芽生え

 七月の初め。

 屯所の前に張り出されたこの法度。

 ──世に言う、軍中法度である。


  一、役所を堅く相守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事

  一、敵味方強弱の批判、一切停止の事

  一、昼夜に限らず急変これ有候とも、決して騒動致すべからず心静かに身を堅め下知を待つべき事

  一、組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし。もし臆病を構えその虎口逃来る輩これ有るにおいては斬罪微罪その品に随ってこれを申渡すべく候、予て覚悟未練の働きこれ無き様、相たしなむべき事

  一、烈しき虎口に於いて、組頭の外、死骸引退く事をなさず、終始その場を逃げず忠義を抽んずべき事


 現代で有名な局中法度は、この軍中法度と禁令を元に創られた。新選組のポリシーがとにかく退く者は斬る、であったことが伺える。

「うわあ、守れるかなあ」

 その立て札を眺め、沖田は一人言としてつぶやいた。

「組頭のお前がなに言いやがる」

 しかし土方が聞いていたらしい。

 けど土方さん、と沖田は眉を下げる。

「これに今までの禁令も守れってんでしょう。そりゃ辛ェや」

「何が辛ェ。こんくらい守れねえで武士なんか気取れるわけがねえ」

「──私は別にいいし。そういう、その、武士とか」

「しょっぺえな、てめェは。この新選組は近藤勇が作り上げた、そして近藤勇は本物の武士を目指してるんだ。いや、もうなったつもりでいやがる」

「作り上げた、って……土方さんがさせたようなもんじゃあないですか」

「なんだよ、いいだろ。俺の夢はな、近藤勇を一国一城の主にすることよ」

 と、土方は得意げに笑う。

 戦国の世じゃないんだから、と沖田は苦笑した。

「あの人は本気で考えてるぜ。頭固ェからな」

 一国一城の主、か。

 沖田は、今まで武士として生きることの価値を見出したことがない。

 しかしこの軍中法度を見て、武者震いをした自分がいたこともまた、事実だった。

 沸き上がる興奮を静めよう、と非番の沖田は町中へ繰り出した。


 ──早く帰らねば日が暮れる。

 そんな風にせかせかと歩いていた娘は、不意にぶつかってしまった男に謝ろうと顔をあげて、ひっと喉をつらせた。

 いつの間にか、巨漢の男たちに囲まれている。

「……あ、あの──」

「これこれ、そんなに急いでどこへゆく」

「いてえなぁ嬢ちゃんよう」

「医者代、身体で払ってもらおうじゃねえか、えっ?」

「そ、そんな」

 むしろ、端から見れば娘の方がぽっきりと折れてしまいそうな細さである。

 難癖をつける男たちはでっぷりと太った腹を揺らして、顔を近づけてきた。

 どうにも困っていたときである。


「女一人にどれだけ集っていやがる、腰抜けェ」


 バッと娘が振り返れば、そこにはまだあどけなさを残す表情の侍。

「ああ?」

「なんだ貴様ッ」

 男たちは、抜刀した。

「──新選組副長助勤、沖田総司。邪魔立てすれば斬り捨てますぜ」

 名乗った侍は、重心を低めに柄を握る。

 先日の池田屋事件から一躍有名になった新選組。その名を聞くや男たちの旗色が変わった。

「お、おい新選組って」

「池田屋の……」

「チッ、ずらかるぞ」

 目の前の侍に怯えたように、一目散に逃げ出した。

「待ちなよ!」

 侍は楽しそうに追いかける。

 娘はしばらくの間、ぼーっと突っ立っていたが、しばらくして先程の侍が何事もなかったかのように戻ってくると、慌てて頭を下げた。

「あ、ほ、ほんまにおおきにっ」

「────」

