脱走者

 元治二年(もうすぐ慶応元年)の正月を迎えた朝、葵は身体に不調を感じていた。

 だるい。きっと微熱があるんだ、と葵はため息をつく。綾乃もまた、明らかに顔色がおかしい友人に眉をひそめた。

 十一時頃だろうか。

 朝の隊務を終えた藤堂が駆けてきた。

「おい、壬生寺で村の子どもが凧揚げしてるってよ。いこうぜェ」

「平助かわいい」

「ち、違う。村のガキと遊ぶっていうのも、俺たち新選組の仕事のうちに入ってるんだ」

「はいはい」

 と、綾乃が笑ったとき。

 突然背中を丸めて、葵が咳き込んだ。

「…………げほ、ごほっ」

 口元を抑えて、しばらくゴホゴホと激しく咳をしている。

 その咳に、嫌な違和感を覚える。

 かがみ込む葵に寄り添った。

「あおい、────」

「ゲホッ、ゲホ、…………」

 葵の口元を抑える手のひらがちらと見える。

 微量の血が滲んでいた。

「────」

 葵がひゅう、と息を吸う。

 どうして、と一瞬よぎるが考えている暇はない。後ろで眉を下げた藤堂に、綾乃は

「薬を飲ませるから、先に壬生寺に行ってて」

 と言った。

「大丈夫かよ」

「うん、ごめん」

 血を見られぬよう、葵は顔を伏せたまま返事をした。藤堂は一足先に壬生寺へと向かう。

 見届けて、綾乃はいつから、と声を低く問うた。

「血を、出したのははじめて。だるさは年末からあったんだけど──」

 かすかに、手が震えている。

「みんなには言わないで」

「────」

「きっと沖田くん、自分が移しちゃったんだって気を病むと思う」

「それは、」

「本当に酷くなるまで、言わないで」

「でもアンタ」

 このままじゃ、と綾乃は強く言った。

 隊士に移す可能性も否定できないのだ。しかし葵には考えがあった。

「そんなに長くはいないよ」

 未来があるじゃない。

 と。

 平成の世において、労咳──いわゆる結核は、治療法が確立されている。

 未来にもどって治療すれば、あるいは。

「もどる気なのね」

 と、綾乃は微妙な顔をして、呟いた。


 しばらくして葵は寝込みがちになった。

 身体がだるいらしく、咳き込みも激しい。

 近藤や土方は「労咳か」と心配したが、葵の世話は自分がやると言って、綾乃が他人を遠ざけたこともあり、未だに発覚はしていなかった。


 ──そんな頃である。

 幹部の中で、屯所移転の話が出たのは。


 一月に起きたぜんざい屋事件の後始末で屯所内がバタついている。

 ぜんざい屋事件とは、石蔵屋というぜんざい屋にて発生した過激派浪士の捕縛劇だ。

 土佐浪人数名で計画した、大坂市街に火を放ってのち、混乱に乗じて大坂城を襲撃する、という大坂城乗っ取り計画である。

 こちらもまた、新選組が情報をつかんだことで未然に防ぐことができたのだが、これ以上過激派に好き勝手させるわけにはいかない、と新選組は連日、残党狩りを行っていたのである。

 そのなかで、

「屯所が手狭になってきたと思わんか」

 という近藤の一言がきっかけで、その場にいた土方と山南、伊東がたしかにと同意したのだ。

「こうも人が増えちゃあ、いい加減前川さんや八木さんは勿論のこと、南部さんや新徳寺の坊さんにまで迷惑かかっちまう」

「もうすでに十分すぎるほど迷惑をおかけしております」

 前川の妻子は、浪士の暴れっぷりに耐えられず、ずいぶん昔に六角通りの本家へと移っている。

 土方や山南の渋面に、伊東は笑んだ。

「では、どちらへの移転がよいと思われますか?」

「…………」

 土方は、ふいと伊東を視界から外した。

 初めて会ったときから、あまり好きではない。代わりに、山南が「どこか」と声をあげる。

「奉行所と関わりの深い……」

「またお宅を借り受ける、というのは些か心が痛みませんか、山南先生」

「────」

「これほどの人数を抱えることは、かなりの負担を伴います。いくら御公儀のためとはいえ、家族の平穏を潰すというのは……京を守る新選組ともあろう我々が、いかがなものかと」

