死、吐息、硝子

 世界が変わったのは学校をサボった日だった。

 サボったから世界が変わったんじゃない。私がサボるのは日常茶飯事で、こんなことで変わってるなら世界は毎日別の顔をしている。

 サボったことには大した意味はなくて、ただめんどくさかっただけ。昼くらいになったら山の中歩いたりしようかなって思ってた。

 毎朝毎朝、懲りずに私を迎えにくるあいつは、その日も家のピンポンを押してきた。玄関先で、母があいつに「ごめんねぇ、今日具合悪いみたいなの」なんて言っていたのを覚えてる。

 それからお邪魔しますなんて声が聞こえて、とんとんと足音が近づいてきた。私の部屋の前でそれは止まって、今度はノックの音が響いた。だけど無視した。

 そうしたら、無視したことを無視された。私の拒絶なんてお構いなしにあいつは部屋に入ってきて、私を飲み込んでいる布団に「具合悪いなんて嘘でしょ」と、話しかける。

 そうだよ、嘘だよ。だって眠いんだもん。お母さんは私に甘いからすぐに嘘を信じる。もしかしたら嘘に気付いてることを黙っているだけかも。とにかく私のしたいようにさせてくれる。だけど、あいつは私に甘いくせに嘘を嘘だと見抜くから嫌い。

 事故が起こった日の朝、私はそんなことを考えて瞳を閉じた。目を覚ましたら家には誰もいなくて、それから両親が死んだことを知った。


 風向きが悪かったとか、学校の付近からガスが漏れているらしいとか、色々と言われているけど、とにかく当日学校にいた人達、つまりほとんどの生徒と教師にはすぐにガスの影響が色濃く出た。大体がもう生きてない。三ヶ月かそこらで死んでる。

 あの日、返事をしない私を置いて、律儀にも学校に行ったあいつも、同じ目に合った。というか合っている。正直、ここまで生きているのが奇跡だ。


 意識が覚醒していることに気付いて、今までぼんやりと考えていたことが夢ではないらしいことを知ると、私はゆっくりと体を起こした。眠りについたときの記憶はないが、どうやら自室の入口で部屋を跨ぐみたいにして倒れていたらしい。下半身は畳の上にあるのに、上半身はキッチン近くのフローリングに転がっていた。

 ゆっくりと起き上がって自分の部屋へと振り返ると、私以外誰もいなくなったはずの家の中で、息だけをして天井をぼうっと眺めている奴がいた。あいつ、というかこいつ。そうだ。いるんだった。私の部屋に。


「ねぇ、まだ生きてる?」

「甘いのがいい」

「そればっか。他に何か言いなよ」

「甘いのがいい」


 こいつは私の幼馴染で、家族ぐるみの付き合いだった。ただそれだけで、私はこいつのことを特別仲良しだとは思っていない。というかこの団地の出身者は大体が幼馴染みだし、家族ぐるみの付き合いだ。みんなと条件は変わらないというのに、こいつは私をやけに気にかけた。

 こいつの父は私の父と一緒に死んで、母は少し前に亡くなった。こいつがおかしくなったのはそれからだ。記憶が混濁しているのか、寂しいのか。私の両親の名前を呼んだり、今日は学校でみんなでグラウンドを走ったとか、いつのものか分からない記憶を引っ張り出して話すようになった。

 最近はそれもない。ずっと私の部屋にいて、トイレに行く以外はこうしてうわ言を呟いて、たまに私を抱き締めたがったりする。意味のないスキンシップを好まないタイプだったのに、最近はこいつの甘ったるい匂いがちょっと悔しいけど好きになっていて、ぎゅってしてって言われるのを待ってる私がいる。早く言えよ、私からはしにくいんだから。


 私は多分、こいつに絆されているわけじゃないんだ。ただ、甘い匂いが私を狂わせている、それだけ。匂いがした程度で狂ってしまうなんて、元いたところから遠く離れてしまったようだ。こんなところで自分だけが何ともない方が怖いし、まぁいっか。

 私はこいつの介護の為に生きている。こいつが死んだら、他に用もないし、私は死ぬかもしれない。全てが億劫で、それでもいいと思えた。


「私、あの日、一緒に学校に行けばよかった」


 つまんない独り言。返事はないけど、別にいい。あいつの寝ている、私の布団までずりずりと這いながら話す。立てばいいんだけど、ちょっとの距離だし、これでいい。なんか足に力入んないし。

 今のは私のただの独り言だ。しかもつまんないやつ。そうやって割り切ってみると、続きはすらすらと口を突いて出た。


「したっけ、あんたと一緒に、何も分かんなくなって、そのままそっと死ねた」


 呟かれたのは私の間抜けな願望だ。家族や学校の友達、何もかもに先立たれて、それでもまだ死ねる見込みがないことを悔いている。それと同時にまだ生きていることにほっとしている。頭がおかしい。考えがまとまらない。昔はもっと、ちゃんと考えることができた。昔っていつだ。


