第19話 告白

自分に奇跡の力が与えられ喜んだのは、司が知る限り一度ないし二度だけだった。二度目はシオンを保護できたからだったが、それは運がよかったと言う方が強かった。

「・・・八月一日、シオン、それから・・・」

熱に浮かされながら青い手帳を繰る。未だに八月一日はそれが奇跡のための儀式か何かと思っているらしいが実際は違う。

一人一人、誕生日か死んだ日と、名前と、その大まかな性格や環境、推測できることはなんでも書かれていて、それを読み、読み返すことだけが、自分にできる唯一の罪滅ぼしだろうと肌身離さず持ち歩いていた。

「あれ、司呼んだ?」

「また来ているのか。別に構わないが、君は家族の所にいる方がいい。・・・あとどれだけこの世にとどまれるか分からないんだから。」

「それはお前もそうだろ、熱出すなんて、やっぱり人間なんだな。」

爽やかに笑って水を変えに行くのを ベッドの中から見送った。彼はちゃんとした重みを保っていて、やはり自分が消えても生きていける人間だと安心する。

「八月一日。」

「ん?」

ぬるくなってしまったタオルを変えてやって、ベッドサイドに座った。

「・・・酷く重いんだ。体全体が、動かなくなるくらい。・・・・・身勝手な懺悔を聞いてくれるか。」

八月一日は頷いてその目を見る。人形のように感情のない、漆黒な目。生きているものを恐怖させる、死に向けて開かれた瞳。それが今は、人間らしい潤いを持って必死で訴えようとしている。

「私は元から、この力を持っていたわけではなかった。もう10年くらい前になるか、ある人から授かった。

忘れもしない、両親と妹が死んだ日に。本当は私も一緒にその時死ぬはずだった。ああ、そう、渡辺 恵一。覚えてないか?」

その名前に確かに聞き覚えがあって記憶を辿るうち、小さな子供だった自分の頭にさえ刻み込まれた、凄惨な 事件の記事を思い出した。

「・・・10年とか前の、一家ばらばら殺人事件の加害者で、死刑宣告を受けた・・・」

「そうだ。そうだよ。私はそのとき、偶然庭に出ていたから 、あんなふうに・・・切り裂かれることはなかったけれど。」

突然訪れる信じがたい光景に、喪失に、怒りに、恐怖に、人はなぜこうも惹きつけられてしまうのか。残酷な事件、非人道的な労働、生命倫理に反する思想と行動、おそらくはそのすべてが、司という人間を現実の隅に追いやり、または高めてしまった。八月一日は平素の自らの行動を考えると恥ずかしく申し訳なく思えて、いたたまれなかった。目の前には娯楽として消費された残虐極まる殺人の被害者が、確かに存在しているのだ。

「私を見つけた時の彼の言葉は今もはっきり覚えている。恐怖で立ちすくんでいる私に、『お前はどうやって死にたいか?』『お前には選ばせてやる、特別に』だって。

私は咄嗟に、窒息とか刺殺とか、そんなのを言っちゃいけないと思って、拳銃で死にたいと言った。銃なんてこの国にはそこらへんに転がってるものじゃないし、それに、子どもが言うのだから信憑性もあったと思う。あの男は笑っていた・・・」

「でもな、八月一日。人間なんて一皮剥けばみんな似たようなものなんだ。生命があるから奪いたくなる。結局生きた人間なんて、私を含め、悲しくなるほど愚かで残酷なんだよ。」

苦しそうに喘ぐ青年のタオルをまた変えた。ほとんど独り言のような話は 続く。

「それで、男が消えたあと私は精一杯逃げた。何故そうしてしまったのか。なぜ、あのとき他の家族と同じように殺してくれと・・・殺してくれと言わなかったのか。私は弱く、死が怖かった。いや、今でも恐ろしい。それでも・・・それでも、あの場所へ行くべきじゃなかった。」

熱のためではなく、悔恨のために涙が流れていた。なにが、他の人間と違うという?八月一日は彼に神聖とか、あるいは邪悪をみていたことを心から悔いた。

司の目は確かにあの後の出来事を思い返している。

「それで私は、ある人に会った。死に物狂いで走った先にあった綺麗な場所で、人影が見えて。助かったと思って、殺人鬼に追われていると訴えると、その人は何も言わず私を匿ってくれた。そのときは沈丁花が満開で、そこらじゅうに甘い香りが立ち込めていた。」