「…………それは、ですから。立地のよい空き家など」

「そんな都合のよいところが」

「だったら伊東先生はどうなんです。どこか候補でも」

 被せに被せる会話は、土方の刺々しい言い方で終わったが、伊東は涼しい顔で「西本願寺です」と言い返す。


「西本願寺!?」


 山南が過剰に反応するのを見て、得意気な顔をすると「ええ」とゆっくり頷いた。


「い、伊東先生。西本願寺はいけません。斯くなる上は人斬りをも辞さない我々を、仏心が許すとは──」

「今さらなにを。壬生寺さんも新徳寺さんも、受け入れてくれているのです。それに西本願寺は長州贔屓というではありませんか。それならば尚更、動きを読むにももってこいかと」

 理路整然と並べられた伊東の言葉には、説得力があり、素直な近藤はあっさりと頷く。

「伊東先生の仰ることはもっともだと思う。山南さんもそれでいいかな」

「…………私は」

「土方副長はいかがです?」

「──交渉は、わたしがやらせていただく」

 土方は、ふてぶてしい顔で小さく合意の意思を示した。

「しかし、西本願寺さんからの了承を得ないことには、この移転話もおじゃんでしょう」

「ならば山南先生が交渉をされたがよろしい」

 伊東はすこし、小馬鹿にしたように笑った。山南はカッと目元を染め、いえ、とつぶやく。

「……そういう交渉事は土方くんが長けております。ですが」

「ご不満ですか。剣を握れぬいま、いろいろと溜まる心中もお察ししますが──」

「……ぶ、無礼者ッ」

 山南が、キレた。

「私の腕は、今この場の議論とはなんの関係もなければ脈絡もないッ。そのような邪推はやめていただきたい!」

「お気を悪くなされたのなら謝ります。しかし他を当たってみても、やはり西本願寺に最終的には戻るのではないかと」

「…………っ」

「山南さん、私は西本願寺でいいと思う。異論は抑えてくれまいか」

「…………」

 山南はハッと場を見た。

 いつの間にか、近藤も伊東と同じような目でこちらを見ている。その隣に胡座をかく土方の顔は見えない、が、彼もきっと──。

 山南は、憮然とした顔で「失礼」と呟くと、静かに部屋を出ていった。


「…………」

 自室で肩のマッサージをする。

 悔しくて、恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。

 好きでこのような腕になったのではない。仏心云々だって、間違ったことは言っていない。

 そもそも、御公儀のためと言えばなんとでもなると思う方がおかしいのだ。

 山南は、ただでさえ取っ付きやすい性格から、八木の主人や近所のご婦人と話す機会が多いため、周りから愚痴やら何やらをよく言われる。

 ならばこちらから金を出して、新たな家を用意してやれば、よい立地の空き家なども手にはいるのでは、と思っただけだ。

 嫌味ったらしく言われる筋合いは、ない。

「剣が握れずとも、やれることはある──」

 このような普通の思考を持つ人間がいなくなってはならない。

 山南は、そんな気持ちで必死に生にしがみついていた。


 ※

「ゲホ、ゲホッ」

「体調はどう、最悪?」

「わ、わりと──」

 綾乃と葵は、壬生寺にある芹沢たちの墓の前で、座ってお喋りをしていた。

 葵が労咳になりました、という報告も兼ねてである。

 綾乃はふと、思い出したように言う。

「いつにしようか」

「え、なにが」

「自殺するの」

「────」

 一瞬、キョトンとした顔で沈黙してから、葵はああ、と言った。

 この世界での死は、帰郷を意味する。

 葵は笑った。

「いいよ、私がひとりで帰るから」

「嫌だよ。それで万が一にも葵が戻ってこられなかったら、わたしがここに取り残されるんでしょ。そんなの心細いじゃん」

「そ、そう。じゃあ決めよう」

「なるべく早くがいいね、きっと芹沢さんたちも心配してるよ。本当」

 という綾乃に、葵はふっと笑った。

 時間が経つのは早い。

 いろんなことが、あっと言う間に過ぎ去って、いろいろな想いや記憶が蓄積される。

 葵は言った。

「想い出が、ね」

 その視線は、芹沢の墓石ただひとつ。

「温かければあったかいほど、胸が詰まって苦しくて、そんなのが、たくさんあってね」

「うん」

「でもそういう想い出ほど、すごくすごく大切で」

「うん」

「忘れたいのに、──忘れたくなくて」

