風雲児

 日本を今一度、せんたくいたし申し候事──。


 愛しの姉にこんな手紙を送りつけた瘋癲がいる。名を、坂本龍馬さかもとりょうま。彼は六月はじめごろから、何度か勝海舟の使いとして京に来ていた。

 此度の入京目的は京越前藩邸の村田巳三郎むらたみさぶろうを訪ねて、海舟塾開設に際する援助金へのお礼や、銃を一丁プレゼントするためであった。

 その帰り道。

 上機嫌で京の町を歩く坂本の視界に、ひとりの男が入った。


「おれはァ、壬生浪士組のォ」


 とさけんで商家に押し入っている。

「…………」

 坂本龍馬というのは、普段は無口な方である。

 往来で恥をさらす男を見てもムッとするだけでとくに文句をつけるような男ではない。

「会津様預かり壬生浪士組じゃ、はよう金出さんかい!」

 とはいえ、ずいぶん横暴だ。

 幕府の役人ならば商家に押し入っても構わないというのか、と鼻をならす。

(そのわりには、貧相な男だが──)

 ボリボリと頭をかきむしると、数日前に風呂へ入ったきりの頭からは、フケが飛ぶ。我慢できずに坂本はふらりと近寄った。

「おまん──いくら幕府のお役人様っちゅうけんども、そがなやり方は些か間違うとりゃせんかャ」

 すると、男は眉をつり上げてまくしたてた。

「おれは会津様預かりの壬生浪士組だぞ! 楯突く気かッ」

「…………ほやけどネャ」

「なんだなんだ、貴様!」

「名乗るほどではないが」

 男は、さらにキレる。

「ああッ? おれ様は会津様あずか」


「うるっせえな、このやろう──会津様預かり会津様預かりってどういう了見だてめえは!」


 と。

 恫喝とおなじくして、ガツンと男の頭に石が当たった。

 坂本がおどろきふり返る。背の高い女が、てのひら程度の石を二、三個手元であそばせる。その隣には連れだろうか、髪色のあやしい女が蒼白な顔で立ち尽くしていた。

「まさか、ほんとうに石を投げるとは」

「こちとらすこぶる機嫌が悪いんだよ。てめえ石塚岩雄だろ。それ以上、そのクソみてえななりすまし続けたら、首斬るだけじゃすまねえからな」

 口のわるい女である。

 彼女は親指を立てて首を斬り、下に向けた。なるほど不穏な合図だ。

 となりの女が着物の袖をくいと引っ張る。

「屯所に連れて帰った方がいいよね、綾乃」

「え、こんなか弱い女がふたりで。だれか呼ぼうよ」

「いやかよわ──いね、あんた態度がでかいからそう見えないけど、腕っぷしはからきしだもんね」

「うん、キンタマ蹴るしかできないからさ」

 と、背の高い女がぎろりと石塚を睨み付けた。石塚はおもわず股間を隠して浪士組──とつぶやく。

 そういうことか、と坂本は納得した。

 どうやら近ごろ流行っているらしい、壬生浪士組のなりすましのようだ。

 先よりすこし気分のよかった坂本は、

「そこの。わしがともに行ってやろうか」

 と、自分でも思わなかった台詞を口走った。

(いやいや、いかん)

 パッと口を押さえたが、背の高い女はパッとこちらを見た。

 髪色のおかしい女もつられてこちらを見る。

「……あっ」

 女は黒船を見たかというほど口を開けた。さらには珍妙な髪色の女がさけぶ。

「坂本龍馬!」

「へ、」

「おほッやばい。坂本龍馬……おほァ!」

 背の高い女は様子がおかしくなった。

 こそりと逃げようとした石塚の襟首を掴み、道路に引き倒して踏みつけながら「やばい本物!」と叫んでいる。

(おれは尋ね者なのか)