助けた金髪の人に、少年は必死で縋り付いていた。悲しむより前に、まだ自分のことで手一杯だった。

「そのとき、その人が私に、力を授けた。これから先の僅かばかりの自由の制限と引き換えに。私は信じられない思いを抱えたまま、家に戻った。・・・君、わかるか?人が、無表情で、遺体を・・・麻痺させなければ耐えられないのだろうが、人がこんな残酷なことに慣れてしまえるのかと、・・・その人たちが殺人鬼に見えて、ただ悍ましかった。」

それでも彼は、言われた通りのことをした。母と、父と、妹だったものから怪しまれないよう血を少量抜き取り、受け取った砂時計にその誕生日と、名前とを血文字で書いた。

「・・・ただ、少し遅かったんだ。遅すぎた ・・・死体は運ばれていって、メディアに顔も名前も書かれてしまった。つまり亡霊として生きるなんてこと、できないんだ。八月一日、私にはその頃引っ越して名前を変えるとか、そんな知識なかった。ただ、家の中で偽の幸せな時間を送るしかなかった。・・・外に出すわけにはいかなかったから、私だけが三人の魂を負うことになった。

最初のうちはなんともなかった。ほんの少し手のひらに重みを感じるくらいだったのが、それがだんだん、時が進むにつれて重くなっていくんだ。」

激しく咳き込む司の背を撫でる。自分にはそれくらいのことしかできないのが悲しかった。

「私はそのうち、あれほど望んだはずなのに、その笑顔を見ることさえ辛くなってきた。妹と悪ふざけをすることも。

こんな風に笑っていて、食べ物を食べていても、本体は土の中に眠って、死んでいるんだって、その重さが雄弁に語っていた。

それは蘇生させてから一年経つか経たないかだった。私はついに、物に頼らなければ立つこともままならなくなった。心配そうな母の顔がある。

私はその顔をみて、血を流していた頭を思い出した。原型も留めないようなその体を思い出した。頭もひどく重いことに気づいたが、私は、もしこれを払ったらと思うと、やはり耐えるしかなかった。

妹と遊ぶ、父に勉強を見てもらう、それは幸せな時間のはずなのに、過酷な重みに体が軋み、このままでは自分もばらばらになってしまいそうだった。」

B.Eが粥を運んでくる足音がして、そっと司と目配せした。彼はちょっと笑って、彼はいいから、と言う。

「B.Eは母方の親戚の執事だったから、一度4人で暮らしているところに来て事情を知っている 。・・・本当に天涯孤独になってからは親代りになってくれてね。」

膳を受け取り、感謝を伝えると、老人は嬉しそうに戻っていく。

「心配が絶えなかっただろう。・・・申し訳ないとは思っている。」

「お前はしっかりしてるだろ。」

司は寂しげに笑って首を振った。八月一日はそれについても聞きたかったが、口を噤んだ。今はただ、司の抱え込んだものを聞くべきだと、続けるよう促した。

「そうだね。そう・・・それから暫くして、私は本当に起き上がれなくなった。寝ていても、体の上に土嚢を積み上げられているみたいに苦しくて 、内臓が全て潰れそうだった。

父も母も妹も 、そんなに無理しなくていいと口を揃えて言った。これだけまた生きることができて、これまでになく一緒に過ごせたのだからって。・・・それでも私は振り払えなかった。重みが増せば増すほどその重みが愛おしくて、その時間のかけがえのなさが指の先まで理解できて、私はただ幸せで苦痛で・・・」

もうやめてくれと、八月一日は叫んでいた。その苦しみが自分の中にもあるようで胸が痛かった。

「だめなんだ、話したい。ずっと誰かに話したかった 。話して罪が消えるわけでもないけど、誰かの中に少しでも残るなら、きっとそれが贖いなんだ。八月一日、私はそのとき、自分が死ぬことになっても彼らを生かそうと思っていた。でも・・・」

