第14話:新たな約束

 千野先輩と部活後の勉強会を始めてから一週間と二日が経った。

 相変わらずあの黒バイクは毎朝目撃する。

 でも、僕の精神的ダメージは日に日に減っていった。

 

 それもこれも、親友達と先輩方のお陰だろう。

 教室では、健斗達と楽しく過ごし、部活後は千野先輩に勉強を教える日々。

 心の隙間を感じさせないような、充実した日常。


 そして、千野先輩は本当に勉強ができなかった。

 全教科中三レベル。高校の範囲に入る前に、中学のおさらいから始めることになった。

 それでも、先輩の飲み込みは早く、三日目ほどで高校範囲に入れた。


 やればできる、と二日目に言っていたけど、本当にその通りだった。

 普段は部活と家事で忙しく、ただ勉強する時間が取れていないだけ。

 今は花ちゃんが家事を率先して手伝ってくれているから、先輩にも勉強する余裕ができたみたいだ。


 千野先輩と一緒にいると楽しい。勉強を教える事で僕もやり甲斐を感じられる。

 それでも、僕の心には二つ大きな引っかかりがある。

 一つ目は香澄の事。

 だけど、もう一つ、神崎先輩のことが気がかりだ。


 何回誘っても、神崎先輩は「用事があるから」と言って一人で帰ってしまう。

 一人で勉強しているのかも、とも考えたけど、どうにも様子がおかしい。

 まるで僕を避けているかのような挙動。

 忙しない先輩を見るのは初めてだから、不思議と不安に駆られてしまう。

 でも、今は知ることは出来ない、聞いてはいけない事柄なんだろう。


 そんな心の蟠りを残しながらも、いつも通りに千野先輩の家へと到着。

 今日は日曜で、久しぶりにお母さんが仕事休みらしい。

 普段は夜遅くまで仕事をしているみたいで、今まで一度も会ったことないからかなり緊張している。


 少し震える手でインターホンを押すと、ドタドタという元気な足音の直後に、勢いよく扉が開いた。

 

「ヘタレの兄ちゃんや! お母ちゃん、このヘタレがヘタレのにいちゃんやで!」


 お母さんへの最初の印象はヘタレで確定してしまった。 

 そう思っている僕の前に現れたのは、少し病弱そうな痩せた美人。

 先輩と同じ色の茶髪ロング。目元にはくっきりした隈があって、シワが目立つけど、若々しく見える。

 ワンピースにも見える部屋着に身を包んだ、千野先輩のお母さん。


「こんにちは。初めまして。僕は山田涼太と言います。いつも千野先輩にはお世話になっております」

「君が涼太くんやね? いつも愛と花を構ってくれてありがとうございます。愛の言った通りのええ子みたいやね。おばさん安心したわ」


 疲れた声だけれど、それでも先輩の顔立ちそっくりだ。

 優しそうな雰囲気で、何処と無く僕の母さんに似ている気もする。

 

「そう言ったやろ。全く、お母ちゃんは心配性やな〜」


 二人の後ろから、ジャージ姿の先輩が顔を出した。

 平日と違って髪はボサボサだ。

 

「愛、あんた何ちゅう格好しとるんや。そんなんやから、彼氏がいっぺんもできた試しがないんやろ?」

「お、お母ちゃん、そりゃひどいわ〜。それに、涼太くんはそんな事気にせーへんもん。な、涼太くん?」


「え、えーと。気にしません、ね」


 戸惑う僕を見て、お母さんが笑みを浮かべた。

 

「まぁ上がって下さいな。狭い家でごめんなさいね」

「いえいえ。お邪魔します」



 お母さんがいるだけで、家の中が普段よりも柔らかい雰囲気に包まれているような気がした。

 いつもは僕にべったりな花ちゃんも、台所でお茶を用意してくれているお母さんの足元にいる。

 千野先輩は人の何倍も努力して、この幸せな現実を守り抜きたいのだろう。

 

 きっと、目標を持つ事が大切なのかもしれない。

 

 僕も今、千野先輩をテストに合格させる事で必死になっている。

 他の懸念を取っ払ってでも、千野先輩の望みを叶えたいと思えている。

 だから僕も今、着実に前に進めている。

 

