8.十戒も二十則も関係ない
茉莉たちの話を信じるならば、犯行は一見不可能にも思えた。状況的に、ある種の密室トリックになっていたのだ。
とはいえ律の内心に焦りはなかった。犯人がどのようなトリックを用いたとしても、首吊り男の自宅を特定したときのように
律は腕を組み考え込むように顔を伏せると、皐月に向けて苦笑を込めたアイコンタクトを送った。根幹で繋がっている二人は、視線だけで意思疎通をする。
(……なんだかズルをしているようで心苦しいな)
(いいじゃない。ノックスの十戒もヴァン・ダインの二十則も関係ないわ)
(なんだっけそれ)
(私が知っていることはきみも……まあいいわ、お勉強の時間よ。予備知識として身につけておくと何かの役に立つかもね。
さて、ノックスの十戒はこう。
一 犯人は物語の当初に登場していなければならない。
二 探偵方法に超自然能力を用いてはならない。
三 犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない。
四 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。
五 中国人を登場させてはならない……これはちょっと差別的だから省かれることも少なくないわ。二項や六項に近い、中国人のようにわけのわからない力や超人的な能力は出しちゃ駄目ってことね。
六 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない。
七 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない。
八 探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。
九 サイドキック……いわゆるワトスン教授役ね……は自分の判断を全て読者に知らせねばならない。
十 双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない。
そしてヴァン・ダインの二十則はこう。
一 事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
二 作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
三 不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。
四 探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない。
五 論理的な推理によって犯人を決定しなければならない。偶然や暗合、動機のない自供によって事件を解決してはいけない。
六 探偵小説には、必ず探偵役が登場して、その人物の捜査と一貫した推理によって事件を解決しなければならない。
七 長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。
八 占いや心霊術、読心術などで犯罪の真相を告げてはならない。
九 探偵役は一人が望ましい。
十 犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。
十一 端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
十二 いくつ殺人事件があっても、真の犯人は一人でなければならない。但し端役の共犯者がいてもよい。
十三 秘密結社やマフィアなどの組織に属する人物を犯人にしてはいけない。
十四 殺人の方法と、それを探偵する手段は合理的で、しかも科学的であること。空想科学的であってはいけない。
十五 事件の真相を説く手がかりは、最後の章で探偵が犯人を指摘する前に、作者がスポーツマンシップと誠実さをもって、全て読者に提示しておかなければならない。
十六 余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべきである。
十七 プロの犯罪者を犯人にするのは避けること。
十八 事件の結末を事故死や自殺で片付けてはいけない。
十九 犯罪の動機は個人的なものが良い。国際的な陰謀や政治的な動機はスパイ小説に属する。
二十 プライドのある作家なら、次のような使い古された陳腐な手法は避けるべきである……たとえば、インチキな降霊術で犯人を脅して自供させる、番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだったとわかる、双子の替え玉トリックなんかがここで言う〝陳腐な手法〟にあたるわ。
どちらも探偵小説を書く上では基本的な原則とされるものだけど、意図的に破られている作品も少なくないわ。たとえばヴァン・ダインの七項『長編小説には死体が絶対に必要である』に従ったら、いわゆる〝日常の謎〟作品は生まれないのよ)
(なるほど、僕たちがやろうとしているのはこの原則をめちゃくちゃに破るわけだ。これじゃミステリとは言えないな)
(それでいいのよ。能力を使って一瞬で解決してみせれば、それが律くんに力がある証明になるわ)
(たしかにそうだ)
皐月の指摘に納得した律は、すっくとソファから立ち上がった。しばらくじっと黙り込んでいた律が突如立ち上がったことで、向かいの三人は目を丸くする。律は苦笑を浮かべながら、少女たちに向かって言った。
「ありがとう、話はだいたいわかった。それじゃまず、
*
「ここです」
茉莉たちに案内され本館まで足を運んだ律たちは、事件の発生した掲示板の前に立っていた。話に聞いたとおり、学生に向けた種々の掲示物が貼られている、特に変わったところのない掲示板だ。
「ここに、その……写真が貼られていたんだよな」
言いながら、底部や側面に触れる律。開閉できる部分はしっかりと閉じており、髪の毛一本通せそうになかった。見張りたちの隙を見て写真を滑り込ませることは不可能だろう。
「ええ、この丁度真ん中あたりにな」
応える希に、顎に手を遣り考え込む素振りを見せながら、律は掲示板へと意識を集中する。目に見えぬほどの僅かな痕跡、遺された思念を読み取ることで、犯人がいかにしてこの掲示板に写真を貼り付けたのかを白日の下に晒すのだ。
やがて見張りの生徒たちが、掲示板周辺を警戒している様子が視えた。実態を伴わない影のようなそれは、入れ替わり立ち替わり掲示板の周囲を彷徨っている。
このままいけば犯人が写真を貼り付ける決定的瞬間を捉えることができるだろう。そう律が確信した、その時だった。
「なっ……!?」
律は驚愕の表情を浮かべたまま、絶句し硬直した。
サイコメトリーは正常に機能していた。それは見張りの生徒たちの姿を視たことからも間違いない。律が絶句したのは犯行の様子、写真が掲示された瞬間だった。
犯人も、手口も、なにひとつわからなかった。なぜなら――なぜなら、律が意識を集中している掲示板に、件の写真が突如出現したからだ。
まるで素人の合成動画を見ているような気分だった。コルク部分から浮かび上がってきたかのように、コンマ一秒の間にそれは存在していた。そこにあるのが当たり前のように、少女の裸体を写した写真が貼られていたのだ。
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