 そんな娘を見て、侍は少しばかり目を見開いてから、無言で頭を下げると再び飄々と歩き始める。

 泰然自若と歩をすすめる侍の後ろ姿に、娘は頬を染めた。


 ※

 軍中法度発令から一週間後。

 佐久間象山さくましょうざんが三条木屋町にて、河上彦斎かわかみげんさいらによって暗殺されたと情報が入った。

 面識はないが、未来で写真を見たことがある二人にとっては、有名人が殺されたような感覚であった。

 うそ、と葵がお手玉を落とす。

「マジで」

「佐久間象山って、おれは新世界の神になる、って叫んだ奴だべ?」

「そうかも……」

 違うと思う──。

 声こそかけなかったが、部屋のなかで刀の手入れをしていた沖田と、沖田隊に所属する数人が怪訝な顔をした。

「しかし怖いね。わたしたちもいつ殺されるかわかったもんじゃない」

「暗殺されたらどうしよう」

 暗殺されるほど顔は売れていないだろ、と声にこそ出さないが、隊士の数人はぐっと笑いをこらえる。

「遺書書いとくか、わたしの死骸はぜひ土方さんとともに」

「じゃあ私は────」

 はた、と葵が言いかけて、ぐっと口をつぐんだ。意地悪な綾乃はにやり反芻する。

「私は、なに?」

「なんでもない」

「葵、好きな人いるの」

「……いないよ」

「あ、やっぱりあの人のこと好きなんだぁ」

「いまいないって言ったよね?」

 ムッとした。

 しかしここで、あの人って誰だ、と聞いたら意地悪な綾乃は「言ってもいいのぉ?」とほざきながら笑うだろう。

 葵はぐっと黙る。

「素直になりなよ。平成とちがって、いまはちょっとしたことで取り返しがつかなくなっちゃうような時代なんだから」

「どういう意味」

「死が近いってこと」

「────」

 心なしか大きめの声でそう言って、「まあ、それは」とトーンを落とした。

「葵が一番わかってることなんだけどさ」

「…………」

 後悔という二文字は、いまでも残る。

 大切な人へ、生きているうちに「ありがとう」と言葉で伝えられなかったことへの後悔は、消えることがない。

 葵は、芹沢のときにそれを知った。

 人は死ねばそれで終わりなのである。

「分かってるよ、ちゃんと」

「──さて。明日のバイト準備しようっと」

 勢い良く立ち上がって、綾乃は大きく伸びをした。部屋を出ていきざまに、知らぬ顔で打ち粉をのせる沖田の肩をばしりと叩く。

「いったァ!」

「────」

 葵は、やいのやいのと文句をいう沖田を眺めて、ひとつ、ため息をついた。


 それからさらに一週間後のことである。

 京都御所にある九個の門のうちの一つ、蛤御門の近くで、その激闘は始まった。

 たったの一日で終結したこの戦は、後に『禁門の変』や『蛤御門の変』と呼ばれることになる。

 首謀者は、八月十八日の政変や池田屋の仇を討つため潜伏していた、長州の熱血漢たちだった。以前伏見に久坂や木島が潜んでいたのも、このためだ。


 綾乃は、この戦の顛末に大変腹を立てていた。


 まず結果として、長州藩は敗れた。

 以前にメンチを切り合った久坂玄瑞は、公家の鷹司邸内で切腹したと聞いた。

 別にそれで腹を立てたわけではない。

 覚えているだろうか、池田屋事件が何故起こったのかを。

 そう、京都焼き討ちを死守するためだったはずだ。

 しかし長州勢力は今回の戦で、鷹司邸に火を放ち、さらに会津藩も、長州勢が隠れてるらしいという中立売御門付近の家屋に火を放ったのである。加えてその火は北風にあおられて、南へ拡大してしまった。

 たちまち火の海となった京は、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の間のなんと三分の二が焼き尽くされることになる。

