第37話『海原に出た船』

「そっと降ろすよ~」

「邪魔邪魔! 荷台の通れる道幅を作ってっていつも言ってるでしょ!」

「これ三番ネジで良かった? あ、そこの蝶番向きが逆よ!」

 喧噪の中で、てきぱきとした指示と、溌溂とした返事が飛び交っている。

トールは口に咥えた釘を、慣れた手つきで板に打ちこんでいる。小気味よい音が響く。額に滲んだ汗を手拭で拭った。

 トールは今、一つの大きな仕事を手伝っていた。それはケイルゥの所属する劇団『メハ』の新春公演第一弾『グッドウィルの冒険~新たなる旅立ち~』の舞台を作る、大道具と小道具の仕事だ。

 この仕事は、今まで関わってきた人々の縁があって巡ってきた仕事だった。

 メハは街でも一番の人気劇団だった。あのホートミルプ美術学校に通う絵描き少女や、ドクターマルフォイも贔屓にしている。店に立ち寄った二人から、公演後の熱っぽい感想を、トールはよく聞かされていた。

 絵描きの少女はケイルゥの、マルフォイは看板女優のブリジットの熱狂的なファンだった。

 二人の美貌もさることながら、特にケイルゥの月光を映したような美しい銀髪に映える、ブリジットの燦燦と輝く太陽のような金髪と、宝石と見間違うほどの深い群青色の眼は、羨望の的で、観客の心を虜にして離さない。二人は、若者にも中年層にも、カリスマ的な人気があって、公演の時ともなれば、劇場は中も外も、贈られた大量の祝い花で一杯になる。花屋もびっくりするほどだ。

 ラブストーリーが、メハの十八番で、街の婦人たちは、花形たちの織り成す名演技を観に、心を溶かすように、熱心に通っている者が多い。

 メハは、チケットが取れないことでも有名で、裏でチケットが高値で取引されることも多かった。チケット販売の時に出来る行列の長さで、その公演の人気ぶりがわかる、というのが通例だった。

 芸能に疎いトールだったが、そんな人気劇団の仕事を引き受けたのは、脚本を手掛けたのが、グッドフェローの冒険の原作者でもあるアーガレット=F=マキムゴールで、彼女に直接依頼されたからだ。

「店主、店主はシンバマハリの出身と聞いた。是非あのポンポン船の製作を君に手伝ってもらいたい。今回あれが大掛かりな舞台装置になる。劇団の人間だけでは、技術も手も足りないみたいなんだ」

 アーガレットは、両手をすり合わせて拝みこんだ。

「そんな。シンバマハリの者が皆、船を作れるわけではないんですよ。立派なものを作るならそれなりの船大工を雇うべきです」

「いや、私は君に頼みたいんだ。この舞台は君じゃなきゃダメな気がするんだ。あのポンポン船のことが一番分かっているのは私と君だ。君がいることでこの劇は完成する。これは私の本能が言っている。それに、もう一人きりで劇団と向き合うのが辛いというのもあるんだ」

 アーガレットの目の下には、また色濃い隈が出来ていて、抱える苦心ぶりがありありと見えた。

「何かあったんですか?」

「私は私の世界でグッドフェローの冒険を書いている。でも私の見る世界と、読者や他の人が見る世界は違ってくる。当然だ。文字から想像する情景は人それぞれ捉え方が違う。葉の大きさ。風の音。水の匂い。私はその想像を一致させるように書いているつもりだが、限界はある。世界観の意思統一で演出家と凌ぎ合いをしていてね。一人きりで作っているのではない大変さを味わっているよ」

 アーガレットは劇団の演出家と、自分自身の作品の世界観とで板挟みになっている。しかし、ちょっとやそっとでは引き下がらないという、気迫のようなものが、向日葵のような黄色の瞳に宿っていた。

「礼金も弾む。足りなければ私のポケットマネーを足そう! 店の改築をするなら、少しでも資金を増やしておいた方がいいんじゃないか?」

「それはそうなんですが、でも芸能界ってものに、あまり関心がないんですよ。自分とは縁遠い世界だと思って」

 芸能界の煌びやかさに、ちょっと臆してしまう自分がいる。それに目立つこともしたくない。トールが勇者と旅をしていたことは、公にはなっていない。勇者の旅を記した旅にも、トールの名前は記載されていない。