当時寝込んでいた少年の枕元に、いつか力を与えた人が来ていた。その人は司に、優しく微笑みかけていた。

「・・・そもそも人一人が負えるものではない、そのままではおまえの肉体も、魂も粉々に砕けてしまう。・・・私はそれでもいいと答えた。私にとって家族が全てで、他に欲しいものなんてなにもなかったから。だから、それでいいと・・・」

八月一日は不安になって来た。彼は今、一体どれだけの重みを背負っているのか、どれだけの苦痛を強いられているのか。

「でも、耐えられなかったのは家族の方だった。彼らは私から、少しずつ時間と魂を剥ぎ取っていった。体は軽くなって、また歩けるようになっても、そこにもう幸の影はなかった。それは元の軽さになっていくというよりは、 かけがえのないものを捨て去って空虚になっていくようだった。

彼らは責めたりしなかった。それどころか、手放しで喜んでいた。生への執着がなくて、私の死を恐れていた。

私は軽くなった足で、あの人のところへ行った。少しでもこの重みを背負ってくれたら、 きっと足が消えかけているのも止まるだろうと思って。でもその人は・・・背負えるのは人だけだと。そう言って私の肩に手を置いた。君、信じられるか?その瞬間、 全ての重みが手から滑り落ちたんだ。絹のようなものが肩から落ちるみたいに、鮮やかに、煌びやかな音を立てて。私は静止しようとする手から逃げて、待っているはずの家に向かった。笑顔と優しさで満ちた家、どこにいけなくても守りたかった家族は、抜け殻みたいな青い玉になって転がっていた。嫌に静かで、重みを放棄した私に、罵りの言葉ひとつ帰っては来なかった。私は何度も、何度も、名前と誕生日を書いた。自分の手から血が流れ出したのも知らずに。でも、あの人が言ったように、二度と奇跡など起こらなかった。滑り落ちてしまった重みは帰ってこなかった。私は、この手で家族を殺したんだ。殺人鬼に一度殺された命を、また、この手で・・・」

咽び泣く少年を抱きしめた。その熱が胸の奥ではじけた。おまえは悪くないと言って何になる?誰かが悪いと言って何になる?失われたものが戻ってこない、それだけの事実だった。

「司、じゃあなんで、まだこんな仕事してる?」

「それが条件だったからだ。決まった周期で砂時計を取りに会いに行き、かわりに同じ数の使った砂時計を返すこと。・・・どうせなら、金もらえたほうがいいし。」

「嘘つき。本当は死ぬほど嫌なくせに。」

「死んだら死んだでまた地獄だからね ・・・八月一日、お前は自分から剥ぎ取ろうなんてしないでくれ。何があろうと、必ず生きて・・・どうか私を救ってくれ。」

布団から差し出された細く白い手をしっかり握った。自分が司を救うために生き返ったのなら、それでもよいと思えた。

「俺は何をすればいい?」

「学校へ行って、友人と遊び、隣人と友好である、君には、そんな、当たり前の生活を続けて欲しい。誰かに支えられている命であっても、君の時間であることに変わりはない。いいか、必ず生き続けるんだ。生きて、どうか証してくれ。お前が死んでいることを知っているのは私とB.E、それにシオンだけなのだから。」

しっかり頷くと、安心したように彼は眠りに落ちていく。青い玉は相変わらず透明な光を放ち、耳から下がっている。

そうしてみて、青年はこの同級生の存在を証明できる人間というのがあまりに少ないことに気づいた。B.Eと、自分やシオンのような死者、はたしてそれ以外に、「彼が生きてそこにいたこと」を知る人間がいるのだろうか?それがこの力を与えられたものの宿命なのだとしたら、なんと残酷なものだろう。

司の無機的な寝顔を見る。長い睫毛が目を覆っているだけで、目覚めている時とそんなに変わらない気がした。

(こいつを救うって、どういうことだ

ろう。)

八月一日が生きていることだと言ったが、それがそのまま救済になるとはとても思えない。おそらくは、まずなすべきは金髪の「あの人」を 見つけることなのだろう。

「でも、ろくでもない感じしかしないんだよなあ。」

取り敢えず帰らなければならないことを思い出して、ちょっと挨拶をして屋敷を出た。体が少し、軽くなった気がした。

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