 池田屋で止めた計画を、違う形で実現してしまったのだ。


「京のどんどん焼って。なめたネーミングしやがって」

 ふざけてんのか、と綾乃は原田の腕に包帯巻きながら憤る。

「ネーミングセンスに怒ってたの」

「いや違ェよ、なんで放火するんだってことに怒ってんだよ」

 と、ふて腐れたように押し黙った。

 ──わずか一日の戦だったが、戦火は三日に渡って燃え続けた。

 運良く逃げた人々も、山中から市中の火の海を眺めるしかできず、この大火で約四万軒の家が焼失したという。

 幕府側は「この責はお前たちにあり」と責任をむりやり押し付けて、尊攘派志士三十三人を斬首した。

 葵は、永倉の腕の傷を水で浚いながら呟く。

「何がむなしいって、新選組はまったく活躍していないってことだよね──」

「言うなッ」

 原田はわめいた。

 その新選組は──といえば。

 長州を追ってあっちへ行けば逃走後、こっちへ来ても逃走後、ようし次、と意気込んでる間に戦が終わっていたのだった。

「はぁ──」

 原田が深いため息をつく。

「怪我なんざすぐ治らァ。──けど長州とやり合ってもねえのに、なにゆえ怪我なぞするか。もうわからんぞな……」

「落ち着け左之、やりづらい戦だったんだ。会津や桑名の手伝いが出来ただけ良かったじゃねえか」

 という永倉も、溜め息は多い。

「また京の人たち、危険な目に遭わせちまったな」

 気にするところが優しい男だ。

 女ふたりは、やるせない気持ちが込み上げてきてむっつりとうつむいた。


 ※

 京の町が焼け野原となり一週間。

 土方と沖田は、先日の戦に対しての慰労と称して茶屋にいた。

「なんだか疲れますねえ」

 ここのところ、と言いながら頼んだ餅がいつくるかと沖田がソワソワしている。

「いろいろあったからな──」

「うん。あっ」

 茶屋の前を早足で通りすぎる影を見つけて、沖田は短く声をあげた。

 葵である。

「どうした」

「葵さんが通った」

「ほう」

「なんでだろう」

「いいじゃねえか別に」

 二人前の餅がきた。土方はさっさと受け取ると、怪訝な顔で餅を噛み千切る。

 いや、と沖田の目はいまだに葵の後ろ姿を追っている。

「なんだか慌てているようだったから──」

「たまにはひとりにさせてやれよ。いつもむさ苦しいところで女一人頑張ってんだから」

「そうですけど──いや女二人の間違いでしょう」

「一人のようなもんだろ」

「本当に素直じゃないったら。ちょっと見てきます」

 と、沖田は立ち上がって小走りに追いかけた。

 ひとり残された土方は、沖田の分として手付かずであった餅に目を移し、手を伸ばして躊躇なく噛みついた。


(──あっ、)

 沖田は木陰に隠れた。

 いや、隠れるつもりはなかったのだが、何故かしゃがんでいる葵のほかに知らない男がいたのである。

 耳を澄ませる。葵の声が聞こえた。

「すみません、助かりました」

「────」

「ありがとうございます──え? あ、たぶん大丈夫。いまのところは」

「──、────」

 どうやら葵の鼻緒が切れたようだ。通りがかった貴族然の男が紐で結いなおしてやったらしい。足をくじいたか心配しているようだが、葵は終始笑顔で「だいじょうぶ」と言いながら、鼻緒を結いなおす男を見つめていた。

(…………)

 男の言葉は、しゃがんで下を向いているため、沖田には聞き取れない。

 やがて男が顔をあげて立ち上がる。立ってみれば驚くほどの長身で、遠目から見ても大変な美丈夫であった。

「本当にありがとうございました」

「挫くとあとに響く。いまは平気でも、しばらく足もとには気ィつけな」

「はい」

(えらく楽しげだ。──ひょっとすると、ああいうのがすきなのか。……)

