第3章

第20話 地獄をハックする

 二〇〇一年の年明けから、空井は仕事を始めた。決められた日に、決められた場所に行き、用意されたコンピュータに向かって、島村が指示した「仮想敵国」のサーバーに片っ端から侵入を続けた。

 それ以上のことを空井は話さず、僕も尋ねなかった。「国家機密」なのだ。彼が出かけて行く時間は昼間や深夜など、一定しておらず、帰ってくるのも次の日だったり、二三日帰ってこなかったりと、不規則だった。海外のサーバーを狙う場合、向こうの深夜がこちらの昼間になることもあるのでそれも当然だった。

 こんな生活のせいで彼の目は血走り、頬はこけ、日に日に痩せていった。これでは体がもつわけがない、と僕は心配した。

 二月の建国記念日には、空井の仕事が無かったので、愛がうちに遊びに来た。愛がカレーを作るのを僕が手伝っていると、ドシンという音とともに床が揺れた。見ると、空井が自分の部屋で倒れていた。顔面は真っ青で、異常に汗をかき、目をしっかりと見開いて天井を見つめている。影を潜めていた例の発作だった。

 空井の体に触れると、筋肉を固く緊張させているのが服の上からわかった。歯を食いしばっている顔は、まるで何か恐ろしいものに耐えているように見えた。

「救急車呼びましょう」僕は言いながら電話に向かった。

「ううん、大丈夫……だと思う」

 僕は足を止め、振り向いて愛の様子を確かめた。空井の側に膝を折って座った愛は、額に落ちかかってくる自分の髪を気にしていた。

 畳んだバスタオルを枕代わりに、空井の頭の下に敷き、顔の汗を拭って五分ほどすると、彼の顔から緊張が取れ、しきりに瞬きをするようになった。さらに五分ほど経つと、僕たちに気がついた。

「俺、どうした?」

「大丈夫よ」

「またか?」

「大丈夫……」

 愛が空井の手を握ると、空井は目を閉じ、寝息を立てはじめた。そして、夜になっても眠り続けた。僕は愛と二人でカレーを食べた。

「知ってたんですか?」僕は言った。

「そっちこそ知ってたの?」

「ええ、前に何回かあったから」

「何回か? いつ?」愛は目を見張った。

「ちょうどここに越して来た頃に……。それから後はありませんでしたけど」

「そうか……やっぱり」

「……何なんですか?」

「わからない」愛は首を横に振った。「空井君に聞くと、昔からあったらしいの。医者にみせても分からないんだって。子供の頃に自閉症の傾向があったから、それが関係してるのかもしれないって言うけど」

「じゃあ、愛さんの所ではよく?」

 空井は、週に三日ほど愛の所に泊まっていた。

「ううん。私もそう何回も見ているわけじゃないわ。それに、最近はもう治ったとばっかり思ってた……治ったっていうか……」愛は少し考えてから続けた。「ハッキングを続けてる限り、あれは出ないのよ」

「どういうことです?」

「さあ、理由ははっきりわからない。きっと精神的なものだと思う。……とにかく、回線を繋いで、あちこち好き勝手なサーバーを破って回っている限り、さっきみたいな発作は出ないの。ここに越してきたばかりのとき、彼は回線を繋いでなかったんじゃない?」

 言われてみればそうだった。だから空井は、僕のコンピュータを隠れて使い始めた。それが分かったので、僕がケーブルを用意して、彼のコンピュータもネットに繋げるようにしたのだ。

「それであの頃、発作が出たんですか」と僕。

「あの人にとってハッキングはね、発作を防ぐ鎮静剤なの」

「でも、今、空井は、嫌という程ハッキングしてるじゃないですか」

「今やってるのはハッキングじゃないわ。ハッキングっていうのは、誰にも規制されないこと。国境も、国の権力も関係ない。自分の入りたいところに、自分の力で自由に入るのがハッキングよ。ハッカーは自由なの。でも今のは強制された仕事。奴隷と同じ。自由のかけらもない」

「自由を束縛されると発作が出る……?」

「ふふ、まるで我がまま坊主みたいなもんよね」愛は悲しげに笑った。


 僕と愛が、空井の発作について話し終えても、島村は何も言わなかった。

 島村が指定してきた新宿の喫茶店は混んでいて、五十センチほどしか離れていない隣の席では、中年の女性二人がずっと職場の愚痴を言い合っていた。

 僕は、島村の馬面を見ていた。人なつっこい顔つきに油断してはいけない。人を動かすために巧妙な手口を使ってくるやつなのだ。

「……とにかく」島村はやっと口を開いた。「医者にみせてみないと、何とも言えないですね」

「そんなに悠長なことを言ってる場合じゃないでしょう」

 医者がちょっとみたくらいじゃ空井の異常は見抜けないだろう。以前にみた医者もそうだったのだし、何ともない時の空井はまるで普通そのものなのだ。

「いや、そんなに時間はかかりませんよ」

「医者が空井の異常を、正確に診断できるんですか? 精神医鑑定ということになると、よく、違った医者が、違った答えを出すじゃないですか」ましてや、外務省側が用意した医者なんて、信用できるはずがない。