「人と人の繋がりを大切にするのが君の流儀だろ。私との縁も大事にしてくれ」

「いつにも増して積極的ですね」

「私だけでは完成しないものが見えたんだ。人とモノを作るその魅力。それは一人きりで完結していた物語が、自分にはない発想を取り入れることで、更により良いものになって飛翔する。今回の劇は原作とは大きく物語の展開が変わっている。悔しいが私の力を超えた節が幾つもある。初めはあれこれ言われるのに納得できず、幾度となく再考を重ねてはぶつかって行った。それは自分の価値観を揺さぶられる刺激に満ちたものだった」

 他人とモノを作る喜び。一人で店を切り盛りするところに落ち着いたトールではあったが、それが分からないわけではない。むしろ修業時代は、多くの人と共同して仕事を行うことの方が多かった。

 前にアーガレットに話した、巨人のピアノを調律した時などがそうだった。

今まで経験した仕事の全てが、一つの完成に向かって、皆が一丸となりひた走っていたのなら、トールの今の道具屋としての営みは違っていただろう。

 働く理由。それが人それぞれに違うことで、仕事へ向かう意識も自然と変わってくる。そもそもの賃金を稼ぐにあたって、このくらいの賃金なら、このくらいの仕事をすればいいか、と思ってしまう輩はいる。それが悪なわけではない。求められていること以上のことをするには、何かしかの付加価値が必要になる。よりよいものを作り上げる目的のために、一致団結する連帯感や自分の成長や充実感、達成感に浸るのは、結局のところ自己満足でしかない。その自己満足をどこまで高められるか、結局はそこに尽きる。

 それに人が集まって何かをする時には、必ず怠けようとする者は一定数出る。巧みに狡猾に足を引っ張り、あるいは蹴落とす者がいる。そういう類のものがトールは苦手だった。それらを自分も平然と上手くやることが出来れば、ストレスを感じることもないのだろうが、つい不器用な自分を比べてしまい、要領の良さを見せつけられている気がしてうんざりした。

 だが、そんなものも超越して、真正面から真摯にモノ作りに向き合っているこの人を、無碍にすることも憚られた。自分の認める煌きを持ったこの人に何かしてあげたい。トールはそう思った。

「……稽古の様子を見させてください。仕事を受けるかはそれからです」

「そうか! 検討してくれるだけでも嬉しいよ!」

 アーガレットは、少女のように笑顔の花を咲かせた。


 後日、トールは劇団メハの劇場に足を運んだ。早朝から始まった舞台の稽古は、まず座長の挨拶から始まった。

「新春公演第一弾、アーガレット=F=マキムゴール著『グッドフェローの冒険~新たなる旅立ち~』を上演するにあたって、この作品の全体を見た時の一番の見所を、改めて皆に話しておきたい。それは冒険のロマン。そしてロマンスだ。アーガレット女史の手掛ける物語の世界観、小さきグッドフェローから見た世界は壮大で、見た者を圧倒する力を持つ。天に向かって逞しく伸びる木々、それに滴る清涼な水の一滴に至るまで、巨大で生命力に満ち満ちている。我々はまず小人の気持ちになるところからスタートしよう。大道具。今までにないくらい大掛かりな仕掛けが必要だ。役者にいち早く実感させるべく大至急かつ安全に製作を進めてくれ」

 威厳と風格のある女座長だ。団員は快活に大きく返事をした。

「はい!」

「稽古に移るぞ。役者は台詞の読み合わせから。時間は有限だ。一秒たりとも無駄にするな」

 蜘蛛の子を散らすように、素早く持ち場に着く団員に見とれて、トールは口を開けていると、ココア色の長髪の男がトールに歩み寄って来た。アーガレットに話に聞いていた美術班の班長、ザインだ。