 ふ、ん──、と鼻をならした。

 なんとなく面白くない。

 沖田はこっそりと木陰から離れて、茶屋に戻った。

 苦吟しているのだろうか、土方が長椅子に座ったまま空を見上げてぼんやりしている。

「────」

「はやかったな」

 戻った沖田に気が付き、土方は楊枝を噛みながらのんきに左手をあげた。

 沖田は、どことなく沈んだ顔で、自分の餅があるはずの皿に目を落とす。

「ちょっと、私のお餅は」

「当分戻らねえかと思って、固くなる前に食べた──」

「もう。餅ばっかり食べて、いつか餅っ腹になっても知りませんよ」

「なんだよお前ェ」

 なんだか刺々しい沖田に、土方は何かを悟ったのかしばらく黙り込む。

 何かあったのか、と問い質したところで、沖田はふて腐れたらなかなか口を開かない。

 話題を変えようと土方はなあ、と声をあげた。

「総司よ」

「…………」

「お前に会いに、この間屯所に女が来たぜ」

「私に?」

「千代って女。知らねえか」

「千代──いいえ、知りません」

「お前に礼がしたいと言っていた」

「あ、でも。もしかして」

 沖田の脳裏に少女の影がよぎる。

 ぼんやりとした顔で「この間ね、」と湯呑みをもつ。

「柳のようなほそっこいおなごが絡まれていたところを助けたんです。ひょっとすると、その子かな」

「なんだそれ、聞いてねえぞ」

「いま言いました」

「お前、そういうことは一言くらい」

 土方の小言を聞き流すように、ずず、とお茶をすすって沖田は首をこきりと鳴らす。

「千代さんっていうんだ」

 話聞けよ馬鹿、と突っかかったが、沖田の背中はなんだか寂しげだ。

 土方は眉をひそめた。

「いまなにを考えている」

 と思いきって問うた彼に、沖田は微かに笑んだ。

「──知らない気持ちが、騒ぐので。静めようと戦っているんです」

「は、」

 知らない気持ち?

 と、土方は微妙な顔で沖田を見つめる。

「いや、知らないことはないか。むかし、近藤先生がトシさんばっかり構い倒しているのを見たときも、おんなじような気持ちになったことがあります」

(────)

 キョトン、とする土方に沖田は頭を掻いた。

「おまえそれは──」

 やきもちじゃないのか。

 喉元まででかかった言葉は、止まる。

 沖田がなにを見てきたのかは知らないが、先ほどの流れから見て葵が絡んでいることは間違いない。

 葵絡みでやきもちだと。

「はっはーん」

 土方は、にやりと笑って楊枝をプッ、と吐き捨てると「銭はここに置く」と店奥に言って立ち上がった。

「おい、今日は俺がおごってやるよ。初物は祝わねえとな」

「おごるもなにも結局、餅ぜんぶ土方さんしか食ってないじゃないですか! ──しかもなんですか初物って、餅なら今年入って何度も食ってます」

「バカやろ。餅は餅でも、そのもちじゃねえだろう──」

 笑いが止まらない土方を気味悪そうに見る沖田が、この気持ちの正体に気付くのはそう遅くない。


 ────。

 翌日の朝。

 女ふたりは大量のおにぎりを生産していた。稽古場にいる隊士への陣中見舞いである。

「味付けどうする、手汗で若干塩味ついてるけど」

「いいよ、別に私たちが食べるわけじゃないし」

 何より塩だって貴重な時代だ、贅沢を言ってもいられまい。さすがに一年以上滞在していると、江戸時代の感覚になじんでくる。

 いまでは、シャンプーがなくても嘆かないほどまでに成長(あるいは退化)しつつあった。

「それで、墨を買いに出たんだって?」

 さっきの話、と綾乃が切り出した。

 葵が昨日起こったことを伝えようとしていたところだったのだ。

「ああ、うん。それでね、墨がなくなりそうだったからあわてて買いに出たら、途中で鼻緒が切れちゃって」

「あら」

「そうしたら偶然通りかかった人がね、自分の結い紐をほどいて鼻緒の代わりに結んでくれて」

「え、男前」

「行動もそうだけど、顔も男前だったの。六尺(百八十センチ)くらいあったし、服はなんか平安貴族が着るような──直衣のうしを着てて」

 と、葵は興奮したように最後の握り飯を皿に盛る。

「急いでいたから名前を聞きそびれて、どこの誰かは分からなかったんだけど」

「へえ、朝廷の誰かかな。直衣なんて庶民は着ないよね」

「うん──ただそのときにちょっと挫いたみたい」

「痛いの?」

「昨日は平気だった。でも朝起きたらちょっとね、でも大丈夫。……よしできた!」

 持っていこう、と言って葵はこれでもかと皿に積んだ握り飯を満足げに見つめた。重くて持てないと困るので中皿ふたつにわけている。ふたりはそれを稽古場に持っていくため、玄関で草履を履いた。