 壬生浪士組に関わりがあるらしい女たちが、これほどまでに興奮するのだ。わけは知らぬがきっとそうなのだろう。

 そうなると非常に面倒だ──。

 坂本がひやりと汗をかく。

「──あ、……でも、いいのかな。ねえ綾乃」

「なにが?」

「だから、坂本龍馬を屯所の方に連れていって」

「ダメだ。いや別にダメじゃないけど、のちのち考えるとやめた方がいいか。……ちょっと残念だけど」

 と、坂本を見た。

「あの、お気遣いありがとう。でも大丈夫!」

 綾乃と呼ばれた女はにっこり笑った。

「お、おお」

 なんだ、違ったか。

 坂本はほっと肩の力を抜いた。

「……ほうかい」

 これが、ふたりと坂本龍馬の出会いである。

 そんな彼らがふたたび再会するのは、京の町が祇園祭で賑わうころであった。


 ──文久三年七月八日、薩英戦争勃発。

 がしかし、この物語においては問題ではない。

 それよりもいま問題なのは、先ほどから土方が背中に感じるなま暖かい温度である。

「でね、その男はいうんです。『生きろ、そなたはうつくしい』──って」

「────」

「でもそれってくつがえせば『死ね、ブス』って言っているようなものじゃないですか。だからどうにも好きになれなくて」

「────」

「だからといってさっき話した、顔にあんこが詰まったヤツもねえ、優しいとはいっても博愛主義に拍車をかけて友達も少ないしさ」

「────」

「だから個人的なイチオシはね。土方歳三っつう男なんですけど」

 というわけで、ここは土方の部屋。

 綾乃が文机に向かう土方の背に、身を預けている。

「で、同衾希望日はいつですか」

「いったいおまえはさっきから、なんの話をしているんだ」

 土方は眉間を揉みながらぐるりと後ろに顔を向けた。

 小一時間、綾乃の考える『いい男談義』を一方的に聞かされて仕事にならない。が、顔にあんこが詰まった男とはどういうことなのか、想像せずにもいられまい。

 綾乃は嬉しそうにわらった。

「だから、そんないい男と祇園祭に行きたいなっていう話です」

「行かん、いそがしい」

「ええ──初の上京のくせに祇園祭も見ないんですか。性格暗いですね」

「大きなお世話だっ」

 だいたい、と筆を置く。

「しばらくやっているそうじゃねえか。俺はどっかで軽く行くから、他を当たってともに行け」

「つまりわたしと行きたくないってこと」

「いや──本当に今はいそがしいから」

「わかりましたよ、ハイハイ。じゃあ他を当たりますのでお気になさらず、どうぞ!」

 綾乃は、ムスッとして立ち上がった。

 さすがに出会って一ヶ月以上にもなると、会ったばかりの感動は薄れるらしい。以前までの崇拝型愛情表現はすっかりナリを潜め、近ごろは若干扱いも雑になり、このように諦めも早かった。

