前触れ

 元治元年一月二十八日。

 長州藩高杉晋作が脱藩──。

 脱藩は死罪にもなりうる重罪だが、この時代の風雲児たちはなにかと赦されるケースが多い。彼もまた、特赦されたうちのひとりである。


 さて、脱藩した彼が向かう先は、京だった。

 八月十八日の政変以降、入京禁止とされた長州藩だが、高杉晋作の盟友、桂小五郎や久坂玄瑞はこっそり京に来ていた。

 二月二日。

 高杉晋作もその後を追って浪速から京に入り、京の長州藩邸までやってくる。

 それは、とある相談事を盟友に持ちかけるためであった。


「相談事?」

 雪が降りそうな底冷えする寒さに、葵の身体が丸くなる。夜着を着込み、懐には野良猫を忍ばせている。

 友人は半纏を二枚重ね着して、縁側から空を見上げた。

「そう。相談事」

「どんな」

「あんまり大きな声じゃ言えないけど──」

 綾乃の声が細くなった。


 八月十八日の政変以降、危うくなった京都朝廷の回復と攘夷決行のため、朝廷の三条実美ら七卿が上洛するという。

 しかし三名の志士──久坂、桂、高杉がこの進発論に反対していた。

 理由は、時期尚早であるため。

 軍備も財政もないなか、天皇にも「度が過ぎる」と言われた七卿の行動に加担すれば、朝廷まで敵にまわす可能性がある。

 葵は首をかしげた。

「至極真っ当」

「問題はここからだ」

 綾乃が眉を下げる。

 三条実美が進発(上洛して攘夷決行する)時に「奇兵隊を貸してくれ」と言ってきたのだ。

 ──奇兵隊とは、高杉晋作らが創設した常備軍の一つ。文久三年の下関戦争後高杉らの発案によって組織された戦闘部隊である。

 ゆえに、三条が貸してほしいというのも理解できる。

「貸してあげれば?」

「進発論には反対なんだって」

「じゃあ、貸さなきゃいいじゃない」

「もちろん高杉晋作は断ったよ。だけどそのときに賛成を唱える人が出てきたわけ」

「でも高杉は長州藩のなかでも発言力があったんじゃ」

「それが木島又兵衛きじままたべえだったんよ」

「…………」

 葵は閉口した。

 長州の木島又兵衛──まさに豪傑と呼ばるるに相応しく、血気盛んで気性の激しい男であると聞く。

 正しいと思ったことはぶれずに進む、という気概を持つこの男を、並みの言葉では納得させられるものでもない。

 そのなかで、最も藩からの信頼が厚い高杉が説得役として選ばれるのは、当然だったのかもしれない。

「それで、どうしたら木島を止められるだろうかという相談をしにくるわけ」

「ははぁ、なるほど」

 葵の懐から野良猫がもぞりと顔を出す。

 懐があたたかいのか、すこし微睡んでいる。

「ってことで明日、長州藩邸に行こう」

「ええっ」

「一日張っていれば、高杉晋作の姿が見られるかもしれないし。いまのうちに顔を売っておくのも悪くないよ」

 まったく、綾乃の歴史探求心には恐れ入る。

 葵はにがっぽく笑った。


 朝は殊更に冷えた。

 寒くて凍えそうな指先に息を吐く。

「こんな寒いなか、出待ちする馬鹿は私たちくらいだよォ」

 長州藩邸近くの団子屋で、湯呑みに手のひらを当てる。じんわりと伝わる熱を感じながら、葵は泣きそうな声で言った。

「分かったよ、じゃあひとりで張ってるから火鉢にでもあたっておいで」

「そ──れはそれでなんか嫌だよォ」

「あんたのそういうところ、好きだよ」

「…………我慢する」

 葵は着物の袷をそっと寄せて、おとなしくなった。その矢先、店先の暖簾がばさりとめくれて、

「おおォ、寒ィ」

 とひとりの男が入ってきた。

 うしろからは男がふたりついてくる。途端、綾乃と葵はハッと息を呑んだ。

 うちひとりに見覚えがある。

 桂小五郎だ。

「────あっ」

 彼も気が付いたらしい。

 早足でこちらに歩み寄ってくる。

「君たちは」

「やだそんな。別に会いにきたわけじゃないんだけど──すごい偶然!」

「白々しい」

 笑顔の綾乃に、葵は小声で本音を漏らす。

 八月十八日の政変時、長州藩掃討作戦を敢行した新選組から逃がしたふたりのことは、桂も覚えていたようだ。

 とはいえ、新選組と親しげに話す女たち。信用してよいものか──と、顔をこわばらせたまま頭を下げる。

「その節は」

