/12 幻死の蝶

 

 薄ぼんやりとした暗闇の中で、意識が覚醒した。

 車の助手席――だろうか。

 それに、妙に煙くさい。

 

 運転席の誰かが、タバコでも吸っているようだ。

 

          ***

 

「ずっと君を探していた。誰よりも美しい蝶になった君を」

 センセイは独りでに語り始めた。

 

「最初はね。僕の側まで来ているんじゃないかと思ってさ」

 それは蒐集の物語。

 この人はずっと晴歌の幻影すがたを探していた。


「でも、君はどこにもいなかった。形ある蝶は醜いんだ。美しくなかった。だから君じゃなかったんだ」

 けれど男は見つけたという。

 この肉体うつわの中に、視えない蝶を。


「死体から飛び立った君は一連の現場に姿を現した。三番目の時も、四番目の時も。きっとそれ以外のすべてにも。それで確信したんだ」

 ――なぜ、この男はかれらの自殺を目撃することができたのか。

 それは知っていたから。

 自分カナタと同じように、自殺者たちの共通点を晴歌から聞いていたから。

 そう、自殺したひとたちには共通点があったのだ。

遠瞳晴歌に苦しみを打ち明けていたという共通点が。

 

「あの7人を殺してあげたのは君だろう。晴歌は優しいね」

 彼は語る。

 死にたい死にたいと口にしながら結局はその一歩を踏み出せなかった臆病者たち。

 ハルカはかれらを死後の世界へみちびく女神だった――そう彼は考えている。

 

「君は本当に優しい女性ひとだ。奏多ちゃんも殺してあげようだなんて」

 

 けれど――違う。

 この男は間違っている。

 わたしはそれを、知りえないはずなのに知っていた。

 

          *** 


「わたしはお姉ちゃんじゃ……ない……」

 

 辛うじて重なった焦点が、目の前にいるセンセイ――京一さんを捉える。身体は動かせないままだったけれど、それでも声だけは振り絞った。

 ――この人は勘違いしている。

 わたしの中にお姉ちゃんがいるなんて……そんなことあるはずないのだ。

 お姉ちゃんは優しい人だったけど、誰かを死なせてしまうなんてことするはずがない。

 だって、あの人たちが死への一歩を踏み出したのは――

「あぁ、まだ奏多ちゃんだったか」

 わたしを一瞥しても、京一さんは涼しげな顔で応えるだけだった。

 優しげな表情は昔と変わらず――けれど、その虚ろな瞳と口元に咥えたモノがすべてを台無しにしていた。

 煙をあげる細い筒状のモノ。その先端が燃え、ほのかな灯りを浮かび上がらせる。

 匂いでわかった――その紙の中には、わたしのよく知っているあの薬が入っているのだ。

 お姉ちゃんの遺品だった。

 眠れない時によく飲んでいたという漢方薬。

 それは嘘だったのだと、今ならわかる。

 あのクスリはこうやって草と一緒に燃えして吸うことが本来の使い方。粉をそのまま飲むのは方法を間違えている。

 こちらの視線に気付いて、京一さんは不気味なほど穏やかに笑った。

「やっぱりコレが足りないんだろ? 晴歌はいつも、これがないと調子がでなかったからね」

 ゆらゆらと揺れるオレンジの光。咥えたモノを灰皿に捨てて京一さんがゆっくりと迫ってくる。その左手にはわたしがもっていたクスリの小瓶があった。

「この量を直接摂取したなら、さすがに眼もめるだろう」

 ――わたしの身体だけが、まだ眠ったまま動かない。

 ただ瞳だけは閉じることができなくて、その現実をまざまざと見せつけさせられる。

「なぁ、おい。だからてくれよ。その瞳で、ぜんぶを見通す君の瞳で。それでわかるんだろう? 頼むよ、晴歌。僕をもう一度、見つめてくれ。君が欲しいだけクスリはあげるから。僕だけが君を支えてあげられるんだから」