「君が、アーガレット女史の助っ人であるトール君か? 丁度いい、すぐに来てくれ」

「わ、ちょっと」

 ザインはぐいぐいとトールを引っ張っていくと、製作中のポンポン船のセットの前に来た。

「舞台上では半分だけ見えていればいいのでこんな張りぼてなんだが、どうにも魂がこもらない。少し見てくれてるか?」

 トールはぐるりと一周して、ポンポン船のセットを見た。確かに客から見える部分はしっかりと作られている。裏面は元々の構造にはない階段や、小道具をしまうスペースが造られていた。なるほど、本物らしく見せつつ、舞台の一部として機能するようになっていた。こうゆうものは初めて見る。

「この公演での目玉は、水を使った演出なんだ。舞台を中抜きにしてそこに水を溜める。そしてクライマックスは、主役のケイルゥと看板女優のブリジットが水の中に落ちるんだ。まさかそれで舞台上にプールを作らされる羽目になるとはな。無茶をやらせる」

「船は実際に浮かべるんですか?」

 トールが言うと、ザインは首を振った。

「本格的な作りの船をもう少し小さく作るか、舞台をもっと大きくして、水の量を増やすかしなきゃいけないがそんなのは不可能だ。だがなぁ、客にメハはここまでやるのかっていう驚きを与えたい」

 ザインは困り顔で唸っている。船は張りぼて、水は使う。だったら船が水に浮いているように『見える』よう加工すればいい。

「少しなんとかなるかもしれません」

「本当かい!? なにか名案があるのか?」

 ザインは指をスナップしてトールを指差した。

「でも僕は劇団の人間ではないので手を出していいものか」

「見学に来たと言うことは、職人魂がうずいたのではないかね? 人手が必要なんだ。手伝ってくれるだけでも助かるが、切れ者というならいっそ引き抜きたいと考えるが?」

「あと一つ言い訳が欲しいんです」

「言い訳?」

 ザインは不可解そうに目を細めた。

「この劇を手伝う言い訳を。すいません。僕にも事情がありまして」

 言いづらそうにしているトールを見て、ザインは口元に手を当てて察した。

「ふむ。言い訳を作るまでしなきゃ手伝えないというのなら無理強いはしないさ。男の言い訳ってのは他人にするものじゃない。自分の中にあるものさ。でもね、君はアーガレット女史に乞われてここへ来た。そして自分の力を試せる場所がある。それだけあって何が足りないというんだ。詰まるとこ自分では判断できなくなっているのではないかね?」

「そう……なのかもしれません」

 自分の踏ん切りのつかなさが嫌になる。だが、

「アーガレット女史は飛び込んでいったよ。見知らぬ人と物を作る大変さはこんな劇団を長年やっていても毎度毎度で思うところさ。仕事が嫌になってしまう奴よりも、自分を認められなくて去ってしまう奴のが多い。どの業界でもそうだがな。でも人と人は諦めたらそこで終わりだ。自分自身だって諦めたらそれこそもう終わりだ。何かに挑戦している時にだけ輝く星が人にはあると僕は思うよ。うちの劇団のモットーだが……」

「なんです?」

「迷ったら飛べ、だ。飛び込んだ先に何が待っているかは分からないが、淵で悩み続けているより、ずっといい景色があると信じて飛ぶことが、何よりも重要なんだって何度もやっているとわかる日が来るんだ。少し勇気がいるがね」

 その言葉がトールの背中を押した。トールは以前、アーガレットに言われた、

『神様がくれた、想像力という果ての無い海に、潜ったり泳いだりダイブしたりするのが大好きなんだ』

 という言葉を思い出した。自分の殻に閉じこもってばかりいては、何も生み出せない。

――確かに先生の嵐に攫われるのは、そんなに悪くないんだよな。

 トールは劇団を手伝う覚悟を決め、ザインに協力を申し出た。

 その後アーガレットに、仕事として劇団の大道具の製作に携わることを正式に告げると、

「本当かい!? 君がいれば百人力だ!」

 と、アーガレットは年甲斐もなく跳ねて喜んだ。


「今回、脚本というものは初めて書いたのだが、いい出来のものが書けたと思うんだ」

 演出家と打ち合わせている合間の休憩で、アーガレットが話してくれた。

「今までは自分の好きなことを書いているだけだったが、誰かに期待されて任される仕事というものも、身が引き締まっていいものだな。君じゃないが、緊張を孕んだいい仕事が出来たと自負している。他人の感性に翻弄されるのは参ることも多かったし、ここまで生みの苦しみを味わったのはスランプ以来だったが、楽しんで書く以上のことに出会えた気がするよ。私の生き方が変わってしまうかもと思うほどに」