 墓石を撫でる葵の手はやさしい。

「どうしたもんかと思ってる」

 と、膝に顔を埋めた。

 綾乃は黙って空を見る。

 彼女の心痛は、綾乃には分からない、と思う。

 芹沢暗殺の当時は、『歴史上の人物が、史実通りの結果になった』という意識の方が大きかった。

 だから、悲しさはもちろんあったけれども、それ以上にどこか傍観者としての気持ちの方が強かった。

 しかし葵は違う。

 日々をともに寝起きすれば、当然リアルを感じるであろうし、可愛がられていたとすれば尚更だ。

 だから、綾乃はそれに対してなにも言えなかった。ただ、思うことはある。

「想い出ってどうしてあるとおもう?」

 わたしはね、と綾乃は答えを聞かぬまま続けた。

「これから先、自分が強く生きていくための支えだと思ってる」

「…………」

「記憶は消える、細かいところは忘れるよ。でも想い出の温かさはずっと消えないの。誰かから愛された記憶は、脳みそじゃなくて心が覚えてる。だからね……」

 綾乃は葵の目をしかと見つめた。

「これから先に何が起こっても、きっと大丈夫、って思えるから。想い出に残った芹沢さんや野口くんが、絶対に力を貸してくれるから」

「────」

「葵はなにも、心配しなくていい」

 と微笑んだ。

 葵はその瞳を見つめ返す。

 やがてぽろぽろと涙がこぼれてきた。

「うん──ッうん……」

「大丈夫、大丈夫」

 大丈夫──無責任な言葉だ。

 葵の背中をさすりながら、綾乃はぐっと涙をこらえた。


 ※

 山南が、沖田を誘って茶屋に出た。

 久しぶりに多摩時代から知る人間と水入らず──沖田は嬉しそうに座敷へあがる。

 しかし山南の顔は、浮かない。

「沖田くん」

 近頃は飯もあまり食べておらず、瞳はすこし落ちくぼんでいる。山南に見つめられた沖田はおもわず背筋がゾッとした。

「きみは──いまの新選組をどう思います」

「──どうって?」

「このままでいいわけはない、それは君も思っているでしょう」

 また難しいことを言って──と沖田はすこしむくれてうつむいた。

「このままだと、どうよくないです?」

 畳の目をなぞる。

 ちらりと山南を見ると、彼は生気のない顔で「そうですか」と脈絡のない返事をした。

「もしかすると、私だけなのかな」

「えっ?」

「いや……いいんだ。気にしないで」

 山南は汁粉を一口食べて、箸を置く。

 甘味には目がない山南が、それ以上は口をつけようともしない。沖田はまずいと思った。

「違います。そういう意味でなくって、私ってほら、あんまり難しいことを考えないタチだから──山南さんのお考えを聞きたいと思ったんです」

「いや、そう言われると──もはや何がよくないのかも分からない」

「えっ?」

「ああ、腹がいっぱいだ──悪いが沖田くん、残りを食べてくれるかい」

「さ、山南さん」

「わるかったね」

 と、山南は金を置いて店を出ていく。

 ひとり残された沖田は、そのときにようやく事態が予想以上に深刻であることを察した。

「まずい──非常にまずいな」

 ぼそりと呟いた。

 このあと、どうなるかは予想もできないが、いやな妄想は止めどなく浮かんでくる。

 すると、山南のいた座敷にひとりの娘が腰かけた。

「お口に合わんかった?」

 看板娘のまさである。原田の彼女だ。

「えっ」

「まずい言うてるから」

「あ、違います! 汁粉は美味しいです、山南さんの分も食べますから、さげないでね」

「はぁい──めずらしな、山南さんがお汁粉残すやなんて」

「はい……ちょっと思ったよりも、事は大きいかもしれません」

「ふうん……?」


 沖田の読み通り、その二日後。

 山南は一通の書き置きのみを残して、脱走した。


 新選組は変わるべきだ──。

 とおのれが言葉にしていたら、何か変わったのだろうか。

 その書き置きを見て、沖田は心底そう思った。

「…………」

 脱走の事実を聞いた幹部は、絶句する。

「あんたが山南さんを追い込んだのじゃないか、土方さん──」

「そうだ、やっぱり近藤先生と土方さんのやり方に嫌気がさしたんだっ」

 永倉や藤堂はそう言った。

 土方は唇を噛みしめる。反論はなかった。

 それはちげえよ、と原田は眉を下げた。

「たとえそこに異論があろうと、こんなことはしねえだろ。もっとほかによ──」

 沖田は私のせいです、と書き置きを見つめて言った。ゾッとするほど静かな声だった。

