第29話:氷山の一角

 涙が零れ落ちてくる。真実を知るまで大嫌いだった筈の人の死を聞いて、悲しみが溢れ出てくる。

 

「君の気持ちも分かる。嫌な現場に立ち会わせてしまって悪かった」

「……いえ、先生のせいじゃありませんよ。ですが今日はもう……」

「あぁ。帰ってゆっくり休んでくれ。無理そうなら明日は来なくてもいいぞ」

「ありがとうございます、先生」


 啜り泣く声と共に、看護婦が遠ざかっていく足音がする。

 すると僕の足は勝手にも動き始めた。

 怒りに身を任せ、感情のままに行動している野獣のように思われてもいい。

 ただ、この悲しみを胸にしまっておく事なんてできなかった。


 暗闇の中を駆け、次に気づいたときには男性医師の胸ぐらを掴んでいた。

 非常通路を示すための灯に、キラリと反射したネームプレートには名倉と書かれている。

 

「ちょ、誰だい君は?」

「何で、何で香澄を殺したんですか⁉︎ あなたは医者じゃないんですか⁉︎」

「香澄……あぁ、あの女の子の事か。大丈夫、女の子の方は無事だよ。だからこの手を離してくれると助かるんだけど、いいかな?」


 女の子の方だって?

 今ここには香澄しかいないはずじゃ……


「す、すいません」


 混乱しながらも、取り敢えず両手を服から離した。

 

「いやいや、君がいたのをすっかり忘れてたよ。驚いてつい誰だって聞いちゃったけど、確かあの若奥さんの息子さん、だったよね? それにしても色々とマズイ事を聞かれちゃったなー、……あはは」


 名倉先生の声は、先程の冷淡な声音とは違い、何処と無く優しげだった。

 でも、かなり疲れきった顔をしていて、何かを諦めているような印象。


「あ、あの。誰が、その、亡くなったんですか? 言えない事ならいいんですけど……」

「亡くなった、だなんて、普通に殺したって言ってくれても構わないよ? まぁ、君は優しい少年なんだろう。さっきの会話を誰にも話さないなら、教えてあげてもいいけど、どうする?」

「僕は元々先生を告発しようだなんて……」


 思いかけていた。もしそれが、香澄だったなら。


「まぁ、君の目的は女の子だけみたいだしね。じゃあ秘密にしてくれよ? 今回の交通事故で亡くなったのは、西山和人17歳。バイクでの飲酒運転だったらしいけど、詳しくは知らないな」


 和人? 和人が死んだ?

 アイツは確かに昨日香澄とデートしていた。

 そして昨日は香澄の誕生日。だったら飲酒をしていてもおかしくはない、かも知れない。

 和人の人柄がイマイチ分からないから何とも言えないけど……


「は、はい。ありがとうございました」

「お礼なんてやめてくれよ。これは君と俺の取引だったんだからさ。でも、君が約束を破っても俺は何も言えないけどね。正式な書類に記した訳でもないし」


 名倉先生は完全に諦めている。罰を受けても仕方のない事をした。それくらいは僕にも分かる。

 でも何で和人を殺さなきゃいけなかったんだ? もし香澄が脅されてたなら、香澄の方が危ない立場の筈なのに……


「先生は何で……」

「それは君が知らない方がいい事だよ。聞きたいことは分かる。でも、大人の世界には色々な力があるんだよ。それに逆らえない、ただの社会の歯車の俺たちは素直に従うしか生きる術がないって訳だ。君はせっかく無事な家族を守りたいとは思わないのかい?」

「……そうですよね。ごめんなさい」

「いや、いいんだよ。こんな事を子供に喋ってる俺の方がどうかしてるからさ。そう言えば、君の名前はなんて言うんだい? 俺は名倉泰。ここの外科部長をしてる」

「僕は涼太です。名倉先生、香澄を助けてくれてありがとうございました」


 遅れての自己紹介とお礼。

 名倉先生は僕が裏の事情を知っているのにも関わらず素性を明かした。

 それほど信用されていると言うことなのか、それとも先生の覚悟の表れなのか。

 