 京一さんの乾いた指がわたしの唇に触れて、無理矢理に口にねじ込まれる。

「っ……んッ……」

 異物感が喉奥まで達して――吐き出すこともできず――強引に押し開かれる。口内にタールの匂いが広がる。人間の皮膚の味はどこまでも不快で、きもちが悪くて。

 空気を嚥下すると同時に、怖気が背筋を駆け抜け……身体が反射的に動いた。

「痛っ――」

 噛んだ。

 できるかぎりの力で、噛んだ。肉をいくらか抉って、口の中には鉄の味が広がっていく。

 予想外の反撃に面を喰らって、京一さんはその手を引き――同時に例の小瓶から手を放した。

 瓶は助手席の足下に転がって、中身が勢いよくこぼれる。

 粒子は空気を舞って、車内にうすく広がった。

 京一さんはその瓶を拾おうともせず、血を滴らせる右手をぼんやりと眺めていた。

「いい加減にしてくれないかな……お前はいつも僕と晴歌の邪魔ばかりして」

 表情は変わらないままだった。けれど明らかに温度が変わっていた。

「京一さ――」

 やっと出た声。その叫びオトは、喉まで届かなかった。

お前カナタなんて必要いらないって言ってるだろ。早くハルカに変わってくれよ」

 京一さんの両の手がわたしの首を締め付ける。

 

 ――……っ――っ――


 動脈が圧迫される。

 骨が軋むほどの力で。

 ありったけの愛と憎しみを込めて。

「早くしてくれよ、頼むよ。もう待てないよ晴歌、愛している。抱きしめたい。僕には君が必要なんだ。君には僕が必要なんだよ。だから一緒に行こう。ここではないどこかへ行こう。蝶になるんだ二人で。お願いだから――」

 京一さんの血走った瞳がすぐ目の前で燃えるように輝いていた。暴発した感情はもう言葉では止まらない。きっとわたしを殺したとしても止まれない。

 わたしはその手を引き剥がそうとして――

 

「一緒に死なせてくれよぉ!」

 

 最後に叫んだその言葉が、京一さんの本当に言いたかった言葉だとわかって。

 

 ――

 

 声も出せず、動くこともできなかったけれど、この二つの瞳で笑ってしまった。

 ――あぁやっぱり、この人は誰のことも視ていない。

 だから勘違いしたままなのだ。

 抵抗をやめて、遠瞳奏多わたしは暗闇に落ちていく。現実と夢の境目がとおく、曖昧になっていく。


 それでようやく、本当に言いたかったことを想い出した。


          ***


 ――わたしもお前たちなんかいらない

 死にたいのなら、勝手に死ね


          ***

 

 助手席のドアをしめて、その少女はゆっくりと歩き出した。

 

 陽はとっくに沈みきっている。

 駐車場には他の車はない。人影もなかった。

 少女は時折、身体を小刻みに震わせていた。生まれつき不自由なその左足を労わうともせず、ただ震える身体で歩いていた。

『……』

 不意に、風に舞う花びらが頬を軽くなぜた。

 花びらは桜。

 うすく色付いた春の花。

 少女にとっては、この場所は大切な人を喪った場所で――そして、そう。桜の名所としても知られている、そんな場所だった。

 遠瞳晴歌が死んで2ヶ月。

 いつのまにか、そんな季節になっていたのだ。

 立ち並ぶ桜は八分咲きくらいだろうか。

 一緒に桜を見に行きたい――そんな約束をしていたこともあった。

『……、……』

 この近くのカフェに寄った時に、そんな約束をしたのだ。

 お互いに研究室の愚痴を言いあったりもして――それで。

『――っ。……違う』

 立ち止まり、少女は呻く。――間違いに気付いたからだ。

 晴歌とこの約束したニンゲンは飛び降りて死んだ。

 煩わしい人間関係を捨てるために、4階の研究室の窓から墜落して死んだのだ。

 ――だからこれは遠瞳奏多の記憶ではない。4番目に死んだ女の記憶だった。

『……。違う』

 脳に浮かんでは沈むいくつもの幻影ヴィジョン

 それが誰のモノで、何時で、自分はどこに立っているのか。すべての境界が薄れている。

 足下がおぼつかない。

 ――あまりに一度に、すべてを思い出してしまったせいだろうか。意識の統合に時間がかかっていた。

 脳が化膿していく鈍い痛みに、少女はその小さな相貌(かお)を歪ませる。全身の震えが徐々に強くなっていく。

 それでも足だけは動いた。

『……帰らなきゃ』

 それはいったい、どこに?