「おーい、涼太くん? なにぼーっとしてんねん。アホになったんか?」


 テーブルの向かいに座っている千野先輩が、間抜けに停止している僕の顔の前に手をかざした。

 未来への一歩を踏み出せていることが嬉しくて、つい感慨にふけってしまった。

 実際に助けているのは僕の方なのに、千野先輩には感謝しきれないほど救われている。


「すいません。でも、僕がアホになったら勉強教えられませんよ?」

「そりゃあかんわ〜。じゃあもう用済みや……ってバカにしとんのか! ええからここ教えて。もうホンマに時間ないんよ」

「分かりました、じゃあ頑張りましょうか」


 千野先輩の集中力は素晴らしいとしか言いようがなかった。

 花ちゃんが隣でおやつを食べていても、お母さんが僕に質問してきても、黙々と例題を解き続けていた。

 一人っ子の僕には、勉強中に誰か周りにいる環境では、普段の二分の一も集中できないだろう。

 本当に、千野先輩は尊敬に値する。

 

 真面目に勉強をしている千野先輩を見つめいていた僕に、お母さんが唐突な質問をぶつけてきた。


「涼太くんは愛のこと好きなんか?」

「え、えーと。好きと言いますか、尊敬しています」

「こんなアホを尊敬したらアカンって。涼太くんはお利口さんやのに、それは分かってなきゃアカンよ」


 と、満面の笑みで娘をからかうお母さんに、僕はただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 千野先輩は僕たちの会話など聞こえていないかのように勉強を続けていたけど、好きなのか、と問われた僕の頬は少し紅潮していた。

 恋愛感情は抱いていない筈なのに、不思議と顔が熱くなる。

 もしかしたら女性として好きなのかもしれない。でも、僕の心には香澄の存在が大きく残っている。

 こんな曖昧な気持ちで、早合点するのは間違いだ。

 一週間前の出来事で、僕はそれを嫌と言うほど実感した。

 焦って自分の気持ちを整理しようとしても、最終的に待っているのは破滅。

 神崎先輩と絢香さんのアドバイスは全て正しい。でも、あの頃の僕には早過ぎた。

 経験者の言葉でも、実際に経験しない限りその重要性は理解できない。

 千野先輩との交流を通じて、僕はやっとこの答えを導き出せた。

 だから、千野先輩には心から感謝している。

 

 時刻は夕方になり、僕は千野先輩のお母さんの手料理をご馳走になった。

 関西名物のお好み焼き。今まで食べたことのない程に格別の代物だった。

 流石は本場の味。そう絶賛したら「また食べにお出で」と言ってもらえた。

 お母さんともいい関係を築けたような気がして、ホッとした。


 夕食後も勉強を続け、現在時刻は夜八時。

 一日中騒いでいた花ちゃんが眠そうだったので、僕はいつもより早めに帰宅することにした。


「じゃあ僕はそろそろ帰りますね」

「ごめんな〜、今度はもうちょい早く来てくれな? おばさん、いつでも待っとるからね」

「ありがとうございます。お邪魔しま……」


「待って、ウチが送ってく」


 靴を履いて玄関を出ようとしていたところに、千野先輩が駆け寄ってきた。

 かなり集中して勉強していたから、邪魔しないように帰ろうと思ったんだけど、大丈夫なのかな?


「でも、勉強が……」

「ええねんええねん。もうほぼバッチリや。それに明日も教えてくれるんやろ?」

「そのつもりですけど……」

「じゃあ平気や。お母ちゃん、一時間で帰るで」


「はいよ。気つけてな」



 バタン、と閉まるドア。

 先輩はジャージ姿のまま、サンダルを履いて僕の前を歩き始めた。


「千野先輩、僕一人でも大丈夫ですよ? それに痴漢がいるって……」

「大丈夫や大丈夫。後でまた涼太くんに送ってもらうつもりやから」

「え、それって二度手間じゃ……」

「細かい事気にせんと、はよ行こか」

 