「しかし、一応専門家ですからね。他に判断できる人間はいない」

「判断も何も、空井は、今話したように、もう十分におかしいんですよ」「心配し過ぎる気持ちはわかりますが」

「し過ぎ?」僕が大声を出したので、隣のテーブルの会話が止まった。

「ちょっと言動がおかしいのは、プログラマーとしちゃ珍しいことじゃないでしょう。実際、プログラマーの二十パーセント近くは、精神安定剤を飲みながら仕事をやっているのが実状なわけですからね」

「だから、おかしいのはちょっとやそっとじゃないって、さっき言ったでしょう」

「それにしても、仕事を中止するほどのものかどうか……僕らには判断がつかない。だから医者にみせるんですよ」

 外務省お抱えの医者にみせて、軽いノイローゼ、といった診断をつけさせ、薬かなにかでごまかしながら仕事をやらせようという彼の魂胆が見えた。

「少し休ませることは考えないんですか?もう一か月以上ずっとですよ」

「ひと段落したら休んでもらいますよ」

「いつ、ひと段落するんです?」

「今はなんとも……」

「いいかげんにしてください」のらりくらりとした返事を続ける島村に、我慢できなくなっていた。「まじめに答える気がないなら、こっちにも手はある。あんたたちが空井を監禁して酷使していることを、マスコミに発表しますよ」(※10)

 島村はニヤニヤして下を向いた「マスコミは取り上げませんよ。どうにでも抑えられます」

「じゃあ外国だ」空井を欲しがっている国はいくらでもある。「北朝鮮や中国の大使館に駆け込むっていう手もありますが」

 島村の顔がわずかに緊張した。「大使館が、相手にしてくれますかね?」

「実は……渡りをつけてくれる人間を知っているんですが」僕のハッタリだった。

「やめてください」島村は、重い声で言った。「今、日本の状況がどうなっているか、分かりますか? 小泉首相が就任してから、北朝鮮に対する外交政策が変わったのはご存じでしょう。テポドンや拉致問題や、不審船事件もあって(※11)、日本も甘い態度ではいられなくなっているんです。十一月には、警察は朝鮮総連の強制捜査に踏み切りました。日本全国の朝鮮系銀行から、朝鮮総連合に不正な資金が流れているのではないかという疑いがあるんです。その資金は、朝鮮総連経由で北朝鮮本国へ行って、ミサイルや核兵器や、あるいは国際テロを支援するのに使われています。我々は今、その証拠をつかもうとしているんです。それには、空井君の腕がどうしても必要だ」

「でも、空井じゃなくても、システムに入れる人間はゴマンといるでしょう?」

「入るのは簡単です。だが、入った証拠を残さないで出て来れるのは、彼だけだ。証拠が残れば、後々外交問題に発展しますからね」

「しかし、誰にだって普通の生活を送る権利はある」

「でもその人間が、国際テロを阻止する力を持っていたら? 拉致された人たちの行方を突き止める力があったら? 空井君は、君が言うような、ただの人間じゃない。特別な力を持った人間なんですよ。選ばれた人間だ」

「言いふるされた議論はやめましょう。国家か個人かなんてことを論じるほど暇じゃない。とにかく空井を自由にしないなら、朝鮮総連にでもどこにでも行きますから」

「そうですか……。まあ、どちらにせよ、医者にはみせましょう。彼は大事な人間ですから、途中でおかしくなってもらっては困る。だが、あなたがそれ以上にやりたいようにやるなら、警察にあなたを逮捕させます」

「そんなことはできない」

「できます。押収したコンピュータには、いろいろと入ってましたからね」

 僕は言葉に詰まった。僕が勉強のためにあちこちのサーバーに侵入した痕跡のことを言っているのだ。

 島村は続けた。「それと、取り決めの方も忘れないでください。空井君が仕事をしないなら、自衛隊のファイルの一件もまだ生きていますから」

「汚いな……」

「汚い? どこがです? 本来なら、愛さんは逮捕されて当然なんですよ。そういうことを言うなら、いっそのこと公明正大にやりますか?」

「ふん、何が公明正大だよ」僕はせせら笑った。

 そうする以外に何もできなかった。


(※10 今ならスキャンダルをネット上で暴露するという手段もあるが、2000年当時、ネット閲覧者は非常に少なく、暴露したところで社会的なインパクトは皆無と言えた。スキャンダルを暴露するには、新聞社や雑誌社へのタレ込みという方法がまだ一般的だった)


(※11 北朝鮮のミサイル「テポドン」は、日本上空を通過する形での第一回目の発射実験が1998年に行われている。また、2001年頃には北朝鮮からの不審船が度々日本の領海内に侵入し、問題となった。小泉首相は、北朝鮮による日本人拉致問題の解決に積極的で、2002年に平壌を訪問し、金正日書記長から拉致事件についての謝罪の言葉を引き出した)

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