 カナタに?

 それともハルカに?

 きっとどちらでも変わらない。

 だって、2人は同じ家に住んでいて――たとえ離れていてもずっと側にいるはずなのだから。

『帰らなきゃ』

 もう一度呟いて、少女は公園を抜ける。川沿いの道をひたひたと歩いた。

 公園の北側には川向こうに繋がるコンクリートの橋があり、今も忙しなく自動車が往来していた。

 橋下の河川敷を少女は進んでいく。

 月明かりで照らされたコンクリートの壁面は青く輝いて目に痛い。

 この場所は車の走行音が反響して、静寂には程遠かった。それだけでなく、耳の奥で鳴り続ける羽音ノイズが止まらない。


 ――騒々しいうるさい


 音も光も、今の少女にはどちらも不愉快な感覚だった。

 だから、さっさとこんな場所は抜けてしまおう。

 そう考えた時。

 

 ――視線を感じたみたれていた

 

 何かが背後に立っている。その気配を感じる。

『……』

 いや、何かではない。今の少女は振り向かずとも、たなびく白の夜儀礼服ロングドレス透視えていた。

「捕捉しました」

 無機質な――透き通る水のような声。その声に応じるように少女はゆっくりと振り返る。

『やっぱり』

 はたして式神はそこに立っていた。

 会ったことはない。

 けれど、この魂は彼女を知っている。

 白衣びゃくえ式鬼しき。暁月妙理。

 熱意なく、悪意なく、虚無すらもなく――青い蝶を殺すモノ。

 

『わたしはアナタを知っている』

 

 唇からこぼれた彼女の名は果たして誰の中で聞いたものだったか。

 それすらも忘我したまま、少女はしばし、その白に見蕩れていた。

 

          ***

 

