紫陽花と四葩

 そんな出会いから、僕は毎週水曜日に彼女と話すようになった。あの日から彼女はことあるごとに僕に話しかけるようになったからだ。図書館で必要以上に雑談を繰り広げるのはマナー違反であるから、図書館の裏にある公園で。その公園は、草花に満ち溢れた静かなところだった。今は六月なので、紫陽花の花が遊歩道一帯に咲き誇っている。

「私はね、紫陽花が一番好き。どっしりと構えているくせに、色はころころと変わるところ。そのどんな色も綺麗なところ。全部含めて好き」

 陶酔したように彼女は語る。

「僕も、嫌いじゃないね」

 そして、好きでもなかったりする。まるで、君みたいだし。なんて野暮なことは口にはしない。

 彼女は、不特定多数の男性と付き合いをしているという。悪びれもせず、そう言っていた。確かに、公園で話していても彼女の携帯にはしばしば電話がかかってくるし、いつも違う男が彼女を迎えにやってくる。彼女と話しをするのは嫌いではないが、彼女と付き合いたいといったような感情は今のところ存在しない。紫陽花の花言葉「移り気・あなたは冷たい人」を彼女は知っているのだろうか。知らないはずがないだろう。こうして、紫陽花が好きだというのは、案外自嘲なのかもしれないと思う。考えすぎだろうか。考えすぎだな。

 そもそも、僕には好きがよくわからない。人並みに言えるような趣味はあるけれど、どれを失ったとしても僕はきっとそれほど悲しまない。本にしても、運動にしても。自分のアイデンティティの骨格を保つための道具としてそれらを考えている節は否めない。とくにそれが普段の生活に支障をきたすことはないので、人生に申し訳程度に与えられた命題だと思うことにしている。束の間、思考に入って聞こえづらくなっていたはしゃぐ彼女の声が輪郭を持った。

 「あとね、知っている? この紫陽花の花って実は花じゃなくて顎なのよ」

 「それくらいは知っているよ」

 と返す。

 「私は、そんなところも好き。なんだか、とても美しいのに、それも偽物なのだという気がして」

 好きだと語るくせに、顔を曇らせる彼女はなんだか理解がしがたいように思えた。

 「紫陽花が花としてそうでないものだとしても、君が美しいと思ったのなら、それは本物だと思うけれど」

 よくわからないフォローをしてしまった。

 「それはそうね。私が何かを綺麗だと思ったことだけはほんとうなのよね」

 うんうんと、かみしめるように彼女は頷く。なんだか、言葉通りの意味以上のものを彼女はくみ取ろうとしているように見えた。

 「では、紫陽花のもう一つの名前を知っている?」

 知らないでしょうと勝ち誇った笑みで言う。そんな彼女に賛同してか、紫陽花も少し揺れたように見えた。

 「ハイドランジアじゃなかったかな」

 さらりと答える。たしかそんなタイトルの本を読んだことがある。

 「あ、英名も忘れていた。それはそれで正解だけれど、実はもう一つあるの。知っている?」

 なるほど、知らなかった。まあ、言ってしまえば名前なんてものはただの記号であるし、一つの物事に対して呼称が一つしかないものなんてそうは聞かない。

 「それは知らなかったな」

 そう言うと、彼女はひとつ息を吸ってその名を挙げた。

「四葩(よひら)。紫陽花の別名は四葩というのよ。なんだか響きが素敵だとは思わない?」

 まるで自分のことのように嬉しそうに笑う。よっぽどに好きなのだろう。確かに、悪くはない。

 「語感は悪くないね」

 濁点は、あるよりないほうが美しくなめらかに感じられるというのが僕の持論である。濁音は、なんだか僕には強すぎる。果てしなくどうでもいいことだけれど。

 「私の、名前にも似ているしね。四葩と四葉。私、紫陽花にこんな名前がついていることを知って、もっと紫陽花が好きになったことを覚えている」

懐かしみを見せる彼女の横顔はまるでころころと色を変える紫陽花のようだと思った。

 「そうだね、僕もそんな気がするよ」

 なるほど、自覚はしているようだ。きっと僕が思っているようなことは感じていないだろうけど。そう相槌を打ちながら、スマートフォンを取り出し、ネットニュースを見始めようとしたところだった。てろてろとした音楽が空間をしばし染める。

「はい。山崎くん? うん、うん、わかった。いつもありがとう。待っているわね」

 そういって、彼女は電話を切った。その瞬間、彼女はいつもとびきりの笑顔で電話を取って、切ったあとに悲しそうな笑みを浮かべる。忙しい人だなと思う。

「それじゃあ、もう行くわね。今日もありがとう」

「ああ、それじゃあまた」

 軽い別れの言葉を告げると、彼女はてくてくと公園の出口の方へと向かう。華奢な彼女が歩いているとなんだかその内倒れてしまいそうな感じがする。そういえば、彼女は「ありがとう」を忘れない人だなと思った。この世代の若い女性としてはなんだか古風な気がした。読もうとした記事を閉じて、暗くなった画面のスマートフォンをポケットに入れる。「ハイドランジア」を借りて、家に帰ることにした。


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