかけにも静かに笑む。

 まもなく救護に回された。


「ちくしょうッ」


 永倉は、すね当てを外しながら悪態をつく。

「──刀の時代は終わった。なにが官軍だ、なにが錦だ。ちくしょう!」

「新八さん無事で良かった。怪我は?」

「おお綾乃──怪我はない、ないが今度ばかりは敗戦色が濃すぎて、心はつれェよ」

「…………土方さんは? 左之も、源さんもハジメちゃんもいないの」

「…………」

 ざわり、と隊士がざわつく。

 みな、口にこそ出さないが、戻ってこない=死、という方程式が出来上がっている。

 しかし、永倉はなにも答えずにじっと外を見つめた。

 ──見つめて、四半刻。

 永倉が声を上げた。

「来た!」

 その声に反応し、隊士全員が外を見る。

 そこには、大きな傷もなく無事に戻った原田と斎藤、そして土方の姿があった。

 三人が城に入るや、隊士全員が押し寄せる。

 永倉は安堵した顔で近寄った。

「土方さん、原田、斎藤──良かった」

「遅くなった。すまない」

 土方は頭を下げ、永倉に目線を移すと「一昨日の先発はさすがだったぜ」と肩をたたいた。

「源さんは」

「…………」

「…………そう、そうか」

 その場の全員が悟った。

 土方は少し赤い目を隊士全員に向けて、「小休止だ、各々休息をとれ」と指示を出した。

 そばにいた永倉にぼそりと言う。

「近藤さんに会ってくる。沖田にも」

「あぁ────土方さん」

「ん?」

「……無事で良かった」

「…………うん」

 永倉の顔が、今にも泣きそうに歪むから、土方はくすっと笑って頷いた。


 ──。

 ────。

「すまん」

 大坂城の近くにある大坂奉行屋敷。

 近藤の部屋へ入るや、土方は頭を下げた。

「だいぶ死なせちまった。源さんも、──死んだ」

「とし、お前はよくやった。今日はもうゆっくり休んでくれ」

 近藤は、布団から上半身を起こしながら、弱々しく言った。

「あ──奴らの武器はすげえぞ、俺も次からはあれでいこうかな、うん」

「…………」

 近藤の元気がない。

 土方がつとめて明るく言うも、どこか近藤は寂しそうに頷くのみだ。

 なんだか居心地が良くなくて、土方は早々に腰をあげた。

「総司のとこにも行かねえと。隣の部屋だったな」

「あぁ」

「行ってくる」

「────とし」

 不意に。

 近藤の声が、ひどく脆く聞こえた。

 土方は慌てて視線を戻す。

「なんだ」

「……いや、」

 なんでもない、と言った近藤の顔は妙に青白くて、土方はぶるりと身体が震えた。


 いったい、どうしたというのだ。

 土方は首をかしげ、隣部屋に急ぐ。

 沖田の顔を見るやぐっと胸が詰まって、ぺたりと畳に座り込んだ。

「土方さん、お疲れ様でした。おかえりなさい」

「──負けてきた」

 と弱々しくそう呟く。

「源さんも、死んだ」

「斎藤さんから聞きました。でも、きっと源さんはそのつもりだったのだと思いますよ」

「…………」

 悄気ている。

 沖田は、ふっと小さく微笑んでから視線を布団に落とした。

「聞いていませんか、近藤さんから」

「ん?」

「上様が、江戸へ」

「…………」


「会津様らを連れて、江戸へ行きました」


 これが、どういう意味を持つのか。

 土方は当然すぐに理解した。

 みるみるうちに顔を蒼白にさせる土方を見て、沖田は笑う。

「私たちは、捨て駒ってわけですねえ」

 鳥羽伏見での敵前逃亡。

 と、平成の時代では否定的に捉えられるこの出来事──委細は、徳川慶喜が幕軍敗戦の報を受けてすぐ、部下はそのままに大坂城を引き払って、側近のみを連れて江戸へ逃げたというものだ。