 暁月妙理が少女の前に現れることができた理由は単純だった。

 ――遠瞳家の隣家に待機していた妙理は奏多が連れ出されたその瞬間を見ていたのだ。そして車を追跡し、この場所まで辿り着いた。

 妙理に与えられた第一の命令しきは蝶を排除することであり、それ以外は優先されない。故にこの時まで、離れた場所から彼らの行動を観測するに留まっていたのだ。

 そして今、蝶はその現像ビジョンを夜の町に晒していた。

 コンクリートの橋下を、町の光から逃れるように徘徊する少女の影。

「捕捉しました」

 妙理の言葉に呼応するように、暗がりの中で少女が振り返った。

 着ている物は乱れた桃色のワンピースだけ。暴漢にでも襲われたかに見えるその乱れた姿は――しかし、より強い印象によって凄惨さの意味が塗り替えられていた。

 少女はうなだれた前髪のすきまから式神へと半眼を向ける。

『わたしはアナタを知っている』

 そう呟くと同時に、その数千を越える瞳が一斉に動き出した。

 ――少女の背中からこぼれ出る蝶の群れ。

 それらは有機的に蠢きながら一対の蝶翼はねとして顕現する。

 妖精などと呼ぶにはあまりにも禍々しい悪夢の青。

「……」

 妙理は応えない。踏み込もうとはせず、少女の10メートルも手前で止まっていた。

 動かないのではなく、動けない。

 橋下の暗がり――青く染め上げられた勢力圏内に踏み込めば数多の蝶に魂を蝕まれるのは必定だった。

 ――一目見て理解わかるほどに、かつて相対した蝶とは存在の濃度オモサが違っている。

 少女はしばしの間、妙理を観察し――穏やかに微笑んだ。

 ――似付かわしくない、大人びた表情かお

 その少女のまとう空気はどこか不安定アンバランス。認識が一定せずに揺らいでいる。

 例えるなら、人びとを異界へ誘う蝶そのままに。


『――人は死ねば蝶になる』


 そのみを浮かべたまま、少女は詠うように喉を鳴らした。

『かれらは青いチョウにうつくしい幻死まぼろしをみて、死んでしまった。人のナカミはうつくしいから、みにくいカラダなんてもういらない――って』

 それは自殺した8人のニンゲンの事を言っていた。

 本に書かれたモノガタリを口にするように、幼子に語り聞かせるような声色で。

 けれど――と、そこで少女は口をつぐむ。

 ゆっくりと眠たげな頭部おもてが持ち上がる。

『わたしは自由なカラダウツワがほしかったの。わたしは――』

 いつのまにか――少女のかざされた右手の上に、一羽の蝶がとまっていた。小さく透明な瞳が見つめる先。

暁月妙理そのカラダがうらやましい』

 その絶叫ささやきと同時に青い蝶は一筋の光となる。

 蝶を象った憑依の魔弾は視覚で捉えられる域を越えている。おそらくは思考と同程度の超速。

 それは即ち、式神にとっては対処可能な範囲内であることを意味していた。

「そうですか」

 唐突な開戦に動じることなく、妙理はその蝶弾を一閃する。

 その右手には五芒の手甲。晴明桔梗印による付帯効果が込められている。単発であれば、切り裂くにたやすい。

 条件としては前回と変わらず――だが、この式神とて前のようにはいかないことを理解していた。

 蝶の数も質も正面から立ち回れるモノではなくなっている。その結論を算出すると同時に妙理の身体しきは少女から距離をとろうと後方に跳ねて――


にげないでのがさない

 

 耳元で囁く声に反射して――空中で身を半転させた。

 身体をねじ切らんとするほどの強引な挙動――しかし、そうしなければ終わっていたのだ。

 身をひねらせた妙理の眼前を青いひかりが通過する。

 それが妙理の着地するはずだった地面から放たれたモノであると認識した時、すでに妙理は側方へと回避していた。

 その瞬間にも一羽、二羽。三羽と魔弾は足下から襲いかかる。躱しつつ、それらを切り裂くが――半数を打ち漏らした。

「――」

 見れば少女からこぼれる蝶の一部が地面へと吸い込まれている。予測される軌道から弾丸の正体は自ずと判った。

 あらゆる障害げんじつを透過する遠見の異能ちから

 霊体がもつ物質透過の特性の戦術転用。本来の『透視』という特性を越えて、蝶は凶悪な魔弾に成り果ている。

 物質の向こう側、あらゆる死角から蝶弾は迫る。それを躱すために、妙理は不自然な挙動を取らざるおえない。

『ねぇ、アナタもカラダがいらないんでしょう?』

 飛び回る妙理を見て、少女はたのしんでいた。

 まるで歌劇でも見るかのように、殺し殺される状況であることなどまるで意にも返さずに――その瞳には殺意がないままに。

「特には」

 妙理はそう肯定し、身を翻らせて蝶弾を躱す。躱し続ける。

 だが、同時にこの流れが蝶の誘いであることも理解していた。


 ――妙理は流されるように橋の下へ、少女の暗がりへと招かれる。

 すなわち、群青アオの勢力圏内。


 妙理はすでに逃れることのできない視線ひとみに絡め取られていた。

「……」

『いらないんでしょう――なら』

 少女は変わらない表情で一歩。妙理へと近づいた。

 その青い両翼が、八方へと開かれる。

 畸形じみた曼荼羅マンダラか。あるいは魂を食らう食虫花。

 少女の肚内はらに潜む、あらゆるアオが。

 千を越える蝶が、一斉に。

 

ちょうだいよこせ

 