「あれ葵さん。──と、綾乃さん」

 稽古場の近くまで来ると、ちょうど沖田が休憩のために井戸水を飲んでいるところに出くわした。心なしか沈んだ顔をしている。

「おはよう、沖田くん」

「おはようございます。……」

「陣中見舞いで作ったの。稽古場のみんなに」

「わあ、ありがとうございます!」

 と、言いながら沖田はじっくり葵の足もとを覗き込んだ。

 昨日、貴族然とした男に結んでもらった紐を見つめている。

「な、なに」

「その鼻緒──昨日あの辻のところで結ってもらっていましたけど、お知り合いですか」

「え?」

 見てたの、と葵は驚いた顔をした。しかし沖田はなにも言わず、つまらなそうに鼻緒を見つめている。

「ちがう、はじめて会った人だよ」

「ふうん──」

 おや、と綾乃が目を見開く。この反応は胸をくすぐるものがある。──綾乃は無意識ににやりと笑った。

 何故それほど足元を見られているのかわからず、葵はどぎまぎしてすこし足をずらした。すると右足首に電流が走ったような痛みが出た。

「いたっ」

 やはり挫いていたようだ。早朝から比べると痛みがひどくなっている。

「大丈夫ですか。右の足ですね──あ、蟻通くんちょっと」

 と、ちょうどこちらに寄ってきた蟻通勘吾ありどおしかんごに声をかけ、葵の持っている皿を持つように指示をした。

「それを稽古場に持って行ってください」

「わかりました」

 と、彼らしいすこしぼんやりとして人の良い笑顔を浮かべると、葵から皿を受け取った。

「あのう、それと沖田先生にお客様が」

「はい、私に?」


「沖田様!」


 と、蟻通の後ろから声がした。“沖田様”などと呼ぶ人間はそう多くない。

「あ、ああ────貴女は」

 そこにいたのは、千代であった。

「覚えていらっしゃいますか。このあいだ、助けていただいた──」

「あなたが千代さんですか」

「は、はい。どうしてもお礼がしたくて」

「そんなの別に」

 と、言いかけて後ろにいる葵をちらりと見た。

 微かに青ざめているようにも見える。足の痛みがひどいのかもしれない、と沖田は内心で慌てた。

「これが仕事ですから。すみません、今ちょっと忙しいので、また」

「あ、じゃあこれ──」

 そう言って千代が差し出してきたのは、綺麗に千代紙で彩られた箱である。

「せめてものお礼を、と思って」

「どうも──ほら、葵さん」

「は、え?」

「なにをしているんですか。足が痛むのでしょう、早く中へ」

「あ、あの」

 千代が戸惑ったように声をかけるも、聞こえているんだかいないんだか。

 沖田は切羽詰まったような顔をして「心配ばっかりかけて」と小言を言いながら、屯所の中へ入ろうとする。

 さすがに可哀想だ、と葵が沖田の袖を引いた。

「なんです」

「いや、あの──女の子が」

「え」

 沖田は驚いた顔をして千代を見た。まだいたのか、とでも言いたげである。

「まだなにか」

「えっと、その」

 千代は葵をちらりと見てから、「また来ます」と言い放つと、走って帰ってしまった。

 あまりにも冷たい対応に、葵は驚いた顔をして沖田を見た。

「どうしたの?」

「なにが?」

「な、なにがって」

「どうしたのって聞きたいのはこっちですよ、青い顔して──足が痛いんでしょうに。そうやって我慢ばっかりしているともっと悪化するんですよ!」

「うっ」

 ふ、とため息をつく沖田の表情が、まるで自分に呆れているように見えて、葵は胸の辺りが重く締め付けられた。込み上げるなんとも言えない、初めての感情に戸惑って、葵はぐっと唇を噛んでうつむく。