 当然、トップがいなくなれば、大坂も新政府に受け渡すしかない。

 事実上の降伏宣言である。

 土方は激昂した。

「逃げた。将軍ともあろう者が逃げたのか!」

「……土方さ」

「何人が死んだッ、そんな将軍にどれだけの者が命を」

「土方さんッ」

 沖田は、か細くも強い口調で叫んだ。

 言われてぐっと口をつぐむ土方に、沖田は力なく笑う。

「もう、やめましょう。みんなそう叫びたくて我慢してるんです」

「…………」

 徳川慶喜。

 部下から見れば、度胸の一つもない一人の男のために、自分たちはボロボロに傷を負い、井上は命を落とした──そうとしか思えなかった。

 たとえほかになにか考えがあるにせよ、土方はいまある現実がたまらなく悔しくて、たまらなく悲しかったのである。


「……土方さん?」


 扉が開いた。

 顔を覗かせたのは、葵と綾乃だった。

 葵は少しばかり白目が赤い。

 泣いたようだ。

「──どうした、徳田」

「…………」

 土方と沖田の目線が、葵に注がれる。

「…………」

「山崎さんが、思いのほか重傷で」

 と、綾乃が代わりに答えた。

 葵の瞳にふたたび涙が浮かぶ。

「あんなに怪我した山崎さん──」

 初めて見たから、と葵は涙を堪えて呟いた。

「そんなにひどいのか」

 あいつは仕事で失敗はしなかったからな、と土方が小さく呟いて立ち上がった。

 淀千両松から帰ってきて真っ先に近藤のもとへ来たものだから、怪我人の様子などを把握していなかったこともあり、一度大坂城へ戻るようだ。

 土方は、疲れた顔に笑みを浮かべて綾乃を見る。

「よく無事でいてくれた」

「土方さんこそ」

「──源さんは、死んだよ」

「…………」

 ずん、と胸に鉛が落ちる。鼻の奥がツンとして涙も込みあがった。

 けれど、この土方を前に涙を流すわけにはいかなかった。

 きっとこちらよりもよっぽど悲しいのだろうから。──だから、綾乃は土方の手を取って、力強く握る。

「でも、まだ新選組は生きていますよね」

「────」

 井上の最期の咆哮が脳裏をよぎる。

 ああ、と土方は己の額を綾乃の額にゴツンと当てて、か細い声で言った。

「俺が死なせるもんかよ」


 ※

 一月十日。

 幕府軍に江戸へ撤退命令が出された。

 永倉率いる一、二番隊やら、隊長のいない六番隊などは、先に順動丸に乗って江戸へ。土方やけが人等は十二日、富士山丸に乗って江戸へと帰る。

 その航海中の、十三日のことである。


「…………」

 船内に設けてある病室には、山崎が静かに眠っている。

 その手を、葵は一秒たりとも離すことなく、しっかり握って山崎の寝顔を見つめている。

 いつだって余裕の笑みを浮かべていた山崎の顔は、もうない。

 時折疼く傷口に山崎は小さく呻いた。

 そのたびに葵は手をさすってやる。

 もう、それしか出来ることはなかった。

「…………ん、」

 不意に。

 彼の目が開いて焦点が葵に合う。

「山崎さんっ」

「────」

 少し驚いたようにこちらを眺める山崎は、なにを考えているのか。

 葵は不安そうに首をかしげる。

 不意に山崎が笑った。

「あんた、────」

「はい」

「…………」

「なに、何か欲しいもの、ありますか」

 しかし、山崎はわずかに首を横に振る。

 そして嬉しそうに小さく、小さく呟いた。

「なんや」

「え?」

「まだ──夢か」

 と、山崎はふたたび目を閉じる。

 口元にはすこし笑みすら浮かべて。

 寝たか。

 いや、違う。

 葵が慌てて手を握る。

「まって、いやだ」

 叫んだ。彼の肩が一瞬揺れる。

「山崎さんッいや、やだっ」

 それを最後に、彼の身体から力が抜けていく。そして、

「いやだァ──…………」