「脚本家の道もあると?」

 トールが聞くと、アーガレットはひじ掛けに頬杖をついて嘆息した。

「いや、つくづく私は小説家でいたいと思わされた仕事でもある。難しいし充実感も達成感もあるが、人との意識レベルのすり合わせは少々神経に堪える。楽な道と辛い道があったら私はまだ気楽なまま書きたい。このことだって次の小説の糧にするつもりさ」

 アーガレットは、頬杖を解いて手を広げて、そして前屈みになって手を組み微笑した。

「先生の根っこは小説にあるんですね」

「まぁそれもこの先はわからないがね。自分の一番適している世界が、どこにあるのかはやってみないと分からない。やり続けてみないと分からない。小説家を名乗って七年経つが、まだまだ答えは見えてこない。自分はもっと別のことが出来る人間なのかもしれない。でも私の中の物語があるうちは、小説家でいたい。私が思いついちゃったんだからしょうがなかったんだ」

 それが、アーガレットが小説家でいるための言い訳なのか。いや、そんなものよりずっと純粋な思いだ。トールはアーガレットに手を差し出して言った。

「僕も先生の世界観を舞台上に表現出来るように、全力を尽くします。一緒にいいモノを作りましょう」

 アーガレットは、トールに向き直り手を取ると、二人は口角を上げて握手を交わした。


「トールさんも手伝っているんですね」

「君も来ていたのか」

 劇場の休憩室にいたのは、洋裁師のタカヲだった。

「僕も衣装のデザインを任されていまして。いかんなくこの細腕を奮っているところです」

 タカヲは作業着のいたるところに縫い糸を着けていて、丁度仕事に戻るところのようだったが、知り合いを見つけて嬉しい様子で、そこのところはアーガレットにも似ている。ホッとしているわけではない、というのがタカヲらしかったが。興奮した口調でタカヲは話す。

「人気絶頂のケイルゥ&ブリジットのカップルに加え、ベストセラーも飛ばした新進気鋭の作家、アーガレット=F=マキムゴールの脚本に合わせて、たくさんのデザイナーがコンペをしまして。メインカップルのデザインは、落選してしまいましたが、小動物たちの衣装のデザイン案や縫製技術を買われたんですよ。トールさんに作ってもらった、シグルドも大活躍です。こんなに腕の鳴る仕事もないです」

「そうか、それは良かったな。一緒に仕事ができて俺もうれしいよ」

「とてもいい経験になっています。演出家もこだわりが強い人で注文は多いですが、やり甲斐があります。トールさんと一緒に仕事が出来るとは思わなかったな。そうだ、あっちにヒイラギの美味しいケイタリングがありますよ。衣装部の作業が残っているので。ではまた」

 そう言ってタカヲは足早に去っていった。

本当にたくさんの人が携わって、共に一つのゴールを目指して仕事をしている。抜かりの無いように気を引き締めて、トールは首に掛けていた手拭を頭に巻き直した。


 公演初日。

 トールは心明、明明と一緒に劇場に来ていた。芝居見物など初めての二人は、朝かウキウキとはしゃいで、夜までもたずに二人とも興奮でクラクラして、一度昼寝を挟んだくらいだ。

「トール! 急行! 行列膨大! 大蛇似!」

 二人がトールの先で、駆け足の足踏みをしている。

「急ぐと転ぶぞ、開場までまだ先だから焦るな」

「但!」「但!」

 二人とも劇場前の行列の長さに、早く入らないと席が埋まってしまうと、不安そうな顔をしている。

「俺たちは裏から入るぞ。楽屋のケイルゥに挨拶をするから」

「仰真地!? ケイルゥ相見!?」

「一度必見心願! 夢叶今!」

 二人は、両手を上げて飛んで跳ねて喜んだ。全身で喜びを表現している。

「初日の開演前でみんなピリピリしてるから、大人しくしているんだぞ」

「応任!」「応任!」

 トールたちは、劇場の裏手にある、通用口に向かった。外にいる守衛に、関係者だけに配られる木札を見せると、中に通された。

 楽屋に続く廊下にも、所狭しと祝い花があった。一般に生活しているだけでも良く聞く、他の劇団の俳優や政治家、協力企業、大商人、関係各社の名前がずらずらと並んでいた。オルゴールの修理の時に、お世話になった市長からの花も届いている。