「いえ、そんな」

「桂さんのお知り合いか」

 ぬっ、と綾乃の顔に影ができた。

 大変背の高い、色白塩顔のイケメンがこちらを見下ろしている。

 男はよく通る声で言った。

「たれです」

「前に一度、助けてもらったことがある」

「──なんだ、この異人かぶれは」

 男は、眉をひそめた。

 絶対攘夷を説く長州藩からすれば、葵の髪色に難色を示すのも無理はない。ムッとした葵の表情に、桂が敏感に反応した。

「おい久坂くん。言い方がわるいよ」

「…………久坂」

 綾乃の目が光る。

 長州稀代のモテ男──久坂玄瑞くさかげんずい

 思想家であった吉田松陰の私塾『松下村塾』の塾生で、非常に能力の高い男であったと聞く。

 加えて高身長の色白で涼しげな目元。声も美声でよく通る──スペックとしては言うことなしだ。

 しかし女ふたりの顔は浮かない。

「どうした、桂さんと久坂さん」

 はじめに暖簾をめくった男が、席から戻ってきた。

 馬顔つり目の散切り頭。高下駄を履いてはいるが、実身長は低い。

 葵よりすこし身長がある程度で、久坂と並ぶとその差は顕著にでた。

「すまん高杉──ほら久坂くん。ゆこう」

「ふはっ!」

 堪えきれず綾乃が笑った。

 彼こそが、長州藩脱藩浪人高杉晋作──女ふたりの待ち人だったからだ。

 久坂とおなじく吉田松陰の私塾『松下村塾』塾生のひとりでもある。

「異人かぶれっちゅうのは、このおなごのことかえ──ふーん。へろう」

 と高杉が唐突に言った。

 あまりにも拙いので一瞬分からなかったが、どうやら英語で挨拶をしたようだ。

 久坂もその意味を悟り、笑った。

「ハハハ、高杉くん。異国かぶれの風体だからっちゅうて、エゲレス語はわからんだろ」

「ふふ、ふふふ。ハハハ」

 なるほど、からかったのか。

 葵が顔を真っ赤にして拳を握る。

 それを見て、


「You're a shit with small courage, understanding, and balls.」


 と綾乃がぼそりと言った。

「えっ?」

 と、桂が思わず聞き返すと、代わりに答えたのは葵だった。

「度胸も了見も玉もちいさいクソッタレ」

「なにィ──馬鹿にしちょるか!」

「なによ、そっちこそ馬鹿にすんじゃないよッ」

 葵が怒鳴った。

 めずらしいこともあるものだ、と綾乃は目を見ひらいた。

「こんな了見の狭い男だとは思わなかった。これじゃあ木島又兵衛とどっこいじゃない。目くそ鼻くそ、牛糞馬糞!」

「えっ、なに最後の……」

「男と女、和国と異国。そんなもんでいちいち物事選り分けるくらい狭い世界にいるくせして、よく国を変えようなんて思うわね!」

 怒声がひびく。

 その声につられたか、団子屋の周りにはいつの間にか野次馬ができている。

「……何やらいろいろ知っちょるらしい」

 高杉はつぶやいた。

「あんたたちも今に分かるよ。異国も女も、怒らせると怖いんだからね──」

 高杉は懐に手を忍び入れる。

 彼は短銃を持っていたと聞くから、それを取り出そうとしているのかもしれない。

 しかし桂が葵の前に身を置いた。

「まあ待て、晋作──僕は以前、彼女たちに助けてもらったことがある」

「なんだって」

「──敵じゃあないよ」

 桂は、言った。

「…………」

「────」

 綾乃は首を振って、店内を指さした。

「はやく席について団子を頼んだらいかがです。看板娘が困ってますよ。貴方たちだって、こんなに目立ったらよくない立場なんでしょう」

「────」

 高杉はハッと横を見た。

 お茶を盆に乗せた娘が、泣きそうな顔でこちらを見ている。

「いこう、晋作」

 桂に背中を押され、高杉は振り向きもせず奥座敷へと入っていった。その後に久坂が続く。

 チリチリと火花が散るほど、お互いに熱視線を交わしてその場は終わった。

 高杉晋作に一目会えたら、と思ってはいたが、これほど強烈に悪印象を植え付けることになろうとは。

 しかし、これも仕方のないことなのだ。

 新選組の一員として身を置くいま、もはや傍観者として歴史を眺めることは出来まい。現状をどう足掻いたところで、彼ら長州藩とは対立する運命にあるのだから。

(冗談じゃねーったら)