 葵の呼びかけに、山崎が応えることはついぞなかった。


 慶応四年、一月十三日。

 山崎烝、戦死。


 葵は、綾乃に発見されるそのときまで、冷たくなりゆく山崎の手を掴んだまま、じっと虚空を見つめていた。


 翌日の朝。

 山崎の遺体は、白い布にくるまれた。

 新選組の隊士はみな黙ってそれを見守る。

「…………」

 綾乃は瞳から零れる涙を隠すように、右の手のひらで顔を覆った。

 葵はただただ静かに涙を流して、海へと投げられる山崎を見送る。


 海軍は、弔いの大砲を放った。


 沈みゆく山崎の遺体に駆け寄るかのごとく、尾形は甲板から覗き涙を流した。

 水葬の指揮を執った榎本武揚えのもとたけあきは、近藤と土方に目を向けた。

 近藤は、深く頭を下げる。

「わざわざ、水葬にまでしていただけるとは。山崎も報われたでしょう」

「つぎの戦では、やはり奴らが使っていた武器を仕入れる必要がありますね。──装備で負ければ、兵力で勝っても同じことだ」

「土方くんは、もう次の戦いを考えているんですね」

「……ぼやぼやしていたら、これ以上に山崎みたいな奴が出てきちまうんでね」

 あいつらは、と土方は甲板に駆け寄って山崎の落ちた場所を眺める隊士たちを見る。

「ここまで新選組を信じてきてくれた。そんな奴らを、捨て駒みたいに扱いたくはない」

 まるで、慶喜への皮肉のようだ。

 土方はにこやかに榎本へ握手を求めた。

 洋式の挨拶である。

「また何処かで」

「ええ」

 近藤もそれに倣って握手をした。

 が、土方と握手したあとのそれは、とてつもなく、弱々しい握手だった。


 十五日未明。

 幕府艦隊は、江戸へ到着した。

 幕府軍扱いでの新選組一向は、丸の内大名小路の鳥居丹後守役宅を本陣として宛がわれた。

 ──が、やはりここも仕切りは土方だった。

 忙しそうに声をかけまわる土方を眺めながら、綾乃がぼそりと呟く。

「近藤さんの肩、神経切れたのかな」

「船で少し話したときはだいぶ気丈に振る舞っていたけど、ひとりのときは顔が青かったもん。たぶん、身体だけじゃなくて──」

「心因性、…………ありうる」

 葵の言葉に、綾乃は目を閉じた。

 そう、近藤の肩の傷は未だに癒えず、とうとう神田和泉橋の医学所へ送られたのである。船上にて時折暗い顔をしながら腕をあげ、痛む肩を責めるように叩く彼を見るのは、とても辛かった。

「だから、彼を引き離すのは本当に苦しかったよ……葵、沖田くんに会ったら謝っておいてね」

「うん。だけど彼は分かってると思うよ。近藤さんは医学所に、自分は落ち着ける環境に、それぞれ行かなきゃいけなかったことくらい」

 沖田は千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養をすることになった。

 相当、近藤が心配だったようで、離ればなれになることに抵抗していたが、土方の必死の説得で渋々承諾したようだった。

「おかしいよね」

「え?」

「たった、…………たった数年前は、みんなで一緒にわははって、笑っていたのにね」

「────」

 切なく呟いた綾乃に、葵は力なく頷くことしかできなかった。


 ────。

 二月二十日前後。

「甲州鎮撫」

 原田が、ポカンとした顔で言った。

 近藤は珍しく嬉しそうに、頷く。

「金や大砲、小銃もたくさんいただいた。こんなに喜ばしいことはないぞ」

「どうだかな」

 喜ぶ近藤とは対照的に、土方は怒りを顔に浮かべている。

 土方とすれば、厄介者は余所に行かせておけ、と言われたような気持ちだっただろう。というのも、徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺へ移ったという。いわば謹慎である。