 だから、

「私、あの日、無茶しないでって言ったじゃないですか」

 と、掠れた声で言った沖田の表情は見ていない。しかし、半ば己のなかでタブーとなっていた“あの日”の話題を沖田が出したことに驚いて、パッと顔をあげた。

 顔をあげて、まばたきをした刹那。

「いつも、心配ばっかりかけて。つぎ無茶したら本当に怒りますよッ」

 ただ、ただまっすぐに見つめてくる、彼の瞳の光があまりにも眩しくて、葵は硬直した。

「ご、ごめんなさい──」

 やっとのことで喉からその一言を絞り出す。動悸がして、顔の中心が熱を帯びる。

 いつか、だれかが言っていた。

 “恋に落ちるのは、まばたきの瞬間”だと。

「わかってくれれば、いいんです」

 にっこり笑った沖田の顔を見る。

 葵は初めて、どうしようもなく切ない気持ちを知った。


「…………」

 という光景を、握り飯を盛った皿の重みも忘れて綾乃は蟻通とともに端から凝視していた。蟻通も目の前のやり取りに気恥しくなったかそわそわして綾乃嬢、とつぶやく。

「あのう、握り飯──もっていかないんですか」

「あっ」

 ハッと意識を取り戻したように蟻通に顔を向けて、ああ、とうなずいた。

「そうね。そうだった。ちょっと広瀬香美が頭のなかをね……」

「はい?」

「いやいや、そう。おにぎりね、ボーイミーツライスボールだよね。わかる」

「ぼ、ぼぉい」

「行こう、フォーリンラブの現場は邪魔しちゃいかん」

 ほーれん……、とつぶやく蟻通を連れて、綾乃はそそくさと稽古場へ向かう。

 稽古場はちょうど休憩に入ったところで、中から山崎や原田が出てくるところだった。

「おおっ、握り飯だ!」


「差し入れでえす」

 ありがてえ、とさっそく原田は握り飯をひとつ手に取る。

「あれ」

 葵はどうした、と周りを見回した。その視線の先に沖田と葵の姿を捉えたのだろう、おおいと手をあげて声をかけようとした原田に、綾乃はダメッ、と叫んで彼の腰元をがっしりと抱き寄せる。

「な、なんでえ!」

「邪魔したらコロス……」

「えっ⁉」

「──あのふたり、いまちょっと取り込んでいるから誰も一切話しかけないで。お願いだから、たのむから」

「わ、わかったよ」

 日はすっかり昇り、あたりはいつにも増して温度が高い。

 じめついた湿度は腹立たしいが、沖田と葵の空間だけは青い風が涼やかに吹いているような空気さえある。

 その時間が一分一秒でも長く続けばいいと、綾乃は握り飯を配りながらひっそりと願っていた。


 ※

 しかし、現実というのは残酷である。

 沖田が草むらに這いつくばって血を吐いたのは、わずか二日後のことだった。

 報せをうけた近藤はすぐさま尾形に医者の手配を頼んだ。土方は原田と永倉に沖田を部屋の中へ運ぶように指示を出す。新選組のなかでも中心的人物のひとりである沖田の凶報に、隊士は狼狽した。