 山に西日が沈む。

 いまだに肩を怒らせる葵をなだめようと、綾乃は団子を追加で注文した。


 ※

 体調がよくない、と言って山南敬助が部屋にこもるようになってから、もう三ヶ月になる。

 どうよくないのか、大きな病気なのではないか──。あまりにも情報がないためか、最近ではそんな声が屯所内からちらほらと聞こえ始めている。


「あの噂って──本当なのかな」

 四月に入ってしばらくしたある日。

 二条城付近の茶屋で、葵が言った。綾乃は先ほど露店で買った万華鏡を覗いてくるりと回す。

「噂って、現代の」

「うん。山南さんの、病気説」

「それは──」

「労咳って、ほんとかな」

「…………」

 噂とは、現代の世にて、新選組ファンの中で出回った”山南敬助労咳説”である。

 労咳とは、結核のことだ。

 現代では治癒率百パーセントと言われる結核も、この時代は治療薬がなく、労咳と呼ばれる不治の病であった。

 では、なぜ山南にそのような噂がたったのか。それは、史実に残る情報の少なさによるものであろう。

 史実では、元治元年六月の少し前から山南の出動回数が減ったこと、その理由の全てが体調不良であること──という二点だけが残されており、具体的なことはなにひとつ伝わってはいない。

 数ヵ月もつづく体調不良ならば、労咳の可能性も捨てきれぬ。

 憶測が憶測を呼び、山南敬助労咳説なるものがひそかに流布していたのである。

「いや、単なる噂だよ」

「どうしてわかるの」

「んー」

 また、万華鏡をくるりと回す。

「正月明けに山南さん、肩斬られたじゃん」

 元治に入る少し前のことである。

 鈍色の羽織を肩の部分だけ真っ赤に染めて、山南が帰って来たことがあった。

「あのときの怪我で神経を切ったのかも。──ほら、肩をやられると最悪剣なんか握れなくなっちゃうだろ。山南さんの怪我がどこまでひどいのか知らないけど、あれだけざっくり斬られたんじゃあ、あり得ない話じゃない」