 ――少女の矮躯からだから解き放たれる。

 それは貪欲に器を求める蝶の群れ。次なるカラダを求め続ける、少女の嘆きそのもの。

 弾丸は直線軌道を描くものだけではない。それらはまるで視界すべてを狂わせるかのようにデタラメ軌道で跳ね回る。

 作用・反作用の原理を逸脱した蝶弾の乱舞あらし

 地面から。壁面から。天井から。反転して背後から。――決してこの場所から妙理エモノを逃さぬように襲い来る。

「この総数かずなら対処可能な範囲内ですが――しかし」

 その嵐に飲まれながらも、妙理の式はその弾雨に適応していた。

 躱し、躱し、躱し、躱し続ける。

 蝶の魔弾は当たらない。当たることはない。それほどの性能を暁妙理は持っている。

 右へ左へ。上へ下へ。同じく閉鎖された空間すべてを利用した縦横無尽の走法によって、時に幾匹の蝶を潰しながらも妙理は暴風雨をやりすごす。

 だが、それでも。


「――まだ足りない」


 進めなかった。

 いくら蝶を切り裂いても、いくら弾丸を躱せたとて、――少女と妙理の距離は一足として縮まらない。

 ――式神とは斯くなれば斯くなるシステムの具現。

 最適解を実行し続けるその性能はあらゆる戦闘行動において最高の有利アドバンテージとなる。

 だが、それは逆に最適解がなければ適応しえないという暁月妙理シキガミの限界を意味していた。

 蝶弾の雨を躱しつつ攻めに転じること。――それを行える解が存在し得ない。それほどの物量差。

 蝶を切り裂き続けても、少女の背中から今もなお群青は溢れ続ける。悪夢には果てがない。

『――さぁ』

 妙理に与えられた式をもってしても、この悪夢の群れを越えることは不可能だった。

 少なくとも徒手空拳で制圧できる相手ではない。最低でも刀剣類の一つでもなければ反撃に転じることは不可能だと推察される。

『さぁ――わたしがもとめるワタシをちょうだい』

 少女は悪夢の中心で微笑わらっている。この悪夢の本質を欠片も理解しないままに、独りでに微笑っていた。

 少女の狂笑が、この閉鎖された暗闇に反響する。

 

 だからこそ――破滅が訪れるのは必然だった。

 