「総司……」

「だから私が、追います。山南さんを」

 ──必ず生かして帰りますから。

 土方は白目をすこし赤く染め、力強く頷いた。


 きっかけにすぎない。

 けれどもとても大きなきっかけだった。

 沖田は、馬上で幾度も後悔をした。

 彼の抱える闇を見抜いてやれなかった、孤独に見て見ぬふりをした。それは、沖田だけではないが──それでも、罪だ、と思った。

「あ、」

 大津入口付近の茶屋で静かに座る山南を見つけた。

「山南さん」

「──追っ手は、君か」

 山南はくぼんだ瞳を朗らかに細めた。どこか、機嫌が良いようだ。

 その笑顔にほ、と息をついて

「良かった……」

 と馬から降りた。

「なにがだい」

「土方さんに、必ず生かして帰ると約束したものですから──」

 沖田の言葉に、山南は少し申し訳なさそうに笑っている。

「……近藤さんですか、それとも土方さんですか」

「え?」

「新選組が──嫌いになりましたか」

 沖田は泣きそうだった。自分の一言が、彼をここまで追い詰めたのかもしれないと思うと、怖かった。

 しかし山南は首を横に振り、わずかに微笑むだけで答えを出そうとはしない。

「……京に、戻らねばね」

 山南は寂しそうに言った。

 馬に乗り、ふたたび京へ。

 道中も、沖田は問うた。

 しかし彼の心を覗くことはついぞできず、暗い気分で帰営した屯所は、またゾッとするほど静かだった。

「近藤さんと土方さんを、探してきます。山南さんはここに」

「はい」

 沖田は、急いで局長室へ向かう。

 逃げることを危惧したわけではない。

 はやく、彼のそばから逃れたかった。

「総司」

 ハッ、と足を止める。廊下の奥から土方が歩いてくるところだった。労るように肩を叩き、山南の謹慎部屋を指定する。

「としさん──」

「ご苦労だったな」

 彼の表情はいつもの沈着なものに戻っていた。沖田は肩を強ばらせてうつむく。

 脱走した隊士の行く末は見えている。──しかし、山南は。

 近藤や土方は、彼を許さないだろうか。

 嗚呼──きっと許さない。

 沖田の脳髄がすう、と冷えた。


 山南が戻ってきた。

 ──という噂を聞いた。

 いまは、坊城通りに面する部屋で待機しているという。そこに小窓があるから話すならばそこから話せ、と土方は言った。

「…………」

 綾乃と葵はいま、その小窓に向かうため前川邸内の敷地を歩く。屯所内が、朝から異様なまでに静かで、小石を踏む音だけが辺りに響く。

 山南敬助という男が、なにを思って脱走を図ったのか。本気で、戻らないつもりだったのだろうか。

 綾乃にはそれがわからない。彼を助ける術も、知らない。

「山南さん」

 小窓を覗くと、山南が正座をしていた。

 声に気が付き、ゆっくりした動作で立ち上がる。その表情はひどく穏やかだ。

「やあ」

「────」

 口を開けど言葉は出ない。

 明日、この笑顔がいなくなるのだ。

「私がこうなること、おふたりはご存知でしたか」

 山南は開口一番そう言った。

 ふたりはおもわず口ごもる。

「……そ、いや。でももしかしたら違うかもって」

「変わらぬことをやってしまったんですね」

 山南の髷が少し乱れている。

 いつでも身なりをきちんと整えていた彼はいない。瞳は落ちくぼみ、笑えば口元にシワが寄る。

 葵はうつむいた。

「おふたりは──これまでの方たちの死も知っていたんでしょう」

「…………」

「そのたび、どう思いましたか」

「え?」

 動揺して綾乃の瞳が泳ぐ。しかし隣にいた葵は顔をあげて「助けたいとおもいました」ときっぱり言った。

 山南は、笑う。

「ではいま、よもや私のことさえ助けたい、などと思ってやしませんか」

 ふたりは黙る。そう思ってここへ来たからだった。図星だと悟ったか山南はいいかい、と笑った。


「必ずしも、生かすことが正義ではない」


「…………」

 これは、彼なりの拒絶だ。

 ふたりはただ立ちすくみ、その意味を噛みしめる。

 そのとき。

「山南はんッ」

 突然、悲鳴のような声がした。

 振り向くと永倉に連れられた明里が、いまにも泣きそうな顔で立っている。

「明里」

 駆け寄る明里を受け止めようと、山南は格子から手を出した。小窓越しに絡め合う指が、微かに震える。

「いやや」

「──すまない」

「いやッ」