 そこに目をつけたのが、幕臣勝海舟。

 その間に江戸城を無血開城させよう、と企てたのだった。

 新選組が江戸にいては、無血での開城を促すことは不可能だと踏んだのだろう。大金や武器のほか、近藤や土方へは破格の地位を授け、新選組を江戸から遠ざけたのだ。

 近藤の前でこそ黙ってはいたが、沖田のもとへ見舞いに来るやいなや、土方は大きく悪態をついた。

「なにが甲州鎮撫だッ。ただ俺たちが邪魔になっただけのくせに」

「まあまあ、土方さん落ち着いて」

 近頃、こんな役回りが多いなぁ、と沖田は苦笑する。

 すっかり痩せてしまった沖田の姿に、土方は一瞬だけ口をつぐんで、視線を落とした。

「総司、てめえは」

 一緒には来ないんだな、と土方は小さく呟く。

 あまりの弱々しい声に沖田はあわてた。

「行けるなら、行きたいですけど──もし私が土方さんで、土方さんが私の立場だったら絶対にダメって言いますから。しょうがないですネ」

「じゃあ治ったら、来いよ」

「…………」

「お前がいつ戻ってもいいように、一番隊の組長は空けてある」

 沖田は、口許がひきつる。

 柄にもなく胸が熱くなったのだ。

「あは……永倉さん困ってました。お前が早く戻ってこないと、一、二番隊を兼任するのは大変だって」

「じゃあ、永倉のためにも早く治さねえとな」

「ええ、頑張らなきゃ」

「…………」

「…………」

 何故か、土方は言葉が見つからなかった。

 今までは、馬鹿な話ばかりしていても、気付けば数刻も時が過ぎていることさえあったのに。

 切なくて、不安で、喉すらも怖がって言葉を呑み込んでしまう。

 だから土方は、振りきるように強い口調で、沖田を呼んだ。

「総司」

「はい」

「生きろよ」

「…………」

「また、会うんだ。絶対に」

 一番隊はお前の物だ。

 土方は、そして沖田の頭をがしっと抱き寄せる。

「負けんなよ」

「…………っ」

 滲む視界は、土方の胸元に押し付けて。

 負けるものか、と沖田は心に言い聞かせ、何度も何度も頷いた。


「……葵は、ここに残るんだね」

「うん。沖田くんのそばにいる」

「それがいい」

「私たちは死ねばまた会えるわけだし」

「ははっ、そうだ」

 綾乃は、けらけらと笑って空を仰いだ。

 なんだか、前よりもずっと、この時代で生きているように感じる。

 歴史をなぞっているだけではない、何かを。

「綾乃、」

「うん?」

「私もう、迷わないからね」

「…………」

「私がやりたいように、やってみるからね」

 山崎の死以来、葵は強くなった。

 綾乃は目を細めて笑んだ。

「うん──頼むぞ!」

 この世界にきて、五年目の冬。

 とうとう綾乃と葵までもが別行動を取ることとなったのである。


 ※

 三月三日、桃の節句。

「な──え、なっぱ?」

「菜っぱ隊、だ。覚えやすいだろ」

「うん……────いやネーミングさぁ」

 と、言いながら。

 綾乃は、土方とともに神奈川方面へ馬で駆けていた。

 菜っぱ隊と呼ばれる、神奈川で発起した幕軍に援軍を頼むためである。

 援軍を頼むことが急遽決まったのは、昨日のことであった。


 江戸から甲府へ──。

 行軍の最中、途中で日野を通った甲陽鎮撫隊の一行は、佐藤家に寄り道をした。その際、土方は拝領の品である袰をおのぶへ渡し、すぐに再び甲府へと向かう。

「気を付けて行きなさいよ。あんただけじゃなくて、みんなね」

「気を付けていても、死ぬときは死ぬ。そのときは──立派に祀ってください」

「縁起でもないこと言うんじゃないよッ」

 などと、怒られながら日野を出立した。

 しかし翌日、関東甲信越地方は雪が降り、甲陽鎮撫隊の甲府城到着が少しばかり遅れたことが仇となる。

 その内に、乾退助率いる三千の敵軍が甲府城へ入ったと知らせが入ったのだ。

「遅かったか……」

 という土方の呟きに恐れおののいたか、寄せ集めの兵士たちは半数ほど逃げ出してしまったのである。

 原田は、不平を通り越して苦笑した。

「ったく、残っているのはごてごての新選組あがりばっかりじゃねえか。情けねえなァ」