 スタッフが慌ただしく廊下を駆けまわる。開演前の一番忙しい時間と、かち合ってしまった。トールたちは邪魔にならないように、壁に沿うように、ケイルゥの楽屋へと向かった。

 楽屋前には、団員たちがこぞって挨拶に来ていた。トールたちもその列に並ぶと、心明と明明は目を輝かせた。うるさくならないように、二人だけが分かるボリュームであれこれ感想を話している。若手の役者たちが、元気のよい挨拶を次々に済ませて、トールたちの順番になった。ノックして中に入る。

「ケイルゥ、俺だ」

「おう、トール。来てくれたか。ってことはもうすぐ開場か」

 舞台化粧をしているケイルゥは、白粉を叩いていて、ただでさえ白い肌が更に際立っている。目の縁に赤を差し、涼しげな眼差しに情熱を感じさせる。

双子はケイルゥの姿がこの世ものとは思えないのか、口をあんぐりと開けて呆けている。トールでも、ハッとさせられる美しさがあった。

「緊張しているか?」

「もう何回舞台に立っていると思っているんだ? 俺の御贔屓で客席が埋まるんだ、緊張なんかしてられるかよ」

 ケイルゥは鼻で笑って、涼しい顔をしている。

「アーガレット先生の脚本を読んで痺れたよ。お前も尽力してもらったようで感謝しているよ。あれはいい船だ。今日は素晴らしい夜になる。三人とも楽しんでいけよ」

 サービススマイルとウインク。流石は役者。華やかさと優美さでクラクラする。

「応任……」「応任……」

 夢見心地の二人は、何とかそれだけの言葉を口に出した。

「それじゃ、俺たちは客席に行くよ。頑張れよ」

「おう」

 ぽーっとしている双子の背中を押して、トールは楽屋を出た。すると、ショルダーカットのトップスを、ラフに着こなした麗人とすれ違った。

「ブリジット!」

 明明が思わず声を上げた。

「こら、ちゃんとさんをつけろ」

 トールが慌てて明明の口を塞ぐ。

「あら可愛らしいお嬢さんですね」

 ブリジットは間違いなく街一番、いや国一番と言っても過言ではない、絶世の美貌を誇っていた。ケイルゥに勝るとも劣らない、一流の生け花、それも肩書は逆だが、白き貴婦人のシトロベリカ、金獅子王のシクンシシスの花が浮かんだ、互いに魅力を引き立て合うように華やかで、そして役に入り込んでいるからか、見る者の心の奥を引っかくような、脆く崩れて去りそうな儚さもあった。

「すいません、うちの子が。すぐに行きますので」

「いいのですよ。ごゆっくり楽しんでいってください」

 しなやかに礼をするブリジットは、美の化身のようだった。トールにも、少なからず淡い恋心のような熱を、胸に感じるほどだった。心明と明明がいなかったら、まともに口をきけていたかどうか自信がない。