 早足で歩を進める千野先輩をただただ追う事しかできない僕。

 夜道で二人になったことは……あの夜に少しだけあったか。

 それでも少しだけ緊張してしまう。

 いつも明るい先輩が、何も言わずにただ歩き続けている。

 それだけなのに、何かただならぬ事が起きる前兆かのような。僕にとってはそのくらい張り詰めた空気に感じられた。


「なぁ、涼太くん。ちょっと寄り道しよか」

「寄り道、ですか?」

「近くに公園があんねん。ウチ金ないからそこ行こか」

「は、はい。分かりました」


 そして再び沈黙が訪れた。

 千野先輩は何かを言いたそうに、聞きたそうにしている。

 先輩が何かを躊躇う姿を僕は見たことがない。

 まだ一週間半しか経っていないから、先輩の知らない部分があっても当然、か。


 公園は先輩の家から歩いて五分程の所にあった。

 ブランコと滑り台しかない小さな公園。

 儚い光を放っている電灯の下にあるベンチで、先輩は大きく股を広げて座った。


「涼太くんもはよここ座り」


 パンパン、とベンチを手で叩いて招いてくる。

 小さなベンチで、先輩の隣に座ると体が密着してしまうだろう。

 先輩もそれは分かっている。それでも僕を誘っている。

 少し高鳴る胸を抑え付けて、先輩の隣に座った。


「涼太くん、無理しとらんか?」

「無理、ですか? そうですね、ちょっと狭いですけど別に無理だと思う程ではないですよ」

「ちゃうわアホ。ベンチの事やあらへん。涼太くん自身の事や。あれからまだ一週間しか経っとらんけど、無理しとらんか?」

「無理はしてないですよ。と言うより、今は着実に前に進めている気がします。先輩のお陰です」

「ウチは何もしとらんやろ。ウチなんてただ涼太くんに勉強教わってるだけやないか。他には何もしてへん。何も、お返しできることがあらへんよ」


 何もお返しできる事がない……僕が神崎先輩に思っているのと同じ事だ。

 それに、千野先輩にも同じように思っている。

 でも、千野先輩は僕に恩義を感じているみたいだし……


 もしかしたら、無意識下で人は誰かを支えられているのかもしれない。

 だとしたら僕は一体どう言う形で神崎先輩を支えられているんだろうか。

 自分で考えても分からない。だけど、神崎先輩が僕を助けてくれるのには必ず理由がある筈だ。

 可愛い後輩だから、だとしても、僕なんかを構ってくれるのには理由がある。

 他の誰でもない、僕みたいなヘタレを好んで面倒見てくれるワケが。


「先輩は十分すぎる程僕を助けてくれていますよ。でも、僕にはそれを言葉で表現できないかもしれません。それでも、先輩には感謝しています。それこそ、僕には返すものなんてありません」


 僕の言葉を聞いた千野先輩は、街明かりで見えないはずの星空を見上げた。


「ウチにはよお分からん。けど、そう思ってくれてるならええわ。涼太くんは世辞が言えるほど肝が据わっとらんもん。やけん信じるよ」

「そ、それは褒められてるんですか?」


 僕の慌てように、先輩はクスクスと笑った。

 いつもの大声量での笑い声とは違い、何処と無く優しい笑い方。


「もしかしたらけなしとるかもわからん。でも、ウチはそんな涼太くんが嫌いやあらへんよ。大衆の面前で泣きじゃくっとった優しい少年でも、ええと思うよ」

「わざとですか? 僕の古傷を広げようとしてますよね?」

「っぷ。涼太くんも関西人見たくなってきたな。ウチは嬉しいで〜」


 千野先輩と話していると楽しい。でも僕は、先輩が何を言いたいのかがよく分からない。

 いや、今先輩が言っている事が本当の事なのかもしれない。


「先輩が喜んでくれたなら良かったです。僕も本望ですよ」

「そんなんでええのか? 流石はヘタレのお兄ちゃんやね」

「ちょ、それは花ちゃんの……」


「っぷ。ホンマ、涼太くんはいじりがいがあるわ。篤の言ってた通りやね。可愛い可愛い後輩くんや」

「神崎先輩は一体なんて言ってたんですか?」

「気になるか? まぁ、可愛い可愛い言うとるだけよ。なんかほっとけないんやって。たまにオカマなんちゃうか思うけどな、お姉ちゃん大好きっ子やからどちらかと言うとシスコンやな」


 神崎先輩が見事に誤解されているような……

 確かに側から見ればシスコンかもしれないな。僕は絢香さんの性格を知っているから理解できるけど、それを知らない状況だと難しい。


「いかんいかん。話が逸れてもうた。なんか急につまらん事言ってごめんな。テスト終わったら、どっか遊びに行こか?」

「もちろんですよ。先輩が部活で忙しくなる前にまた遊びましょう」


 僕が快く返事をすると、先輩はベンチから立ち上がった。

 両手を後ろで組んで、軽やかな身のこなしで歩き始めた。


「ほんだら帰るでー。ちゃんと送ってくれるか?」


 そう言いながら僕の方へと振り返り、少しだけ上目遣いのイタズラな表情を見せた。


「分かりました。じゃあ行きましょうか」


 早合点してしまいそうになる。でも、やはりこれは恋愛感情ではない。

 ただの男の本能。美麗なモノを手に入れたがる、ただの欲望。

 大切な先輩をそんな汚れた眼では見たくない。


 でも、新しい約束遊びに行くのは楽しみだな。

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