第2話:道山村と加藤家の歴史2

 三男の加藤末吉は、小さいときから、山野を駆け回って、川で、イワナ、

あゆ、ヤマメを釣って、塩焼きにして食べたり、山菜を採ったり、山からの

湧き水を飲んで、何の抵抗もなく、地元の生活を楽しんでいた。また勉強よりも

遊び最優先で、友達も多く、信頼されて、近所の住人からも可愛がられていた。


 そう言う事で、父の仕事を継ぐことに、何の抵抗もなかった。

 多くの顔見知りの近所の住人と仲良く、仕事を依頼されては、とんで行き、

修理をする生活をしていた。その結果、自分だけが地元に残り、父・加藤吉宗

の経営する加藤工務店の諸先輩に、仕事を仕込まれて、一人前の大工、左官、

工事職人になって、地元の便利屋みたいな仕事をしていた。そのため沢の水

の管理をするため、夏は、涼しい、日陰で、高い所に6畳3間の2DKの

管理小屋をもち、交代で管理していた。


 また、もう一つ、川の水の管理の為、見晴らしの良区、日当たりの寄り

、南向きの2DK管理小屋をもち、集落の人が交代で見張りと管理を

していた。加藤末吉は、今日も、富士山からの伏流水の水場のパイプの交換時期

なので、古くなったパイプを交換していた。ここは、山梨県の山に囲まれた集落

にある、集落共同・天然水の水場。1年に1回、パイプをを分解して、きれいに

掃除して、10年に1回、新品と交換している。


 今年は、加藤吉宗の家の3男坊、末吉が相違担当だ。加藤吉宗の家の3男坊

、末吉、23歳も、1965年4月22日、地元の幼なじみの北山里子と

結婚した。仕事は、近くを流れる道山川の流水を飲料水として、貯めている

給水所の維持・管理と村にある3つの天然温泉施設の源泉の機械の点検修理を

していた。


 その他、村の便利屋、電気、水道、建築、車の修理修繕、切れた蛍光灯の交換

、アンテナ工事していて、手間賃をもらう代わりに、地元の人達から、野菜、米

、柿、さつまいも、手作り味噌、醤油、牛乳、バター、チーズ、山菜、タケノコ

、キノコをもらう場合が多い、いわば物々交換をして暮らしていた。


 その他、車で往復1時間半かかる、スーパーマーケット、ホームセンターに

買い物に行ったり、病院、銀行、郵便局、最寄り駅まで役場から借りた9人乗り

のハイエースワゴンで、1日4往復していた。運転手の給料は月に10万円。

 集落で、利用するのは、中高年が多く、22軒の家があり、老夫婦2人家庭が

14軒あり、残りの8軒が、4人から8人で住んでいた。


 1965年以降、7軒の家で、老夫婦が亡くなり、その中で程度の良い、

佐藤さんの家を生前、家主だった佐藤幹夫さんから、加藤末吉が譲り受けて、

その平屋150平米の家を修理して住むようになった。加藤末吉の奥さんの

里子さんは、既に妊娠5ヶ月目に入っていた。


 加藤家は、父の加藤吉宗1925年9月9日生と母の加藤タネ1928年

6月18日生が地元に住んでいた。多くの子供達は、学校を卒業して、

この地を離れた。長男の加藤一郎は東京へ、次男の加藤次郎は横浜へ

出て行った。旦那の転勤で秋田に住む長女の加藤和美、旦那の転勤で松山に

住む、次女の加藤夏子の4人が家を出ていった。


 地元に残ったのは、三男で末っ子の加藤末吉だけだった。加藤家は、

この集落では、一番、平らな広い場所に居を構えて、昔から、村頭を務めた

由緒正しき家系だった。由緒正しい家系といえども、それ程、裕福はなく、

物々交換で食べる事、に困ることは無かったが、大金を得ることは難しかった。


 たまに、日本株を売買して、多少、儲けていた程度だった。そして、

1972年1月29日、加藤末吉の奥さんの里子さんが、体調不良を訴えて

産婦人科を受診すると、妊娠4ケ月とわかり、1972年7月20日が

予定日だと医者から告げられた。

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