「明里」

「せやかてうち、うらみます──山南はんをこないなところに閉じ込めたお人も、局長はんも副長はん、なんもかも、うらみますよ……!」

「明里ッ」

 明里の指を強く握る。その声はまるで子どもを諭すような響きである。

 山南は、何度も、何度も、

「それはいけない」

 と首を振った。

「いけないよ。決して、何者も恨んではいけない。恨むのなら、己の心に勝てなかった私を恨みなさい」

「そんなん無理や!」

 ならば、と山南は笑う。

「決して、恨み言を言ってはいけないよ」

「…………」

 本当にこの人は優しい。

 そして、とても残酷だ。

 綾乃は思った。

 彼は、彼女の人生のなかに一切、恨みの感情を遺すことを許さぬと言っている。

 彼を恨むなど、彼女にできるわけもないことを彼は知っているから。

 ──憎しみから生まれるものなどなにもないことを、知っているから。

 明里は涙をこぼして、うなだれた。

 最期の逢瀬を交わす恋人たちを、永倉も綾乃も、葵も、ただ見守ることしかできなかった。


 翌日。

 山南敬助は切腹。

 介錯人は沖田総司であった。


 土方が自室へ戻る。

 部屋のなか、綾乃が万華鏡を覗いている。部屋の主が戻ったことに気付き、腰をあげる。が、土方はそれを制した。

「────」

 たまらず膝をつく。

 ついて、彼女の肩に顔を埋める。

 埋めて、声を殺し泣いた。

 その嗚咽が切なくて、綾乃も泣いた。


 慶応元年、二月二十三日。

 山南敬助切腹。


 遺骸は監察方山崎等の手によって、光縁寺に葬られた。


 ※

 屯所が西本願寺へと移された。

 壬生村の者へ挨拶をすませた頃には、あっという間に雪解けも近い。

 葵の体調は安定している。

 正月以来、喀血の様子がないことから、ふたりはすっかり安心しきっていた。

「芹沢さんたちのお墓とも、お別れかぁ」

 さみしいな、と未だに雪をかぶる芹沢の墓石を見る葵。雪を溶かすために水を汲んできた綾乃の手指は、かじかんで赤くなっている。

「頻繁には来られなくなるね」

「いっぱい、綺麗にしとこう」

 柄杓から水を流してゆく。

 沈黙が、先日の情景を思い起こさせた。

「山南さんも、ちょっと遠くなるね」

「うん」

「みんなみんな、お別れ──」

「何言ってんの、同じ京にはいるでしょう。来ようと思えばいつでも来られる!」

 と、綾乃が立ち上がったときである。

「おお、ここにいたか」

 永倉が手を振ってこちらに歩いてきた。

 うしろには原田もいる。

「どうしたの」

「いやさ、ちと相談があってな」

 いやに照れたようすで永倉が頭を掻いた。相談、と葵が呟くと彼は真剣な目をした。

「──俺、所帯を持とうと思う」

「えっ。所帯」

「小常さん?」

 綾乃が、歴史に残る名をとりあえずあげてみる。

「な、なんで知ってるんだッ」

「赤ん坊でも出来たの」

「ちがうッ」

「えーっ。清い関係なのォ、ゲロ甘ァ!」

 葵の質問と綾乃のウザい反応に、永倉はひくり、と口許をひくつかせて、なぜか綾乃の頭だけをはたいた。

 それから、こちらはめずらしく真剣な表情で黙る原田に目をやった。

「実はもともと、そろそろ所帯を持とうと思っていたんだ。ただ、……山南さんのときによ、明里さんが泣いているのを見たらよ」

 ──あれから。

 明里は山南との逢瀬を終えてもなお、地面に膝をついて泣き続けた。それをそばで支えてやったのは永倉だが、彼は女の涙に弱いのだ。

 すっかり参ってしまったらしい。

「旦那が死んじまうってなったときに、あれだけ泣かれるのかと思ったら……どうしたもんかと。いっそ添い遂げずに、別の男とくっついた方が小常にとってもいいんじゃねえかって思ってよ」

 つまり、覚悟が揺らいでしまった、ということだろうか。

 綾乃はハッと笑った。

「なに言ってんだ、永倉新八のくせに」

「な、なんだよ」

「小常さんがほかの男と幸せになれる? 新八っつぁん以外と添ってもいい、なんて思ってるわけ。もっと言えば、新八っつぁんは自分以外の男が小常さんを幸せにすることを許せるんだ?」

「ば、バカヤロウ。そんなこと言ってねえだろう」

「同じことじゃねーのよ。自分がいつ死ぬか分からんからなんて言い訳して。女の覚悟なめんじゃねーよ。女はね、男を信じてりゃそれだけで強くなれンの! ケツ穴の小せえ男と一緒にしないでちょうだい」