 なんとなくばつが悪くて、

「……わるいな」

 と言ってみる。

「いいえそんな滅相も」

 綾乃は見向きもせず、静かに部屋を後にした。


 四半刻後。

「綾さん。野口、沖田、藤堂に斎藤という豪華ラインナップを揃えました、どうぞ」

 すっかりふてくされる綾乃の前に、四名の男を並べた葵が、恭しく頭を下げた。

 人を殺しそうな勢いで不機嫌になった友人を見た、彼女なりの配慮である。非番か、朝番ゆえに夕方から自主トレをしていた者たちに声をかけた結果だ。

「いい男ばっかりじゃない、あおちゃん。どこで見つけてきたの」

「へい、ここいらで有名な壬生浪が粒ぞろいと聞きやして。あっしが声をかけた次第です、どうぞ」

 謎の小芝居をいれながら、葵はふたたび頭を下げた。

 綾乃は眉間をもむ。

 つぎの瞬間、パッとあげた顔はもうすっかり笑顔である。

「うん、ちょっと機嫌なおった。ありがとう」

「ごめんね。言うて松坂桃李とか阿部寛似の都会的イケメンはいないけど」

「いいのいいの。そんなイケメンに来られても緊張しちゃうから。すこし芋っぽい方がわたしは好きなの」

 綾乃はにっこりわらった。

 失礼な話である。

「あれ」

 後ろで待機していた沖田は、きょろりと首をめぐらせた。

「芹沢さんは?」

「今日はお梅とデート」

「でえ……?」

 葵がすこしぶっきらぼうに言った。

 お梅、というのは近所にある太物問屋『菱屋』の主人、太兵衛の妾である。

 太物問屋とはいわゆる呉服商のこと。芹沢はしばしばこの菱屋から未払いのまま呉服を購入していた。それを取り立てるため、太兵衛が寄越したのが、齢二十二のお梅だった。

 彼女は幾度かの取り立ての際に芹沢に抱かれ、以来芹沢とは懇ろの仲となった。

 当然ながら平成の二十二才とは貫禄が違うわけだが、葵はどうにも彼女の猫なで声が気に食わず、お梅の話題にはあまりいい顔をしない。

「…………」

 案の定、今度は葵が不機嫌になってしまった。

 あっ、と四人の男たちもその空気を悟る。

 綾乃が立ち上がった。

「葵、プロデュースありがとう。それじゃあみんなで祇園祭見に行こうか!」

「おおー!」

 沖田と藤堂は、元気に拳を突き上げた。


「聞いちゃいたけど、すごい人だね──」

「はぐれないでよ綾乃!」

「あんた小さいから紛れるんだよ人混みにさあ」

「私は平均身長だよ!」

 葵が地団駄を踏んだ。

 宵山では露店が禁止される祇園祭だが、前祭である今日は賑わいを見せる。ちまきやハモなど、祇園祭ならではの食い物も見かけた。

「うわあ、これ食べたい。──…………」

 うまそうなハモ焼きの店の前。

 綾乃が金をもらおうと後ろを振り返ったときである。

「しまった、はぐれた」

「えっ?」

 葵はサッと青ざめる。

 ふたりは女中という身分のため自由にきく金がない(女中のわりに態度はでかいが)。無理をいって、野口からすこし出してもらえることになっていたのだが──。

「ええ……ここから探すの?」

「沖田くんなんかは、背が高いから見つけやすいんだけど」

「んー」

 背の小さい葵は、もう既に背伸びをして探すことを諦めかけている。適当に返事をしながら、うんざりとした顔で屋台を見回す。

「うーん、あっ」

 綾乃が不意に声をあげた。

 見つけたの、と葵が俊敏に近寄る。

「いや――みんな、ではないんだけど」

 視線の先を見た。

 アッと葵の頬が上気する。

「坂本龍馬!」

 彼は、身体を少し右に傾けたような独特な歩き方でやってきた。どうやら彼もこちらを視認しているらしい。

 壬生浪士組なりすまし事件以来の再会である。


「こうこじゃんと人がおると、目立つな」


 坂本は細い目をさらに細めて、ふたりを見下ろした。

「さ、坂本龍馬に――話しかけられた」

「……得がたい経験だね」

 緊張した面持ちで坂本を見つめるふたり。彼は無言のままハモの串焼きを三本買うと、内二本を手渡してくれた。

 ありがとう、と受け取った葵に「また会うたな」と笑いかける。

「その節は、大して挨拶もできずにごめんなさい。ありがとうございました」

「おれのことを知っているふうだったが、なぜ」

 綾乃に視線を移した。

 彼女は串焼きを頬張りながら、

「こんなに大きくて小汚い土佐弁の男は坂本龍馬くらいだって」

「わはは、忖度せんのう」

 坂本は指でジェスチャーを出した。向こうへ行こうと言っているらしい。

 人混みから外れるように、坂本が壁となって歩いていく。道を外れたところでふり向いた。

「壬生浪士組と関わりが?」

「あ、うん。いまもいっしょに祇園祭を見に来てて」