「怪我、か。そうかァ……それもあるかあ」

 葵は後ろ手をついた。

 新緑から漏れる日光が、キラキラと朝露を照らし出す。

 もうひと月ほど、山南と顔を合わせていなかった。

「怪我にしても、労咳にしても──山南さんが戦線離脱していたのは本当だったんだね」

「体調不良といえば、松平容保様もそうみたいよ。京都守護職辞めたいって」

「うそ! ソースどこ」

「史実」

「まじかァ──」

「大丈夫。孝明天皇はそんなこと許さない」

 綾乃は、万華鏡から目をはずしてにやりと笑った。実際、史実はそうである。

 天皇が心から信頼する人間は少ない。

 そのなかで一際信頼を置かれていたのが、松平容保だったのだそうだ。天皇としては、心の拠り所である彼に辞められるわけにもいかないため、

「ゆっくり治してけばいいよ」

 と、あえなく辞表は破り捨てられるのである。


「最近、みんな具合悪そうでやーね」

「うん──」

 葵の顔色が青くなり、彼女は「どうしよう」とつぶやいた。

「なにが」

「史実で……病気で死んじゃう人たちはどうやって助けたらいいんだろう。私たち、医学なんかこれっぽっちもわからないのに」

「なに、葵」

 助けたいの、と綾乃は目を見ひらいた。

 葵も驚いたように、

「だって沖田くんは──」

 とつぶやいて口ごもった。

「…………」

 史実において、若くして病死する人間は身近なところでふたりいる。

 沖田総司と、高杉晋作である。

 芹沢の時にも思ったことだが、どうも綾乃と葵はこの世界に対しての捉え方がだいぶ異なっているようだ。

 あくまで歴史の傍観者を気取る綾乃に対し、葵は厭わない。未来を知っているからこそ、大切な人を助けるべきだと思っている。

「芹沢さんのときは、あの人なりに考えていたからしょうがないけど──きっと沖田くんは無念に思うはずだよ。死ぬなら剣で死にたいって、思ったはずだから」

「それじゃあほかの人が可哀想じゃないのよ。沖田総司だけ助けたとして、高杉は放っとくの?」

「だって大した知り合いじゃないじゃん」

「そ、」

 ドキリとした。

「人間なんてそんなもんでしょ。自分の大切な人が良ければいいと思う」

「────」

 そう、葵は人間らしい考えを持っている。

 それに比べて綾乃は意外と博愛主義なのかもしれなかった。

「それは」

「綾乃が求めている世界は、菩薩レベルが考えることだよ。世の中そんなに優しくない」

「世の中優しくないからって自分まで優しくなくていいってのは道理じゃないよ」

「じゃあみんなを助けたいからどうしようって悩むだけ悩んで手をこまねいているうちに、どんどん人が死んでいくよ。いいの?」

「よかないよ」

 よかないけど、と苦渋の表情を浮かべる。

 そんなの綺麗事だよ、と葵はきっぱり言った。

「私たちは神様じゃないから、全員は無理だけど──でも、沖田くんは助けたい」

「…………」

 馬鹿な、とおもう。綾乃は口を開いて、ふたたび閉じた。

 神様じゃないのなら、

(それこそ、誰ひとり手を出すべきじゃない)