「一人失ったから、もう一人は必ず助けるよ。それでチャラにしようとしてる自分は心底嫌いだけどね。でも、こう言う言い訳がないと俺もやってられないからさ。じゃあ俺はもう戻るよ。またな、涼太君」


 そう言いながら、名倉先生は暗闇の中に消えていった。

 無尽蔵の力に必死に抗う大人の姿に、僕は少しだけ格好良さを感じた。

 同時に、社会の理不尽さにも気付かされた訳だけど……


 すると、先生が去った方向から、誰かが駆け寄ってくる足音がした。


「ごめんごめん。すっかり忘れてたよ」


 息を切らしながら、名倉先生が走ってきた。

 そして右手を開き、見覚えのあるストラップが顔を出した。


「はいこれ。女の子の服のポケットに大事そうにしまってあったから、こっそり取っておいたんだ。俺より涼太君が持ってた方がいいだろうと思うから、時がくるまで預かっておいてくれないか?」


 ブサイクな猫がハートを抱いたシンプルなストラップ。

 少し古びていて、所々色が落ちている。

 あれから一年以上も経ったんだ。安物のお土産が朽ちるのも仕方ないだろう。

 でも、これは僕が送った思い出の品。大切に握りしめると、懐かしい記憶の断片が頭に流れ込んでくる。

 

「わかりました。預かりますね」

「じゃあまた何かあったら伝えるよ。もう遅いから、ちゃんと寝なね」

「あ、先生。病院で待っててもいいですか?」

「ん? いいけど、女の子はまだ集中治療室で色々受けなきゃいけないから、時間かかるよ? それに命に別状はないといっても、いつ目覚めるか分からないし」

「それでもいいんです。ただ落ち着いていられない気分なので」

「まぁ好きにしてくれ。あとで毛布でも持って来させるから。でも、ちゃんと寝るんだよ?」


 先生が去ったのを見送り、僕は再び緊急治療室の前の椅子に腰掛けた。

 唯一渡されたストラップ。偶然発見されたそれが何を意味しているのかは、なんとなくだけど分かる。


 そして僕の心は、さっき以上に揺れ始めた。

 形のあるものに、余程の影響を受けているんだろう。

 でも、それで決心に至ることはないのかも知れない。

 

 同情、危惧、懸念。それらの感情が香澄を助けたいと思わせる。

 でも、この四ヶ月間見てきた現実に鬼胎を抱いてしまう。

 香澄が本当に僕に愛想を尽かした可能性。それに、もしこの事故が故意に起こされたものなら、何で香澄は生かされたのか。香澄が一体どういう状況にいたのか。


 何もかもが不明なまま。でも僕は、その答えを知りたい。


 香澄が生きていたという現実に、僕は今までに無い以上に喜んだ。

 それは歪んだ未練。毒は太陽によって完全に浄化されたと思っていた。でも僕はまた誤魔化していただけなのかも知れない。

 なのに、千野先輩の事も想っている。これだと千野先輩に会ったばかりの頃と変わっていないじゃないか。

 

 どの道に行けばいいのかが分からない。そして、真実を知った時、僕がどんな決断をするのかを考えると悪寒がする。

 この状況を、僕は嫌という程理解している。要するに迷子だ。

 優柔不断。言い換えればヘタレとも言えるだろう。

 半日ほど前まで先輩に告白しようとしていたのに、何やってんだろう僕は。自分でも最低だと思う。


 今の僕の姿は、千野先輩には絶対に見せたくない。

 僕は先輩の気持ちを百パーセント理解している訳じゃない。

 でも、きっと好いていてくれてるんだろう。そうじゃなかったら二人で遊びに行ってくれるはずも……ない、よな。


 手を繋いで、二人で照れて。こんな事は誰にでも分かる。僕らは両思いだ。

 そうじゃなかったら、僕は告白する気になんてならなかっただろう。

 安全な道を進もうとしていただけ。でも、太陽へと続く一本道は今も輝き続けている。

  