「俺が援軍を頼んでくる。なにかあったら永倉──頼むぜ」

「ああ、土方さんも気を付けて」


 というわけだ。

 途中に休憩をいれることなく、土方は馬を全速力で走らせる。

 綾乃は、それについていくだけでも精一杯だったが、ポジティブに「これもドライブデートならぬホースデートか」と考える。

 二時間ほどもすれば、すっかり馬とも馴れ合うことができ、楽しい乗馬タイムと化したのであった。

「菜っぱ隊って、なにかつてでもあるんですか」

「いや、ない。ないがとにかく、一人でも多く連れて帰らねえと──さすがに兵力が足りねえからよ」

「それは分かりますけど」

 そういう問題ではなく。

 と、心配した綾乃の読み通り、結局はいろいろな理由で断られてしまった。

 一番腹が立った理由は「卜占でよくない気がでたから」というものだった。

「てめえの金玉は蟻サイズか!?」

 と綾乃は怒鳴り散らしたが、笑いをこらえる土方に止められて、虚しく再び味方の元へと走ることとなる。

 帰り道、土方はすこしスピードを緩めて、笑いながら綾乃に話しかけてきた。

「おまえって、よくそうポンポン罵倒が出てくるもんだな。俺も見習うか」

「やめてくださいよ、豊玉発句集に下ネタ追加する気ですか」

「ハッハッハ!」

 ──途中、日野を通った。

 再び佐藤家に寄り、土方は洋服から羽織袴へと着替える。

「こうやって何度も顔を見せてくれるのなら、安心できるってもんだけど」

「冗談じゃねえや。戦が終わって、まだ命がありゃあまたなにか土産にでも持ってきますよ」

 と笑顔で、土方と綾乃は日野を去った。

 これが、おのぶが弟を見た最後の姿となる。


 ※

 これは、あとから聞いた話である。

「近藤さん、再挙をしたい」

 と永倉は言ったそうだ。

 土方が援軍要請のため、神奈川に行っている間、甲陽鎮撫隊は敵兵に場所を特定された。

 まずは生き延びろ、という永倉の指示により、部隊は一時散り散りに別れる。幸い、しっかりと集合場所を決めていたこともあってか、わずかばかりの隊士たちは翌日、杉並の玉野家で再び集うことができたのだったが。

 その状況にしびれを切らし、土方不在のなか、永倉が近藤へ再挙についての話を持ちかけたのだ。

「──この間江戸に帰ったときに同門の芳賀さんに会って、その人が我々との再挙を是非と言ってくれているんだ。どうだろう、靖共隊ってんだが」

「…………」

 永倉と近藤には、近藤批判の建白書の事件以来、ある種の確執めいたものがある。

 近ごろの近藤には、大将の気負いというものが感じられないこともあり、そのせいか、どことなく顔色も青白く生気がないように見えた。なにかとネガティブな発言もうかがえたために、永倉もこの件は一度土方に相談してからにしようとも思ったが、やはり局長は近藤である。

 筋は通さねば、と今日に至ったのだが──。


「その者らが、私の家臣として付き従うのなら」


 という近藤の回答に、永倉は閉口した。

 この瞬間。

 永倉のなかに結ばれていた近藤との絆が脆く崩れ去った。

「…………」

 あとから思えば、この言葉は彼のどんな気持ちから出てきたものだったのだろうか。

「家臣だとォ」

 ともに聞いていた原田は、その一言で今までの鬱憤を晴らすかのごとく叫んだ。

「今まで同志でこそあれ、家臣ってなぁどういうことだッ。おかしいぜ──怪我してから急に弱っちくなりやがって、そのくせ大将気取りとは笑わせる!」

「…………」

「なんだよ。なにか言えよッ!」

 が、近藤は俯いたまま喋らない。

 永倉の眼にうつる彼は、もはや哀れだった。

 だからか、興奮する原田の肩を掴んで落ち着かせ、永倉は瞳を歪ませる。

「あんたがそう思っているのなら、もうそれでいい。でも──頼むから俺たちに、あんたに付いてきたことを後悔させるようなことだけは、やめてくれ──…………」

 近藤は、ぴくりとも表情を動かさずに、永倉と原田をぼんやりと眺めていた。

 この場に土方がいれば、あるいは。

 そう思いながら、島田魁はハラハラとした面持ちでこの掛け合いを見ていたそうだ。

 