 綾乃と葵は、一歩遅れて報せを受けた。運ばれる沖田を目の前に、葵は身体が動かない。

 やがて彼女はひどく震えた声で、「労咳」とだけつぶやく。

 まさかもう発症するなんて──と綾乃は思ったが、四半刻ほどしてやってきた医者の見解も同じく労咳であった。

 その言葉を聞いた瞬間、周りから絶望にも似た溜め息があちこちから漏れる。

「嘘だろ」

「なんで、よりにもよって総司が」

 絶句する原田に、井上も唇を噛みしめて膝にこぶしを叩き付ける。

 と、外ががやがやと騒がしい。昼番であった藤堂の隊が見回りから帰ってきたようだ。

 誰から話を聞いたか、

「総司はどうですッ」

 と、藤堂がものすごい勢いで部屋に入ってきた。

 その額には池田屋の際に斬られた傷が生々しくうつる。土方は苦笑した。

「心配するな、平助」

「労咳は、治らないって──」

「バカをいえ。総司がそんなことでくたばるたまかよ」

「────」

 しかし土方の顔は暗い。

 労咳は移る病だ。土方は藤堂に「長居するな」と言って部屋を出た。

 沖田はそれからひと月もの間、風通しの良いところでの絶対安静を余儀なくされた。


 それから半月後の元治元年八月初め。

 見た目はすっかり回復した沖田は、不服そうに身体を起こした。

「ねえ土方さんったらもういいでしょう。私、元気になりましたよ」

「馬鹿野郎、せめてあとひと月待ちァがれ。俺からすりゃあもう二度と床から出るなと言いてェくらいだ」

「ひと月ひと月って、いつまでもひと月待ってちゃそれこそ床から出られないですよ。あと半月でしょ」

「……ふむ。そういや最近、徳田が来ねえな」

 喧嘩したか、と含み笑いを浮かべながら言った土方に沖田は「何故いきなり葵さんの話なんだ」と言いたげにキョトン、とする。

「私が来ないように頼んだんですよ。移るとまずいから……」

「そのわりに、俺にはいろいろ頼むじゃねえか」

「あなたにはどうせかかんないから」

 と、なぞの自信を見せる。土方がなにかを言う前に退屈だなあ、と布団の中で伸びをした。

「それに今日は、どこぞにお呼ばれしたとかでおふたりともいないんですよ」

「お呼ばれたァ、だれに」

「さあ、そこまでは」

 土方はふたたびふむ、と呟いた。


 ──その頃。

 飛脚から受け取った文にて、女ふたりは京都青蓮院塔頭金蔵寺に呼ばれていた。

 差出人は不明。この場所で何が起こるのかも記載はなく、文にはただこの場所で待つとだけ書かれたのみである。

 史実に聡い綾乃でさえもいまいち思い当たることがなく、不安に思いつつも目的地へと向かった。

 しかしそこで、ふたりは目を見張る光景を目撃したのである。

 こじんまりながらも賑やかな空気に、白無垢の花嫁。

 これは──。

「祝言だ?」

 綾乃はつぶやいた。

「だれの」

「わからん」

 花嫁の顔を見ればわかるか、と綾乃が覗きこもうとしたときである。

 小綺麗な男がこちらに駆け寄ってきた。

「おおッ、待っちょったぜよ」

「……り、龍馬──」

「龍馬が祝言?」

 なんと、坂本夫妻の内祝言である。

 葵は目を白黒させて綾乃に尋ねた。

「ふ、二人の婚姻ってもっと後じゃないの」

「──あ、でもたしかに楢崎龍が晩年、元治元年八月初めの辺りに内祝言をやったと言ってたような」

「じゃあ、これがその」

 坂本が気恥ずかしそうに頭を掻いて、おりょうや、と嫁になる女──楢崎龍を呼んだ。

 おりょうは気の強い性格で知られている。ふたりは、ごくりと喉をならした。

 第一声は、案の定。

「なにをしとるん龍馬さま、早よう御支度しぃ、もう間もなく始まるねんでっ」

 と坂本を叱る声だった。

 言われた方も「ほに、あのとおりの逞しいおなごじゃ」と苦笑する。結局、おりょうはヘアセットをするため、奥に引っ込んでしまった。

 綾乃は坂本の乱れた髪の毛を整えながら、龍馬ったら、とわらう。

「乙女姉さんと性格そっくりな人を好きになるんだね」