 そんな理想的な選択肢を前にして、僕は何でこんなにも悩んでいるんだろうか。

 もう、いっその事両方捨ててしまえれば楽になれるのに……



「おい涼太。起きろ、起きろって」


 数名の足音が廊下に鳴り響いている。

 そして、僕の体を揺さぶる大きな手。重い瞼を持ち上げ、視線を上げると、そこには男の人の姿がぼんやりと映っていた。


「ん? 父さん?」

「誰がおっさんだ、この。俺だよ俺。いいからさっさと起きろ」


 眩しい光が僕の夜目を襲った。

 もう朝か。どうやらあのまま寝てしまったようだ。

 それに僕の前に立っているのは……


「神崎先輩⁉︎ こんな所で何してるんですか?」

「何って、そりゃ香澄ちゃんの様子を見に来たに決まってんだろ」


 体を起こし、ぺしゃんこに潰れた髪の毛を直していると、段々と頭が働き始めてきた。

 何で先輩がここにいるんだ? 母さんたちが話す訳ないし、てことは……あぁ、絢香さんか。


「絢香さんに聞いてきたんですか?」

「お、よく分かったな? にしても香澄ちゃんが事故ったって聞いたから見に来てみれば、お前が寝ててびっくりしたよ。こんなとこで……ってまさかお前、どこまで知ったんだ?」


 どこまで知ったか。てことは先輩も香澄の事情を知ってるのか?

 何でだろう。もし教えたのが絢香さんだとしても、香澄の事情に首を突っ込む意味はない筈だ。


「香澄が和人と嫌々付き合ってたことくらいですかね?」

 

 香澄の両親が姿をくらませた事は言いたくなかった。

 神崎先輩になら言っても大丈夫かも知れない。絢香さんがついているから、そう簡単には巻き込まれない筈だし。

 でも、それとは違う理由で言いたくなかった。

 父さんは、香澄の両親がいなくなったのを、守るため、と言っていた。

 でも、僕にはどうもそう思えない。大人の事情を理解しきっていない僕には、香澄がただ見捨てられたかのように見えた。


「そうか。そう言えば、和人はどうした? アイツが事故ったんだろ?」

「和人は……死にました。手遅れだったそうです。香澄はなんとか大丈夫らしいですけど」


 嘘ついてごめんなさい先輩。でも名倉先生との約束は守らないといけない。


「……まぁ当然の報いだな」

「当然、ですか?」


 そう問いかけると、先輩は椅子に腰掛けて、下を向きながら淡々と語った。


「俺はそう思うけどな。家の力使ってあっちこっちで女誑かして、人を不幸にして楽しんでるようなやつだ。この事、俺は随分前から知ってたんだけどさ、言ってなくてごめんな。お前に香澄ちゃんを諦めさせるには、これくらいの方法しか思いつかなかった」

「……え?」


 知っていた。僕よりもっと、多くの事をずっと前から。

 一瞬、怒りが胸のうちから溢れ出そうになった。

 もっと早く事情を知れていれば、もしかしたらこんな事にはならなかったかも知れない。

 でも同時に、僕が自分から知ろうともしなかった事を思い出した。

 というより、こんな状況になっているなんて、昼ドラマの展開以外で起きるとは想像もしていなかった。


 神崎先輩を責めるわけにはいかない。それは、ただの八つ当たりになってしまう。


「あの日、香澄ちゃんがホテルに入っていったのを見た日。お前気絶しただろ? お前を家に運んでから、姉貴に調べてくれって頼んだ。もしかしたらどうにか出来るかも知れないと思ったからな。だけどよ、和人の家がかなりの権力者だって知って、手を引くしかなかったんだ」


 全てはあの日から。僕は、先輩たちによって違う道に誘導されていた。

 それには感謝するべきだ。安全で、誰にも迷惑をかけない通路を通らせてもらったんだから。

 

「香澄ちゃんの家は和人の親にかなり世話になってるらしくてな。姉貴が、断りきれない状況にあるんじゃない、って言ってたからよ。俺はお前の家族まで巻き込みたくはなかった」


 でもそれだとおかしい。違和感しかない。

 

「でも、そんな権力者の息子なら、なんで和人だけ死んだんですか? なんで香澄が無事なんですか?……ぁ」


 勢い余っていらぬ事を言ってしまった。

 感情に流されたせいで、名倉先生の人生を壊してしまったかも……


「なるほどな。そういう事か。心配すんな。俺は誰にも言ったりしないよ。それに、そうさせたのは多分アイツの親父なんじゃないのか?」

「和人の両親って事ですか?」

「あぁ。アイツは普通に無免許運転だったらしいし、それに香澄ちゃんまで巻き込んだんだ。親父としては社会的地位を守るのに必死だったんだと思うぞ?」


 また僕の知らない大人の事情が出てきた。

 それにしても神崎先輩は、人が死んだっていうのになんでこんなに冷静でいられるんだろうか?