「ああ忘れてた」

 葵がハッとした顔で手を口に当てる。

「はぐれちゃって。探していたんですけど──この人混みだから」

「坂本龍馬さん、いま暇でしょ。一緒に探してくださいません?」

「近眼じゃ。役に立たぬぞ」

「近眼もなにも、顔を知らないでしょう。この子を肩車してくれればこっちで探します」

 と、綾乃は背の低い葵──といってもこの時代の女性の平均身長よりは少し高いが──を指さした。

「……圧がちっくと乙女姉さんに似ちょるわい」

 坂本は腰を落とす。

 優しい男だ。

「して、名は?」あたりをめぐらす。

「肩車してるのは徳田葵、わたしは三橋綾乃。……葵、見つかりそう?」

「みんな同じ髪型で気が狂いそう」

 うんざりした声色だったが、まもなく。身を乗り出して指をさした。

「いたっ、あれだあれ」

 目に入ったのは沖田の後ろ姿だった。眼をこらせば、そのうしろに藤堂や野口、斎藤が確認できる。

 とくに長身かつ広い肩幅の沖田はなにかと目印になるのだ。向こうもこちらを探しているようすだった。

 ────。

 肩車はそのままに、坂本一行は最後尾にいた斎藤のうしろ姿に追い付いた。

「斎藤くん」

 綾乃が声をかけると、彼はふり向いた。

 顔を見るや手首を掴む。

「どこに行っていた」

 声色にすこしだけ怒りがこもる。

 綾乃は、微かに笑みをひきつらせた。

「ごめん。はぐれちゃって」

「徳田は」

「あそこ」

 指差す先には、肩車された状態で坂本の髪の毛を引っ張って遊ぶ葵の姿が。その笑い声が響いて気がついたか、前を歩く沖田もこちらをふり向いた。

「あァいた。どこ行っていたんです二人とも」

「葵もいたのに迷子かよ、やるなお前ら」

 と、藤堂もくすくす笑う。

 葵は坂本を見下ろした。

「ありがとう、龍馬さん」

「お役に立てましたかな」

 坂本は腰をかがめて葵をおろす。

 それから壬生浪士組の面々を一瞥し、瞳を細めた。

「なるほど壬生浪──ふしぎな縁じゃ。しかしはよう退散したがいいな。また縁あれば会おうねャ」

「うん、ありがとう」

 坂本は去った。

 ふたりはしばらくその後ろ姿を見送っていたけれど、斎藤が唸るように

「何者だ」

 と聞いてきたので視線をもどす。

「土佐の坂本龍馬」

「坂本ッ」

 反応したのは藤堂だった。

「そうだ。北辰一刀流の坂本さんか、思い出した──見たことがあると思っていたんだ」

「平助くん、同門だもんね」

「ああ。幾度か稽古場で見かけた」

 藤堂は嬉しそうにわらう。

 江戸の北辰一刀流といえば、千葉道場が有名であろう。おそらくはそこで、一時でも剣で語り合ったのかもしれない。

 坂本が倒幕というものを本格的に意識するのはすこし先だろうが、皮肉にも近いうち、同門が敵味方になるときがくるのだ。

(祇園祭ではしゃげるのも、今年だけかもしれない)

 綾乃は瞳を伏せた。

 

 ※

 七月のある日のことである。

 今日は屯所が騒がしい。至るところを隊士が忙しそうに駆け回っている。

 雑巾で床掃除をする綾乃は、駆けてきた沖田に蹴飛ばされ、話しかけようとした原田には「まてッ」と止められた。

「いま、おまえの相手は荷が重い!」

「な……なによう!」

 帰ったら聞くから、とにが笑いする原田に綾乃は地団駄をふんだ。

 一同、大坂まで出張巡回をするらしい。

「おい三橋」

 土方が声をかけてきた。

「お前は留守番だ。入隊希望がいたら、山南さんや平山が残ってるからそこに話を通しておけ」

「はあい」

「あと、くれぐれも一人で出かけるな。絶対に迷うんだから」

「はあい、──」

「山南さんは忙しいんだから、迷惑はかけるんじゃねえぞ」

「は、はあい……」

 土方に矢継ぎ早にいわれ、ただただ小さく相槌を打つ。

(葵でも誘ってどこかに。──)

 とおもった矢先、土方は「ああ」と声をあげた。

「ちなみに言っておくが、今日は徳田も芹沢さんと嵐山へ行くそうで、いないぜ」

 綾乃は、閉口した。


 隊士を見送るために外に出る。

「最近大坂多いなァ」

「おまささんのこと、忘れないでくださいよ」

「わかってら」

 沖田の言葉に、近ごろ彼女ができたらしい原田が照れた。見てていじらしくなったのか、

「こいつぅ」

 と、永倉がひじ鉄を食らわす。

 大坂の新町が楽しみだと笑う近藤に、井上は困った顔をする。

 綾乃は手を振った。

「行ってらっしゃい」

 おそらく二、三日は戻るまい。

「気を付けてね」

 というと、隊士たちもヒラヒラと掌を振り返して出かけていった。

(────)