 という綾乃に、原田は感心したように唸った。それからちいさく「所帯か」と感慨深げに呟く。

「サノが静かだ──おかしい」

「変な虫、食った?」

「失礼な奴らだな。人が真剣な顔してるだけなのにッ」

 と、怒る原田に「それが不思議だって言ってるのに」と葵は大真面目に言った。

 永倉はそうかそうだよな、とうなずく。

 やがてよおし、と大きな声をあげた。

「そうだ。迷うことなんかなにもねえ!」

 と、原田の手をとって、ぐいと引く。

「来い、俺の覚悟を見せてやる」

「なに、なんぞ。お前、おれと結婚するの」

「馬鹿かお前は。そんなわけねえだろう──俺の男ぶりをちゃんと見ておけ!」

 彼らは局長室へと向かった。


 後日。

 慶応元年、永倉は祝言をあげた。

 数日後に原田も茶屋の看板娘、まさと西本願寺であげた。

 新選組にとっては珍しく、大変めでたい報せが続いたのであった。


 ※

 ──江戸へゆく。

 隊士募集のためだ、と土方は言った。

「私、行きたい」

 葵は手をあげた。体調不安はあるものの、近頃めっきり影をひそめている。喀血したことを知らない近藤や土方は、いいだろうとうなずいた。

 とはいえ、また倒れてもらっては困る。

 綾乃は付き添いのため二回目の東下を希望し、土方、伊東、斎藤らとともに江戸へと出立した。


 盛り上げ役がいない旅路であった。

 ふたりは、決して遅れはしなかったものの、たらたらと気の抜けたような歩き方で、三人の後ろを歩く。

「昨夜から 悲鳴をあげる ふくらはぎ」

 唐突に、俳句調で呟いたのは意外にも葵だった。

 一瞬の沈黙ののち、綾乃がぼそりと返す。

「肋骨が 坂道のたび 軋み出す」

 ぶふ、とお互いに吹き出しすふたり。ちらりと訝しげに一瞥し、土方はひたすら黙って前を進む。

 武士は歩行中に口を開かない。

「思い出す 故郷の姿 ビルばっか」

「でもいまは 右も左も 草ばっか」

 リズムに乗ってきたようだ。

「そうだけど 方角わかる あら不思議」

「え、すごい わたし全然 わかんない」

「お前はな 言われなくても わかってる」

「うわひどい お前ホントに 友達か」

「友達だ だからなんでも 言えるのよ」

 えへへェ、とだらしなく笑いあって、綾乃と葵はようやく俳句調の会話をやめた。

 伊東がくすくすと笑いながら、凄いですねと褒める。

「俳句で会話ですか」

「暇なんです」

 と、葵が言った。

「サノみたいなのがいるわけでもなし」

「なんか暗いよねこの旅路」

「暗くて悪かったな」

 そこだけ、土方は口を開いて、再びむっつりと黙りこむ。

「ねえ、まだ?」

「──もう少しだ」

 歩くことにすら飽きたのだろう綾乃の質問に、これまでほとんど喋らずについてきた斎藤が、なだめるように答える。

 むっつり黙っていた土方は、視線を下に落として舌打ちをした。

「くそ──草履が傷んできやがった。……斎藤、俺の草履の替え持ってねえか」

「俺が……?」

 と、斎藤が戸惑いの声をあげたとき、伊東がはりきって言った。

「さあ、ここを行けば江戸に入ります」


 江戸に到着した御一行は、一泊したのち、それぞれ好きな場所に向かうことになった。