 慣れているから、なのかも知れない。でも、絢香さんならまだしも、神崎先輩は……


「そうかも、知れませんね。先輩はこんな状況なのに、冷静に考えられてすごいですね」

「俺は完全に部外者だからな。それに、香澄ちゃんが死んだならまだしも、アイツだったなら俺はなんとも思わない。まぁ、個人的に嫌ってたからな」


 顔をあげて姿勢を崩した先輩に、それって元カノの事ですか、とは聞けない。

 薄々は気づいていた。先輩は、香澄が助かったからじゃなく、和人が死んだのを喜んでいる。

 今さっき、少しだけ笑っていたのもそのせいだろう。

 神崎先輩に恐怖心を抱くのは、これで何回目だろうか。

 いや、きっと神崎先輩は普通なのかも知れない。大人の世界と高校生の間にいる先輩なら、僕よりもたくさんの事を知っている筈だし……


「なんか嫌な事言ったな、俺。でもお前は何も気に病む事はないぞ? 好きな選択肢を選べばいい。何を選んだって、誰も文句は言わねーよ」


 遠回しに千野先輩の事を言われているのは分かっている。

 父さんも、神崎先輩も、僕に機会を与えてくれているんだろう。


 香澄の不幸に対して何もできなかった事を気に病む事はない。

 それは僕のせいじゃないのは十分に理解している。

 それなのに、選べないのは僕が真実を知らないからだろう。


 先輩が言っていた事は全て正しいのかも知れない。でも、それは先輩の知っている事実に関することだけで、だ。

 僕だけが知っている事実の説明がつかない。

 香澄の両親は、香澄を見捨てる必要がなかった筈だ。

 

 そうだとすると、今まで聞かされてきた真実が違うんじゃないかと思ってしまう。

 もしかしたら本物。でも、確証がない。

 その真実こそが、僕がどう行動すべきなのかを教えてくれるんだろう。


 太陽を選ぶか月を選ぶか。

 明るくて楽な舗装された道を選ぶのか。暗くて過酷なイバラ道を選ぶのか。

 僕は、正しい選択をしたい。後悔をしないためにも。


「ありがとうございます、先輩」

「お前も随分と心が強くなったみてーだな? 俺も先輩として嬉しいぞ。俺は今から部活間に合うから行ってくっけど、お前も行くか?」

「僕は明日から行きます。部長に断っておいてくれますか?」

「分かったよ、しゃーねーから今日だけ特別な。なんか分かったら、連絡くれよ? じゃあまた明日な」


 ついこの間まで、ラフプレーを連発していたとは思えない程に軽快な足取りで、先輩は病院を後にした。

 そしてそれからほんの三十分後。名倉先生が朝ご飯を買いに行こうとしていた僕を急ぎ足で追いかけてきた。


「涼太君、君に伝える事がある」

「もしかして香澄は……」


 名倉先生の慌てようから、僕は最悪の事態を想定してしまった。


「いや、香澄ちゃんは生きている。でも、死んでいるのと変わらないかも知れない」

「それはどういう……」

「かなり深刻な昏睡状態に陥っている。言いにくいが、いつ目覚めるかわからない状態だ。一ヶ月や二ヶ月では効かない。もしかしたら数年かも知れない。それに、状況が急変すれば、いつ命を落としてもおかしくない。今は本当になんとも言えない状態なんだ。ただ、それだけは分かってくれ。」


 ……死んでは、いない。でも、香澄の口から真実は聞けない。

 もう会えない可能性の方が高い。薔薇の道に、毒の棘が生え始めた。


 そして僕は目に見えない誰かにこう問われた気がした。


 「それでも君は、待ち続けるのか?」と。

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