 男たちの背中を眺めてから、綾乃の頬にまつげの影がちらりと揺れた。


 洗濯物と庭掃除が終わり、山南と平山のために飯をつくる。簡単なものだが、ふたりはたいそう喜んでくれた。

 ともに昼食を食べ、食器を片付ける。

 久しぶりに風呂桶でも掃除するかと井戸から水を汲んできた。溜まった垢を取り除くと、ふわりと檜の薫りが鼻をくすぐる。

「最高」

 綾乃はわらった。

 すこし休んだら、夕飯の献立を考えよう──と、前川邸の縁側に腰かける。

 京の町は湿気が酷い。

 陰鬱な気分に嫌気がさして、綾乃はごろりと上半身を横たえた。

 ──帰ろうか、と思った。

 これは、平成の世にという意味である。

 無論帰り方など知らない。

「ん」

 カタカタと爪の音がした。

 顔を横に向けると、壬生寺の猫がいつの間にか前川邸にあがってきて、綾乃の横に腰を下ろしている。

 ぺろりと頬を舐められ、ざらついた舌の感触に微笑んだ。

「かわいいね、おまえ」

 頬を撫でてやると、猫はぐるるると喉をならして、綾乃の首もとに顔を突っ込んできた。


(わたし、ここで何しているんだろう)


 ぼうっと天井を見つめて、考える。

 何のためにここに来たのだろうか、と。

 これは、葵ともよく話すことであった。

 過去を観光するため。

 いや、歴史を研究するため?

 憧れの大好きな人と会うためか。

 ──ならば未来を、変えるため。

(…………)

 いや、違う。

 きっとどれも違う。

 そんな話を繰り返しては、答えが出ぬまま議論を終えてきた。

(だれが答えを知るわけでもない)

 首もとからあたたかい寝息を感じる。猫が眠ったようだった。

 綾乃はつられて目を閉じた。


 どのくらい経ったのだろうか。

「綾乃さん」

 ぱち、と目を見開いた。目の前にはうれしそうな山南が覗きこんでいる。

「うあ」

 眠っていたのか──と起き上がろうとしたが、山南は手で制止する。そして首もとを指差した。

「…………」

 猫がぐっすりと眠っているのだ。綾乃は苦笑した。

「お饅頭をいただきましたよ。どうですか」

「食べたい──あとで食べるのでここ、置いておいてください。いまちょっと動けないから」

「そうだね、そうします」

「山南さん、それあと平山さんとふたりでどうぞ。どうせみんな帰ってこないから」

 では、と山南は目を輝かせた。

「平山さんには三個渡しておきます」

「あっ、自分の分は七個持っていくんだ」

 という綾乃に笑みだけ向けて、十個もの饅頭を抱えた山南は上機嫌に去っていった。

(かわいいなあ)

 山南敬助は、甘いものが好きである。

 いつも冷静な彼が饅頭を頬張るときの顔といったら。思い出して綾乃はふっとわらった。

(…………)