 当然土方は、姉の嫁ぎ先である佐藤彦五郎宅へ向かう。日野へは綾乃も初めてだ。

 綾乃と葵、斎藤はしずしずと後ろをついていった。


 ──佐藤家。


「姉上、帰りましたよ」

 家にはいるなり、少しばかり弾んだ声で土方が言った。

「歳三ッ。やだ、帰るなら文くらい」

「お気遣いなく。義兄さんは」

「今、稽古に行ってるのよ。あらやだ、お連れさんもたくさんいるじゃない。さ、あがってあがって」

 と通された先には、姉・のぶの子どもたちが、バタバタと慌ただしく遊んでいる。

 そのうちのひとりが、パッと頬を染めて駆け寄ってきた。

「歳三叔父さん、ご無事でなによりですッ」

「おう、達者にしてたか源之助」

「はい!」

 くるくると大きな瞳を輝かせて、源之助は頷く。あまりの熱視線に土方は苦笑した。

「おい、お前ら適当にくつろげよ。俺ぁ実家よりもここのが居心地がよくてね」

 すっかりリラックスモードである。

 とおもえば次の瞬間、ヨシと膝を叩いて立ち上がる。

「源之助。お前銃の操銃法を勉強しているそうじゃねえか。どれ、どんだけ巧くなったか俺に見せてみな」

「はいッ」

 叔父と甥は庭へ出て行った。

 偉くなっても、とのぶがお盆に茶器を乗せてやって来た。

「ああいうところは、変わらないわねぇ」

「あ、お手伝いします」

 綾乃が立ち上がった。

「ありがとう。あなた──女の子なのに男装しているのね、背丈も高いし」

「へへ」

「私たち、動きやすいようにって袴を履いてきたんです」

「へえー、お転婆さんなのね。いくつ」

「十九です」

「あらっ、まあ。そう、ごめんなさい。まだ十五、六だと思って」

 当時の人は、みな全体的に大人びている。

 よく言われます、と涙ながらに答える綾乃を笑って、のぶはお茶菓子を忘れたことに気付き、再び台所へと戻っていった。

 それと入れ違いに、庭から土方と源之助が、ニコニコと戻ってくる。

「源之助、巧くなったな。俺ぁ嬉しいよ」

「えへへ……」

「どうだ、京に一緒に来て新選組やらねえか」

「本当ですか!」

「おのぶ姉には俺が聞いてみるからよ。お前ならいい戦力になる」

「お願いしますッ」

 と、そんな話をして、土方が意気揚々と台所にいる姉の元へ行く。

「姉上──」

「いけませんよ」

「は」

 突然の否定に、土方は閉口した。

 のぶは、弟の顔も見ずにさらりと言い放つ。

「源之助にはさせません」

「……き、聞いて」

「特に何も聞こえませんでしたけど、お前の言うことくらいわかりますよ」

「い、いやでもですよ。源之助だってもう」

「おだまんなさい!」

 ピシャリ、と言われて土方はむくれた。

「源之助は、江戸で、立派な男になるんですッ。 お前に京に連れて行かれて、そこで万が一命を落としたらどうしますかっ」

「…………」

 姉の一言でしゅんと柱にもたれる土方は、新選組の鬼副長も形無しである。

「そんなことは許しませんからね」

「……わかった、わかりましたよもう」

 土方は早々に折れた。

 すごすごと居間へ戻る。その姿を見つけたとたん、待ってましたと言わんばかりに、立ち上がった源之助。