「おんなじ高校、行きたい」

「……そうだね。でも大丈夫、多分、おんなじとこいけるよ」


 高校じゃないけど。大丈夫。寂しくない。私はこいつに酒瓶を渡す。これは最後の“甘いの”だ。甘い酒。私たちが口にするにはあと5年くらい早いけど、もういいだろう。5年どころか、5日も生きていられるか分からないのだから。

 つまらない法を守る気になれなかった。今の気分を言葉で言い表すなら、それが全てだろう。一度誰かが開けた形跡のあるキャップだったが、今のこいつにはそれすら外せないみたい。静かに受け取って捻ってやる。そうしてまた渡すと、こいつは天井を見ながら、ゆっくりとそれを傾けた。

 口の端からだばだばと酒が溢れて枕を濡らす。もったいない。甘い酒気にくらくらする。美味しい美味しいと言うわりに、全然飲めてない。ほとんど力の入っていない手から瓶を奪った。傾けて飲んでみると、確かに甘くて美味しい。アルコールは、何故だか全然感じない。違う、私の頭がおかしいんだ。


「なんか。全部どうでもよくなっちゃうね」

「うん」

「あんたが死ぬまで。私も生きてるよ」

「うん」


 配給を受け取りに行かなくちゃいけない。ふらふらしながらも、壁に凭れてなんとか立ち上がる。自分が思っている以上に、体に異常があるようだ。真っ直ぐ歩けないこともそうだし、頭がずっとぐわんぐわんいってることもそう。

 もしかしたら、最近何もやる気が起きなくて、何も考えたくないのも。いや、よくわかんないし、分かったところでどうにもならないんだからもういい。

 そうして私は足を動かすけど、全然前に進まなかった。分かんない、進んでないと思う。どさりと音が聞こえて体が痛い気がして、視界がおかしいことになってて、そこでやっと自分が倒れたんだって気付いた。

 近くにはこいつの甘ったるい匂いが転がってて、”甘いのがいい”なんて言葉が呪詛のように耳に届いた。


 こんな調子じゃ配給どころか、三号棟の外にすら出られないだろう。っていうか家の外も無理だ、多分。回らない頭で、今後について考えてみる。

 私はこの場所に誰かをあげるのが嫌だと思った。できるならチェーンをかけて、中で人が死んでいるというアピールをしておきたい。その上で立ち入られたら、それはもうその頃には死んでいる私の立場からは何も言えないけど。

 歩くことすらままならない状態で這ってドアチェーンをかけに行ったとしても、多分戻っては来れないだろう。だけど行った方がいい。ここには誰も入れたくない。こんな醜い姿を見られたくないし、土の中へと離ればなれにされるのも嫌だ。

 部屋を出るところまでなんとか這っていったところで動きが止まる。手も足も動かない。


「いっ……!」


 頭が強く、甘く揺らぐ。痛くないんだけど、強い衝動。いや、痛みとして体は信号を出してるのに、今の私が分かんなくなってるだけって言った方がしっくりくるかも。痛みのような閃きのような何かは、映像と音声を伴って私の中に突如広がった。これ、記憶だ。


 不意に脳裏をよぎったのは、学校でのこと。

 轟音が聞こえて、すぐにすごい風が舞って、みんなその場で崩れ落ちた。私も自分の席に突っ伏すように気を失って、意識が途絶えるその時まで、隣の空席を見ていた。その席は。気まぐれに学校を休む、——の席だった。

 あぁ……。あいつ、っていうか、こいつって。あぁ、あいつって、それは私だ。


 あーあ、やっぱなんでもいいや。声に出したつもりの思考が外に出ていないっぽい。そんなことに気付いたけど、それすらもどうでもよかった。


 こいつに憧れ過ぎて、自分の中で同一化してしまった。

 多分、そういうことなんだと思う。きっと。だから私の言う”あいつ”とか”こいつ”とは、それはつまり私のことなのだ。ここは私の家じゃない。

 布団から起き上がれないままでいるこいつは、きっと私のことをうざったく感じていた。毎日毎日、話し掛けて、朝も迎えにきて。正直うざいだろうなってわかってた。別に友達になりたかったわけじゃない。ただ放っておけなかっただけだ。

 ふらっと山に遊びに行って、意味の分からない怪我をして帰ってきたり、町に降りたとか言って、ちょっとしたお土産を渡してくれる気まぐれな優しさが。私には破天荒で適当で、それでいてちょっと壮絶だった。

 好きだったかどうか分からないけど、惹かれていたと思う。


 一応動くよ。だけど、多分私は玄関まで辿り着かないし、気を失ったら次は目覚めるかも分からない。というかいま理解したことだって、どこまで覚えてるか、認識してるかも分からない。

 だってね、面白いんだよ。あんなに綺麗だと思ってたこいつの名前、もう思い出せないんだ。忘れてしまった名前の印象だけが、私の中でキラキラ光ってる。


 この家の扉にバツが付くのは、明日か明後日か。

 ねぇ、まだ生きてる? なんて。また言えるかな。

 もし私がそう聞けたら、”甘いのがいい”って、また言ってよ。

 そうなったっけいい。

 だってそれは、私達が生きてないと成立しない。


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