 けれど、どうにもさびしい。

 胸にぽっかりと穴が開いたような気がして、元気がでない。

「おわ、──」

 気が付けば、もう夕方になっていた。


 ────。

 大坂。

 まだ夕方であるにも関わらず、男たちは新町へと入る。

 それを見つめるは斎藤一であった。

「わっ、おい斎藤、早く入れよ」

「斎藤さん?」

「どうした、斎藤」

 原田や沖田、永倉の呼びかけにすら答えず、斎藤は土方のもとへ向かう。

「なんだ」

「帰営、しても」

 と、いったきり土方を見つめる。

 勘のいい上司はその瞳に宿るなにかに気付いた。

「そうだな──明日、おまえを非番としよう。今日はちょうどいいことに芹沢もいねえからな」

 笑った土方に、斎藤はキュッと口を結んで頭を下げると、船着き場へ走り出す。

「な、なんだよ斎藤のやつ。帰るのか」

「ああ。新町の女よりも、──残した女が気掛かりらしい」

「残した女、って」

 永倉が驚いたように呟いた。

 うん、と土方はつまらなそうにうなずいた。


 斎藤は、早舟の最終便に飛び乗った。

 浪士組が出かけるときに見せた、彼女の顔が気になっていた。このようなことに気を遣うなど柄ではないが、帰ってやらねば、と思っていた。

 船着き場につくころには、すっかり夜になってしまったが、こんな暗闇を走るのは慣れている。

 斎藤は、伏見街道から京の町を駆け抜け、壬生村に入った。

 もうすぐだ。

 前川邸が目に入る。

 息を整え、部屋をめぐった。

 普段男たちが雑魚寝をする大広間へ上がり、そこに転がる影を見た。

「────」

 近くに寄って顔を見る。

 綾乃は、眠っていた。

 泣いてはいない。

 ほ、と脱力して、斎藤はどすん、と柄にもなく音をたてて腰を落とした。どっと疲れが出たようだ。

「ん、」

 衝撃で綾乃が呻いた。

 観察すると、しばらくして瞳をあける。

 その視線が斎藤に向くや、

「ぅわ」

 と、飛び起きた。

 勢いのわりに寝起きの目はぼんやりとしていたけれど、しっかりと斎藤の顔を見ている。

「あれ、おかえり──」

 いってから彼女は首をかしげた。

「なんでいるの」

「…………」

 バタリ、と音をたてて斎藤が畳に転がる。

 気が抜けたのだろう、起き上がる気力がない。

「さ、大丈──」

「泣きべそ」

「はい?」

「泣きべそでも、かいているかと思った」

 と、斎藤はうっすらと笑った。

「な、なきべそ」

「──そうでもなかったな」

 寝転がったままにつぶやくので、綾乃が「そりゃ」とつぶやいてから、口を閉じた。

 彼の心意気をようやく悟ったのである。

「…………」

 すこしだけ泣きそうな顔をして、綾乃もばたりと転がった。

「おい、」

「斎藤さん、疲れたでしょ」

 聞いたことのない声色だった。

 嗚呼──畳の冷たさが心地よい。

 彼女は身体を横に向けて、斎藤を見つめる。

「もう寝よう」

 斎藤のまぶたが重くなってきた。

 綾乃の手が、彼の手に伸びる。

「……ありがとう」

 彼女の声と手のぬくもり最後に、大広間はいっさいの音をなくした。


「おや」

 夜も更けたころ。

 仕事を終えた山南が大広間へと戻ってきた。

 そこには仲良く寝ころび寝息を立てる、斎藤と綾乃の姿がある。

「これはめずらしい──」

 山南はわらって、隅に積んである大布を手に取り、かけてやる。が、とたんに眠気が一気に押し寄せてきた。

 同じように、山南までもがごろりと横になり、ついでに大布も引き寄せて目を閉じる。

 頭の奥がしびれるのを感じた。

 ああ、やっとねむれる、と山南は思った。


「お、おおい」

 朝方。

 大広間の前で立ちつくす原田が情けない声をあげた。

「こいつは、どうしたってんだ」

「ははは、原田さんが変な声をだすからなにかとおもえば」

 永倉と沖田がくすくすと笑う。

 そこにいたのは、仲良く川の字になって眠る三人の姿。

 物珍しげに藤堂が部屋にはいる。とたん、

 がばり

 と、山南と斎藤が刀を手にして飛び起きた。

「うわ、おれだよッ。藤堂ですよッ」

「────」

「お、おはようございます。寝過ごしましたか」

「いや、まだ日が昇ったばかりです」

 井上はなだめるようにいった。

「みなさん何故そんな、遠巻きに──」

 言いかけて、山南ははたと気づく。

「ああ、そうでした」

「ずいぶんと気持ちよさげに眠っているなあ」

「ふん──」

 永倉が燦に寄りかかり、眉をひそめた原田が綾乃の髪をぐしゃぐしゃとなで回す。

 まもなく綾乃の瞳がぱちりとあいた。

「…………」

 身体を起こしてもなお、しばらくぼんやりとしていたけれど、やがて焦点があうと笑顔になり、

「あれェおかえり──早かったねェ!」

 と言った。

 その笑顔に、斎藤がうつむく。

 永倉がようすを盗み見ると、どうやらわずかにあがった口角を隠すためらしい。

(おいおい──マジかい)

 永倉は、ひやりと汗をかく。 

「昨日はとっても働きましたよ。風呂桶まできれいにしたんだから、あとで見てね」

「おう。留守番ありがとうな」

 無邪気にわらう藤堂や原田。

 彼らを横目に見てから、永倉は信じられないような目でふたたび斎藤を見つめた。

(おぬしも──とんだもの好きか)

 おもしろいじゃあないか。

 永倉はくっと口角があがるのを隠すように、ふいとそっぽを向いた。



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