 土方はにっこり笑った。

「それじゃ、」

「源之助、お前ェは江戸で立派な男になれ」

「────」

 ああ、説得できなかったのだな。

 源之助は切ない目をして、小さく頷いた。

「やれやれ、ようやっと落ち着ける」

 よっこいしょ、と腰を下ろす土方を見て、葵はふと口を開いた。

「あの、沖田家って」

「ミツさんの家か」

「どこに、あるのかなーと思って」

 もごもご言った葵に、土方はにやりと笑う。

「すぐそこだ、連れてってやる」

 たったいま降ろしたばかりの腰をあげて、土方は玄関へ向かった。

 アクティブな男である。


 ────。

「あいつは剣の腕といったら一流だった」

 道すがら、土方は言った。

「ちいせえ頃からな。天才だ何だと褒められて、仲間内からは妬まれて──いろいろ大変だったろうぜ」

「────」

「おっ」

「ぶっ」

 と、いきなり立ち止まる土方に、考え事をしていた葵は激しくぶつかった。

 赤くなった鼻頭を擦り、土方の視線の先を見ると、一人の女性が風呂敷を片手に前を行く。土方は口角をあげた。

「おミツさん」

「…………」

 沖田ミツ、総司の姉だ。

 ひょい、と手をあげる土方の顔を見るなり、女性はたちまち笑顔になって、元気いっぱいに走ってきた。


「歳三さんッ」

「おっと、」

 勢い余って抱き付いてきたミツを笑って受け止める。それから土方は頭を下げた。

「久しぶりです。ミツさん」

「いつ帰ってきたの、みんなは?」

「ついさっき。他の連中は向こうに残ってる。試衛館で来たのは山口一くらいで」

「まあ、山口くんが。みんなは元気かしら」

「ああ。総司も、元気だよ」

「…………良かった」

 と、胸を撫で下ろしたミツは、ようやく葵の存在に気付いたようだ。

「隣の子はだぁれ。もしかして歳三さんの」

「違う違う。どっちかっていうと、──」

 土方は、意味深に言葉を濁した。

 その意味を敏くも気付いたか、ミツの瞳は目一杯見開かれ、じろじろと上から下まで舐めるように見る。

 やがて、にっこり微笑んで「お名前は?」と言った。

「あっ、徳田葵です。いつも総司さんにはお世話になって──」

「というよりは、どっちかというとうちの総司がお世話になってるんだわ、きっと。どうもご丁寧に──さ、上がって。今林太郎さんはいないけど、もうすぐ帰ってくる頃だと思うから」

「あ、あの」

「俺は一度戻る。義兄さんが戻ってるかもしれないから」

「ちょっ、と」

 まさか二人きりにされるとは思わず、土方の袖を掴む。

「大丈夫だよ。ミツさんは怒ると怖ぇが女には優しいから」

「一言余計よ」

「じゃあ、女二人水入らずでごゆっくり」

 おどけて、土方はふたたび同じ道を帰って行った。

 葵の手が心細そうに宙をさ迷う。

「…………」

「まったく、いらないことばかり言って」

 口ではそう言いつつも、ミツは上機嫌に葵を家の中へ招待する。

 覚悟を決めよう。

 葵は緊張しながらも、すごすごと家の中に入った。

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