「乙女姉まで知っちょるかよ。俺ァ、もうおまんらがこわいぜ」

 坂本龍馬と楢崎龍の出会いは、旅籠での出会いだった。

 父親を亡くして、困窮の危機に立たされていたおりょうを哀れに思い、坂本がなんやかやと世話を焼いたのが始まりらしい。

「おりょうがの、七条にある扇岩っちゅう旅籠で働いちょった。ほんで、名前を聞いたら俺と同じ字を書くというやいか。天の導きかと思うた」

 それを聞いた葵が、「顔がよかったからじゃないの」と驚いたように聞くと、坂本は首を振る。

「あいつの男気あふれる性格が面白うての……」

 おりょうの性格を表すに相応しいエピソードがある。

 以前、母親が悪い男に騙されて、妹たちが女郎や舞妓として売られること知った。

 それを許しておくものか、とおりょうは物を売り、金を作って大坂へ行き、短刀を懐に忍ばせて死ぬ覚悟で男に啖呵を切ったという。

 綾乃がそのままを坂本に伝えると、とうとう末恐ろしくなったか、青い顔で呟いた。

「──随分と、詳しいねャ」

「それで、どうして呼んでくれたの」

「はて。なんとなくおまんらには、紹介しておきたいと思うてのう」

「龍馬さまッ」

 鼻高々に語り始めた坂本に向けて、ヘアセットを終えたおりょうが遠くから叫んでいる。

 さすがにこれ以上花嫁を怒らせては元も子もない、と綾乃と葵は慌てて坂本の背中を押し、主役の席に向かわせた。

 そこで、やんやと騒がれる坂本を見て、葵はふっと小さく微笑んだ。

「──結婚、いいな」

「……あ、葵ったら結婚願望あるの」

「うん、ある」

 珍しく、躊躇のない返答だった。

 葵の瞳はただじっと、坂本夫妻を見つめている。

 その横顔をみた瞬間、ぴんときた。

「はっはーん」

 綾乃はにやりと笑う。

 なに、と戸惑う葵にそうかそうか、と何度もうなずく。

「そうか、そうよね──それじゃあ」

 病気平癒の神社にお参りしなくちゃね。

 といった綾乃の言葉に、葵は顔を真っ赤にして小さく小さく頷いた。


 ※

 一方でこの日、新選組に新たな火種が生まれていたことを女ふたりは知らない。


 きっかけは、先頃聞いた近藤の一言だった。

「この新選組は今や、京だけでなく江戸にまで名が轟いておるそうだぞ。今度江戸に下ったときは──私の自慢の家臣たちを村のものに紹介して回ろうか」

 その言葉を、三名の助勤が聞いていた。

 永倉、原田、斎藤である。

「────」

(おいおい)

 途端、じわりと空気が不穏になるのを感じた原田が「近藤さんよ」と暗い顔でつぶやいた。

「今の、本気ですか」

「もちろんだ。上様のために公儀をなす我らだ。きっとみなも喜ぶに違いない」

「────」

 いや、と原田が珍しく口ごもる。

 俺が聞きたかったのはそこじゃあないんだ、と心のなかで呟き、ちらりと横を見た。

 主に不穏な空気の元凶ともいえる男の機嫌をうかがうためである。

「…………」

 案の定──というべきか。

 永倉新八は無表情の裏で、烈火のごとく怒りをこらえている様子だった。

 その奥に座っていた斎藤も気が付いているらしい。一瞬原田と視線を交わし、永倉の肩を叩く。

「……そろそろ、鍛練に戻ります」

「ああそうだな。引き止めてすまなんだ」

「いこうぜ、がむしん」

 珍しい。

 斎藤がくだけた口調で言った。がむしんとは、永倉の『がむしゃら』な性格と新八の名をとってついたあだ名である。

 永倉は無言でうなずき、一礼すると足早に部屋を出ていった。

 その姿を目で追ってから、原田は視線を戻す。しかし目の前に座る大将は、この空気にすら気付きもしない。

 そのうえにっかり笑って、

「原田くんも頑張ってくれたまえ!」

 と言う始末。

 永倉の逆鱗に触れた言葉は、ただひとつ。

(家臣、とな)

 原田はおもった。

 彼は調子に乗っている。

(…………)

 新選組に亀裂が生じたのは、この頃からだったのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る