 通路を抜け、客席の階段を上がっていると、トールたちの席の一つに、サラがいた。辿り着くまで距離があったから、火照っていた顔を、冷ますことが出来た。

「やっときた」

 サラは、相変わらずのむくれ面だった。

「すまん、遅れた。今日は来てくれてありがとう。遠かっただろ?」

「あたしに距離は関係ないわ。それより何? いつの間に子連れになったの?」

「違う違う。うちの弟子だ」

「心明!」「明明!」

 二人は、サラのむくれ面にもまるで動じず、元気よく挨拶をした。

「女をラブストーリーに誘うのに……」

「そういうの気にするたちだったか?」

「別に。まぁメハの舞台なんかなかなか観られるものじゃないからいいけど」

「チケットを多めに貰っておいてよかった」

「……ありがと」

「なんか言ったか?」

「なんでもない! ほら始まるわよ」

 トールたちのいるのは、二階の最前列。関係者席としてはかなりいい席だった。多少遠いが、舞台を端から端まで、視界に収めることが出来る。

 三人が席に着くと、開演を告げる鐘が鳴らされ、それが鳴り止むと、客席を照らしていた光輝石の灯が、黒服の会場係によって落とされた。芝居が始まる。

 今公演のテーマは『寂しさから喜びへ』だ。相棒のシマリス、ウィルスライと別れ、一人になったケイルゥ演じるグッドフェローと、新たに旅をする同族の小人の少女、ブリジット演じるエリスナードの出会いから旅立ちまでの物語。

 グッドは、初めて同族の小人と出会ったことから、それまで抱えていた寂しさも吹き飛ぶほどに舞い上がって、エリスとの出会いを心の底から喜ぶ。そんなグッドを、エリスは驚きと戸惑いから素直になれず、今までの旅を楽しそうに話すグッドに初め、辛く当たってしまう。しかし彼女も、一人きりで旅をしていた寂しい過去を持っていた。別れによって一人になったグッド。初めから一人きりだったエリス。互いに寂しさを心に持つ者同士、惹かれあう理由はあった。小人の二人は、小動物や虫たちとも心を通わせ、あるいは良心を逆手に取られ騙されたり、嵐や肉食獣に襲われる数々の苦難を抜け、どちらからともなく二人で歩み始める。というのが物語の大筋だ。

 この劇の目玉となるのは物語、役者の他に、トールも携わった大掛かりな舞台装置にあった。舞台は主に役者が演じるステージ部分が、回転仕掛けになっていて、二面の顔を持つ。客席に向かっている面で、物語が展開しているうちに、後ろでは次の場面の情景が、音もなく準備される場面転換。草木の生い茂る草原や、小動物たちが暮らすちょっとした集落、そして奈落に水を張って浮かべたポンポン船。全てが狂いなく、役者や音楽と共に一致して、舞台を作っている。

 トールが考案した、ポンポン船の張りぼての一部を、アームと繋げて実際に浮いているように見せるシーンが来た時は、ハラハラして役者の演技よりも、船を釘付けになっていた。そのときはもう劇の内容などそっちのけで、客とは違う心境で手に汗を握っていた。

 劇はクライマックスのポンポン船が嵐に巻き込まれ、二人とも水に投げ出されるシーンに入った。

 二人は嵐に揉まれながら互いを励まし合い、そして愛の言葉を交わした。嵐をポンポン船に必死にしがみついて過ごし、空に光が差した頃、グッドがエリスの手を取り、見つめながら言う。

「寂しさと共に生きるのはもう止めよう。君が見るものを僕も見たい。これからは二人で歩いて行こう」

「はい」

 二人は口づけを交わし、劇場の盛り上がりは最高潮に、音楽と花吹雪が舞った。客席からワァっと歓声が沸き起きた。ピンクの花吹雪は、エリスの心模様そのものだ。

 子供の二人には早かったかもしれないなと、心明と明明の様子を窺ったら、瞬きや呼吸するのも忘れて没頭していた。そのついでにサラの様子も横目で見ると、ハンカチを手に涙ぐみ、こっちを向くなと睨まれた。

 再び明かりがすべて消えて幕が下りた。観客からは割れんばかりの拍手が上がった。老いも若きも立ち上がり、精一杯の歓声を送っていた。見事なスタンディングオベーションだった。

 トールは、終わってしまったという、虚脱感のようなものを肩に感じていた。

心明も明明もサラも滝のような涙を流して号泣していた。

 良いものを観た。そして自分のやってきた仕事が結びを迎えた達成感が、じわじわとトールを満たした。

 会場は、拍手の渦に飲み込まれたまま、余韻に浸っているようだった。

この仕事を受けて良かった。

 しばらくして再び幕が上がり、役者たちと今回の脚本を手掛けたアーガレットが、舞台上に並び挨拶をした。アーガレットの顔は、トールとは比べ物にならないくらい、万感の思いが表情から見て取れた。

 トールは自分の目からも、涙が一筋流れていることに気付き、三人に気が付かれないように服の袖で拭った。

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