 帰還した土方がその経緯を聞いたのは、馬をおりてすぐのこと。

 話を聞いた彼の顔は、険しく歪む。後ろで控えていた綾乃も顔面を蒼白にして土方の答えを待っていた。

「…………」

「……土方さん、あんたは──来てくれねえか?」

 改めて、永倉は土方に問う。

 けれども彼の答えは、一秒の間もなく即答された。

「俺は新選組と共にいく」

「し、新選組って」

「けどよ土方さん。いま新選組は──兵がおらんじゃないかよ」

 と、原田は情けない顔で言った。

「俺には、新選組を生かす義務がある。そうでもしねえと今まで規律で死んでいった奴らに合わす顔がねえよ」

「…………」

 土方は、意外にも優しく笑った。

「なに、お前等がそちらへ行くってんなら止めやしねえ。そりゃあ……お前等なくしては不安でしかねえが──いねえならいねえで、なんとかやるさ」

 永倉と原田は、顔を見合わせて唇を噛み締めた。

「……斎藤は」

「俺は土方さんと共に行く」

「即答、か」

 と苦笑する原田を横目に、土方は、ちらりと綾乃を見る。その視線を受けて、綾乃は諦めたような顔で小さく笑った。

「この話は終わりだ。新八っつぁん、左之助────達者で、生きろよ」

「…………」

 寂しそうに永倉が頷く。

 原田は、悔しそうに空を仰いだ。


 永倉と原田が靖共隊へ行くと決まって、綾乃は寂しくなったか葵に電話を掛けた。

 コール音が四回して『もしもし』と弾んだ声が返ってくる。

「どう、沖田くんの体調は」

 綾乃は明るく問うた。

『好調も好調、絶好調だよ。ちゃんとマスクしてるし』

「マスク!」

『うん。ね、総ちゃん』

 電話の奥で「なんだか息苦しいです」という声が聞こえる。

『ばっちり快適だって』

「いやおい、聞こえたぞ。ていうか総ちゃんて」

『総ちゃんたら、マスクつけるときに最初用途が分からなくておでこにあてたよ』

「あはははっ、マスクって確か大正から作られたんだよね。そりゃあ、分からんわな」

 とわらう綾乃の声に、葵はなにかを察したようだ。優しい声色で『そっちはどう?』と聞いてきた。

「うん──左之と新八、靖共隊に行っちゃうんだって」

『……そっか。ねえ総ちゃん』

 と、沖田にも報告しているらしい。

 「そんなのイヤですッ」という声が聞こえて、綾乃は思わず苦笑した。

「沖田くんのこと、頼むね」

『それはもちろんだけど。綾乃は、大丈夫なの』

「大丈夫、大丈夫」

 けれど電話の奥で葵が沈黙するから、綾乃はふっと笑って。

「大丈夫ったら。──わたしには土方さんがいる。土方さんには、ハジメちゃんもいるから」

 大丈夫。

 そう言ったあとで、まるで自分に言い聞かせているみたいだと気付き、少しだけ涙がこぼれた。

 だから、早々に電話を切った。

 ──もう、日が暮れ始めている。


 ※

 四月二日、新選組は下総流山に到着した。

 味噌醸造業を営む長岡屋へ本陣を置いたものの、その日の夕刻には新政府軍によって包囲されてしまう。

 武器提出を求めてきた新政府軍を睨み付けながら、斎藤はふてぶてしく呟いた。

「最近こういうことが多いな」

「もう居場所がないね」

 綾乃も思わず肩をすくめる。

 しかし、口先のペテン師、土方は違った。

 涼しげな顔で前に出る。

 新政府軍はわずかにざわついた。

「なにか勘違いをしておられる」

「なんだとッ」

 ふ、と挑戦的に笑って、土方は「今」と胸を張って嘯いた。

「江戸からの脱走兵がいろんなところで暴れている。それだけならまだしも、農民一揆まで起こしそうな勢いだから、取り締まっているんですよ」

「…………」

「百姓というのは、ある種武士よりも恐ろしいもんですから──」

 と。

 綾乃は、彼の言葉に興奮した。

 ひとり笑わずにはいられなかった。

 百姓の恐ろしさ──とは、なんという皮肉であろうか。

 斎藤や、古くから新選組にいる男たちも、恐らくは同じことを思っただろう。

 ──百姓あがりのこの男は、いまだ負けてやる気などさらさらないのだ、と。

 土方のとっさの機転によってその場をなんとかしのいだ新選組は、再び外を監視しながら、一日を終えようとしていた。

 ……はずなのだが。


「ちょっと、行ってくるよ」


 突然、近藤が立ち上がったのである。

 唐突すぎて意味が分からないと言ったように、土方はきょとんとしている。

 しかし綾乃はさっと顔色を変えた。

「行くってどこに」

「敵陣」

「──は、?」

「俺は、もう無理だと思うんだよ。歳」

 と弱々しく笑った近藤に、ようやく言葉の意味を理解した土方は、途端にキッと近藤を睨み付ける。

「それはなんだ、降伏するってのか。冗談じゃねえ」

「冗談なんか言っていない。本気だよ」

 ひどく穏やかな近藤の口調に、たまらず土方は眉を下げた。

「……どうしたんだ、なんだよ。あんたおかしいぞ最近」

「おかしくない。これが本当の俺だ」

 俺はな、と近藤は着物を整えながら軽い調子で喋り出す。

「お前みてえに度胸なんかねえんだよ、歳。俺は幕府を信じてた、信じてここまでやってきた。幕府ならきっと──ってよ。でも、上様は大政奉還をなされた。──…………俺は、どこに向かうべきか、分からなくなっちまったんだ」