 妙理が蝶の嵐の中で、数百目の蝶を切り裂いた時。

「そろそろ、でしょうか」

 そう呟いた刹那に――すべての蝶の動きが静止した。

 一斉に糸で縫い付けられたかのように。

『……?』

 疑問に首をかしげる少女。

 動けないのは――蝶の中心に立つ少女も同じだった。

 ――笑みがひきつる、それだけなく全身の筋肉が――あるいは、その内側にあるはずの主体なかみが痙攣して、動きを止めていく。

 少女の矮躯からだはずっと震えていた。

 寒さにこらえるように、疼痛をこらえるように。

 まるで徐々にとおくなっていく自己おのれを抱きとめるかのように。

『……うご…か』

 その場に膝をつく少女。それを無感動に眺めながら、妙理はゆっくりと歩を進める。少女に近づいていく。

 最早、これらの蝶は警戒するに値しない。

 妙理と少女の間には空中に縫い止められた蝶が残っていたが、それらは抵抗することもできず、ただひと振りで霧散した。

 ――一羽また一羽と蝶が消えていく度に、少女のカラダが引きつけのように大きく震える。

 少女はもう自由には舞い踊れない。背中の蝶翼はねもまた散っていき、残されたのは足の不自由な少女のみ。

 ――逃げることもできず、震えるだけの少女のみ。

『……なん……で?』

 妙理は少女の下へと歩み寄りながら、その答えを告げる。

ナカミが失われたからです」

『ナカミ……――わたしの?』

 妙理を見上げて、少女はうわごとのように呟く。

 ――それでようやく理解が追いついたのか。瞳を見開き、その幼い表情かおを絶望に染める。

 少女が失ったのはその主体たましいだった。

 存在を定義する本質――その一部分を離脱させ、飛翔自在に操るのが遠瞳家の異能。しかし、それは代償として分霊の消滅がそのまま主体の消滅に直結することを意味している。

 蝶弾のひとつひとつ。それは少女の内包する膨大な魂の一部だったが――それでも削り続ければ壊れるのは道理。


 今、少女のナカミだった多くのモノが消えつつあった。

 大切なモノも、そうでないモノも。くだらないモノも。うつくしいモノも。みにくいモノも。


 しかし、それらすべてが少女カノジョを形作るモノであったが故に――少女は今、自己を失いかけている。


 まともに自分カラダも動かせないほどに。

『……イヤ――イヤっ!』

 その事実に少女はようやく、少女のままに慟哭した。

イヤ! 消えたくない……死にたく――』

 それは少女の本心。心の奥底からの叫びであったのだが――その叫びを聞き届けた妙理はその歩みを停止させた。

「……」

 式神にとって本来ならばありえない行動。

 問答など必要ない。式を果たすのなら、早々に死にかけの少女にトドメをさせばいいだけだというのに。この時の暁月妙理は――不備を起こした機械のように停止していた。

「嫌、ですか……」

 表情をわずかに――穀雨玉兎己が主ですら気付かぬほど微妙に変化させて妙理は呟く。

 それは少女の嫌悪が理解できなかったから。あまりにも理論しきが噛み合っていなかったから。

 その魂を失ったことを喜びこそすれ、なぜ嫌悪する必要があるというのか。その矛盾に疑問を抱いてしまったから。

 故に飾りのない真実を暁月妙理は口にする。

 なぜなら少女は――青い蝶は――遠瞳奏多は――

 

あなたはずっと遠瞳奏多そのナカミがいらなかったはずでは」

 

 その真実コトバひとつで――少女を構成するすべての魂が軋みをあげた。

わた遠瞳……しはカナタは?』

 ――遠藤奏多は蝶だった。

 蝶はトマリギを腐らしめ、自分そこにはないものを求めて飛び続けていた。

 けれど、それは永遠に終わることのない悪夢と同義だ。

 蝶にとっては憑いた人間の生死など関係なかった。

身体の移動を繰り返していたのは単純に――どんなうつわを手にしたとしても、その本質たましいからは逃れられなかったから。


 ジブンが見せる劣等感アクムにだけは、決して果てはないのだから。


 宙に浮かんでいたすべての蝶が霧散する。

 町の片隅に生じた少女の異界は、この時すでに静寂へと戻っていた。

 何でもない町の片隅で――遠瞳奏多はすがるように暁月妙理へと目をやった。

「わたしは――」

 少女の声が意味を結ぶよりも早く。

 妙理は一足でその距離を詰める。本来の役目を取り戻したかのように、迅速に。

「――」

 言葉もなく右掌てのひらを少女のちゅうしんに叩きつけた。そして、そのまま右旋みぎまわりにえぐり込む。

 それが決定打。

 少女が何かを思考する刹那もなく、身体は力を失い――その場に脆く倒れ伏した。

 

          ***

 

「いえ、やはり回答はけっこうです」

 残された妙理は一人、倒れ伏した少女に告げる。

 事は成した。

 与えられた役割は果たした。

 蝶にはすでに一割の力も残っていない――生命活動は持続しているが遠見の異能もこれ以上は使えない。

 故に、あとはこの抜け殻同然の少女うつわ玉兎あるじのところに――と、妙理が少女の身体を掴みあげた時だった。

 

 ――違う。

 

 妙理の式はその異常を理解する。

 何度かの接触で、すでに妙理は蝶の存在を感知することができるようになっている。その感覚が――違うと告げていた。

 ここにはいない。

「迂闊でした」

 この肉体には青い蝶の、その魂の――すべてが残されていたわけではなかった。

 この器はまず初めに捨てられたモノだったのだ。

「――大元は別の場所でしたか」

 振り向いた妙理の視線の先。

 ここから少し離れた公園の駐車場には、波左間京一に棄てられた肉体うつわが一つ残っていた。

 

 

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