 綾乃は、そう言いたかった。


 ※

 五月二十日。

 大坂与力の内山彦次郎が沖田や斎藤らによって暗殺される。──という固い話を扱うのは、ひとまず置いておくとして。

 五月に、近藤局長が中島次郎兵衛という男に宛てて手紙を書いた。


「今新選組内で男色が流行っているんだ」


 と。

 その通り、近ごろ屯所ではそこかしこに怪しい雰囲気を醸し出して引っ付き合う隊士の姿があった。

「…………」

 綾乃は、よぎる疑問が捨て置けない。

「おかしくねえ? 隊内に女が二人いるにも関わらず、男同士で恋愛するっておかしくねえ?」

「日本人なんてそんなもんだよ」

 という、偏見のひどい葵の冷静な声に、綾乃は「えええ」と叫んだ。

 目の前を通った土方を見つめると、彼はピタッと止まって「一緒にするなよ」と地の底から響くような声で呟く。

「俺にはわからねえ。気持ち悪い趣向だよ」

「土方さんは奉公先で男に掘られかけたんでしたね。事実か知らないけど──よほどのトラウマでしょう」

「思い出させるな、気持ち悪ィッ」

「あ、事実なんだ」

「くだらねェ」

 土方の顔は激しく歪んで、そのまま立ち去った。その後ろ姿を眺めてから、綾乃はくすりと笑う。

「こうも歴史に残っていることを見せつけられると、史料も満更でもないね」

「私、向こうに戻って研究するなら、これからはもっと真剣に史料を読んでみる」

 葵は、呟いた。


 そのとき、ゆったりと廊下の奥から歩いてくる男がこちらに気付いた。

「おお、おまえら──暇か」

 永倉新八である。

「新八っつぁん」

 途端に二人が満面の笑みに変わった。

 永倉の顔や声はどこかやすらぐのだ。女たちにとって彼はいわば『心のふるさと』である。

「ちょっと頼まれてくれるか」

「いいよ、なぁに」

「お前たち、角屋に行く気ねえかい」

「角屋」

 角屋、とはあの花街の店のことか。

 なんで、と葵は首をかしげる。

「行きたいけど」

「女にも御酌してくれるの」

「いや、お前らが飲む訳じゃねェ」

「は?」

「だから、酌をするのがお前たちで──」

 つまり、と溜めてから永倉は苦笑した。

「偵察だ」

「…………」

 ふたりの頭に、クエスチョンマークが乱舞した。


 そのことについて話がきたのは、夜も遅くになってからのことである。

「土方さん、入ります」

「おお来たか」

 外から声をかけると、心なしか歓迎ムードのようだった。綾乃は勢いよく襖を開ける。

「やだ土方さんったら。わたしのこと待っててくれたんだッ。お布団敷きましょうか」

「やかましい」

 間髪いれずにつっこむ土方を横目に、葵はというと部屋へ一歩踏み入れた瞬間から動きがぎこちなくなる。

 何故かその部屋に、監察方の山崎烝がいたからである。

「まあ座れ」

 座ることを促された二人は、ぺたりと大人しくその場に腰を落ち着けた。

「あの」そろりと首を伸ばして綾乃は言う。

「角屋にいけ──とは」

「目的はひとつだ。近ごろ、長州の動きがおかしい。今回、お前らが芸妓となって、客として来る連中からさり気なく情報を聞き出してもらう。山崎も同行する」

「…………えっ」

「げいこ」

 表情が固まった二人をフォローするように、微動だにしなかった山崎がわずかに身を乗り出した。

「私が極力援護します、ご心配なく」

「────」

 そういう問題じゃなくて、と二人は不安げに顔を見合わせる。

「角屋に話は通してあるから、お前たちは女らしい所作を学びつつ仕事に当たってくれ」

「偵察って、そういうこと?」

「新選組屯所で生活している以上、お前等はうちの身内だ。協力してもらうぞ」

「そ、れはそうだけど」

「ついでに、隊のひとりくらいには相手にされるほどの女心を身に付けてこい」

「…………」

 土方は嘲笑混じりに口角をあげた。


 決行は、一週間後の夜とのことだ。

 その間は稽古期間とし、酒を注ぐ所作だけでも完璧にこなすほか、手遊びもいくつか習うなど、思ったよりも本格的な潜入捜査だった。

 稽古入りする際に、初めて顔を合わせたのが、山南の馴染みである明里だった。


「明里天神、入りゃんす」

 禿に連れられ、彼女が部屋に入ってきたときの衝撃は、一生忘れられないだろう。


「ぬしたちが、お稽古しやはるお人どすやろか」


 上品である。

 日本にはこんな和風美人がいるべきだ、と誇りたくなるほど上品で淑やかな女だったのだ。


「わ、あ……あ、けさとさん」

「綺麗なひと……」

 と、二人で感心していると、明里はにっこり微笑んでゆっくりとその場に座る。

「お話は土方様からよぉく聞いておます 。 安心してくんなましね、こういうことは慣れておます」

「は、はい」

「いま、お侍はんたちも皆ピリピリなさっておますけんど、芸妓はそないお侍はんたちに、ほっとしてもらうんが仕事でおます」

「はい」

「慣れへんことやと思うけんど、お稽古、お気張りくんなましぇ」

 と、静かに微笑んだ明里にふたりは静かに感動し、それからの一週間の稽古を全力で頑張ろうと心に決めたのだった。


 来たる当日。

 一週間の稽古期間を経て、その成果を見せるべく二人は一通りの身支度を終えて、無表情のまま出番までスタンバイをしていた。

 ちなみに無表情なのは、カツラも着物も重くて、表情筋に気を配っていられないからである。

「ほな、おふたりは本日限りの天神や。綾乃ちゃんは雪千代天神、葵ちゃんが紅葉天神……で、おましたなぁ」

「は、はい。でもその、端女郎とかでもいいんですけれど」

「土方様が狙うたはるお侍様がたは、天神ほどの芸妓と会わはります。端女郎では目も向けやくれまへん」

「な、なるほど」

 いきなり、人気芸妓クラスの天神役をしろ、などと言われて出来るわけもない。が、これはもはや自分たちだけの問題ではなく、新選組はもちろんのこと、何よりも角屋の看板を背負っているといっても過言ではない。