 呟いた近藤は、ようやく土方に顔を向けて背筋を正した。

「京で、俺は新選組の局長なんて大層なもんをやってきたけど──俺は常に思っていた」

「……なにを」

「俺じゃねえな、ってさ。今考えりゃ、俺は大人しく天然理心流の道場主でも継いでいたら良かったんだよ」

「…………」

 ──大丈夫。

 きっとまた、近藤のわがままが発動しただけだ。きっと、すぐに心変わりをするはずだ。

 綾乃は、必死で心に言い聞かせた。

 でなければあまりにも──辛い。

 頼れる腹心がいなくなるなかで、もっとも信頼していた大将までがいなくなっては、いったい土方はどうすればよいのだろう。

 もうこれ以上、彼を苦しめるのはやめてくれ、と綾乃は叫びたかった。

「ここらが潮時さ、な。これ以上楯突くと俺たちは一生賊軍だ。愛する隊士たちにそんな汚名は着せらんめえ」

「──……………」

 土方は、震えた。

 この震える拳で、目の前の男を思う存分まで殴りたかった。

 何が、大政奉還だ。

 何が、賊軍だ。

 そんなもの、俺たちの士道の前には関係なのではなかったのか。

 土方はそんな思いでいっぱいだった。

「じゃあ何か。俺たちが多摩から上がってきたときから、──」

 俺たちは、違ったというのか。

 という土方の呟きに、端で聞いていた綾乃は思わず俯く。

 ふたりを直視するのが、怖かった。

「……さあ、どうだろうな」

 とにかく行ってくる、と近藤は馬を出す。

「おい近藤さんッ」

「すぐ戻る」

 一言呟いて、近藤は颯爽と馬を走らせていった。

「…………」

 しばらく、何も言えなかった。

 土方は憤りとやるせなさで、瞳に涙を浮かべて。

「────」

 あの質問に、近藤が「気持ちは同じだった」と言わなかったことが、土方は何より悲しかった。

 京での四年間、自分たちは何をしてきたのだろう。

 そんな想いが駆け巡って、土方はその場に座り込んだ。


 数刻後のことである。

 一旦、武器提出などのため、近藤は帰営した。

 土方は「お願いだやめてくれ」と頭を下げてまで、訴える。

「近藤さんッ」

 すっかり痩せてしまった両肩をがしりと掴んだ土方の手に、近藤は優しく手を添えた。

「お願いだよ、近藤さん──…………」

 もはや。

 対峙しているのは、新選組としての近藤、土方ではなく、かつて牛込の試衛館にて義兄弟の契りを交わした、勇と歳三であった。

「ごめんよ、歳」

「…………」

「お前が俺のそばにいて、良かった」

 これまでにないほど穏やかな声だった。

 その一言で、諦めたのだろう。

 土方はゆっくりと肩から手を外す。

 それから、近藤に背を向けて静かに、泣いた。


 近藤はその後、新選組が会津へと向かうなか、野村利三郎のむらりさぶろう相馬主計そうまかずえと共に江戸へ残ることとなる。

 土方はひとり、馬を飛ばした。

 敵地ともいえる江戸で、勝へ近藤の助命嘆願をするため、必死に駆けた。

 近藤はその間に、大久保大和という変名を使用して、降伏をする。

 が、しかし板橋宿の名主の家へ連れて行かれた際、高台寺党の加納鷲雄らによって、大久保大和が変名であることを見抜かれた。

 それから三週間ほど経った、四月二十五日の昼。

 土方の助命嘆願も虚しく。

 近藤は板橋にて、

「御厄介になりました」

 と、江戸の方角に向けて頭を下げる。

 そして首を差し出した。


 慶応四年、四月二十五日。

 近藤勇、斬首。


 その首は、それから三日間ほど、京の三条河原橋の上に晒されたという。


「…………」

 寂しくなんかねえさ。

 土方は、そう言った。

 綾乃の膝に頭を預けてぼんやりと虚空を眺める彼の瞳が、助けてくれ、と叫んでいるような気がして、綾乃は優しく頭を撫でる。

「だれが、泣いてやるもんか」

「──…………」

 強がり。

 とつぶやいて、綾乃は泣いた。

 泣かぬ強がりの彼の分まで。

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