 いまだかつてないほどの緊張感によって、ふたりは非常に顔が青かった。

「雪千代天神、紅葉天神」

 明里付きの禿が顔を出して、土佐の男たちがやってきたと知らせに来た。


 口から飛び出そうとする心臓を、必死に体内にとどめようとしていたふたりがそこに行くと、見慣れた顔がある。

「かッ、亀」

「土佐の客って」

 表情も口も動かさずに驚愕した。

 土佐の旦那様と呼ばれたるは、かつて刹那の対面を交わした海軍塾生のひとり──望月亀弥太だったからである。

 彼は嬉しそうな顔で手を振る。

「や、見ん顔じゃ────」

 と、言ってからじっと女の顔を覗き込み、だんだんと目が見開いてゆく。

 葵の額に汗がにじんだ。

「おま、おまんら──坂本さんの?」

「────」

「芸妓じゃったとは知らんかったぞっ」

 興奮ぎみに言った望月に、綾乃は微笑んで「お久しゅう」とだけ言った。

 その様子に、若旦那に扮した山崎までにっこりと笑って「お知り合いでおましたか」と言いながら割って入る。

「雪千代は雪のように淑やかな女、紅葉は名のとおり情の熱い女──とご説明差し上げたろうと思うとりましたが、知り合いやったら通用しまへんのやろなぁ」

「いんやあ、一度会うたきりじゃき。雪のような淑やかさも紅葉のような情の熱さも、前のときは一切垣間見えんかったが──これはこれで、なんちゃ楽しみじゃねャ」

 綾乃はどういう意味だ、という悪辣な顔を山崎に向けたが、すぐに望月に向き合った。

 優しく手に触れて「よろしゅう」と再度微笑む。

 対して葵は、お酌をせねばと徳利を手にして、近くにいた望月の連れに酒をついだ。

「それにしても」と、言葉もこぼす。

「こなに大勢で、楽しそうでおますな」

 注がれた酒を勢いよくあおった男は、目を爛々と輝かせて呟いた。


「ああ、最期の宴じゃ」


「…………」

 意味深なことを、言った。

 この会話は山崎に聞かれている。

 あとで「特に何も聞けなかった」と言ったところで、山崎は土方、近藤両人に伝えるだろう。

 隣では、綾乃扮する雪千代天神も試行錯誤しているようすだ。

「三十三間堂には行かはりました?」

「いんや、観光しちょる暇がなかなかとれんでのう──」

「お酒は土佐の方が美味しいのやろうか」

「そいは俺も思うたがよ。まあ、また飲めるかはもう分からんけんど──」

「…………長次郎はんは?」

「ああ、あいつはにゃあ。この計画には乗り気じゃねャ龍馬さんについて行きやがったきに」

「へ、へえ────」

 わざとか、と思うくらいに、これから起こすのであろう謀事の影をちらつかせてくる。

 それは、後に新選組の名を世間に轟かせることになる大事件となるのだ。


 しかし、女たちは浮かない。

 何故ならその事件が起きれば目の前にいるこの男は──死ぬからである。

 嫌だ、と思う。

 思うのに。

 どうすればよいか、皆目検討もつかないのだ。


 葵扮する紅葉天神は、適当に声をかけて雪千代天神に近付く。

「雪千代天神、少し席外す──」

「あ?」

「プレッシャーに負けそう──吐く」

「いやおま」

「うぅ────」

 と、ふらふら出て行く紅葉天神。

「なんだ、どういたがか」

「あ、気にせんと! それより手遊びお付き合いくんなませッ」

 と、笑顔で取り繕う雪千代天神。

 別に、彼らから聞き出す必要などないのだ。

 雪千代天神あらため、綾乃の頭に詰まっていることを、そのまま出してしまえばいいのだから。


「どういうことや」

「…………や、山崎さん」

 しかし、紅葉天神が引っ込んだ裏では、山崎が鋭い目つきで問いかけてきた。

 いつもの優しい山崎はいない。

 葵は生唾を呑み込んだ。

「土佐の連中と知り合いか」

「え、あ」

「それでうまいこと聞けんのか、情が働いたんやな──」

「…………」

 ぐ、と葵は押し黙る。

「あの様子やと、雪千代天神も聞けそうにないな。……せやかてこのまま引き下がってもらうわけにもいかんのや。──何か一つでもええ。情報もろうてきぃ」

「────」

 葵の呼吸が浅くなる。襖の隙間から座を覗く。喜び踊る望月が見える。

 頬に涙が一筋つたった。

「…………」


 ──大した知り合いじゃないじゃん。


 少し前に言った自分の言葉が、真綿のように己の喉元を絞める。

 ちがう。ちがう。

 そんな意味で言ったんじゃない。

 私は、私は──。

 

「桝屋……」


 唐突に、出たか分からぬほどのか細い声で言った。

「ん?」

 柔らかい声色で首をかしげる山崎に、葵は涙を浮かべて短く息を吐く。

「桝屋に──武器が」

 喉が詰まった。

 山崎の顔を見ることができなかった。

「────」

 有能な監察は、微かに憐れんだ目をしてから黙って葵の涙を指ですくう。

 葵は無言で泣いた。

 己の言葉によって、大した知り合いでもない誰かが死ぬことになるのが、たまらなく怖かったのである。

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